6.人を死なせど僕は死なず
少女の背後から男が迫って来ていた。数十メートル先にいるその男は、中肉中背でグレーのスーツを着ていた。はたから見たら会社勤めのサラリーマンにしか見えない。
でも目は虚ろで、歩き方もゾンビのようによたよたとしていた。明らかに正気を失っている。
僕は少女の手を引っ張って逃げた。
「どこに行くの?」
少女の声には不安そうな感じもなく、怖がっている様子もない。ただ純粋な興味からそう聞いているだけみたいだ。
「とにかく、逃げる」
僕は闇雲に走り続けた。辺りはもう暗い。ちょっとした物陰にでも隠れてしまえば、簡単にまけるはずだ。
見たこともない道に出て、すぐに右に曲がった。右の方に橋が見えたからだ。橋の下なら隠れるのにぴったりだと思った。
僕は少女を連れて一目散に橋の下に向かった。そして膝に手をついて息を切らした。久しぶりに全力疾走した弊害で、盛大に汗が噴き出ていた。なんとか呼吸を整えて気になっていることを質問した。
「あの人はなんなの?」
「分からないけど、たぶん、メモリーカードの影響だと思う」
メモリーカード?ゲームの話だろうか……。
普段ならこういう人間とは距離を置いている。痛々しいと言われる僕だが、明らかに電波な方とは付き合わないようにしている。
この少女は変な格好でこの暗い中をうろつき、この緊迫した状況でゲームの話をしている。電波なのは明らかだった。
でも、少女は実際に血を流していた。どういうトリックであの傷を治したのかは分からないが、あの傷は確かに存在していた。そしてなによりも――助けてと、言われた。
僕は覚悟を決めた。
じゃり、という砂を踏みしめる音が背後から聞こえた。そこにはゾンビのような男がいた。
僕は無意識に制服の上着のポケットに手を入れた。ポケットにはカッターナイフが入っていた。教室の飾り付けを手伝った時借りて、戻し忘れたものだった。
僕はちきちきと安っぽい音を立てて、カッターナイフの刃を出した。
そして、走り出した。
本当は分かっていたんだ。本当は見えていたんだ。男がナイフを持っていたことも、その少女の血がべっとりとついたナイフで反撃を食らうことも分かっていたし、見えていた。
それでも僕は突っ込んだ。それはたぶん表向きには少女を守るための正当防衛で、自己犠牲を苦にしない姉に憧れた行動に見えた。
でも真実は違った。
僕はずっと夢見ていたんだ。誰かを助ける為に死ぬことを。
溺れている人を見たら、助けるふりをして溺れることを目指していた。
姉の信念をそういう形で利用しようとしていた。だから先生には僕の目標を言うわけにはいかなかった。
なぜそんな目標を持ったのかは、今となっては判然としない。いつからか気づいたらそんなことばかり考えるようになっていた。人生に絶望したわけじゃない。英雄になりたかったわけじゃない。
ただ、死にたかったんだ。生きていたくなかったんだ。でも自殺は出来なかった。
死に対する単純な恐怖と、姉への罪悪感がそれを止めてしまった。
でもきっと、これなら、姉ちゃんも許してくれるかもしれない。
不思議だ。今まで、死後の世界なんて信じたことないのに、死んだら姉ちゃんに会える気がしてしまう。困った時の神頼みのように、今になって死後の世界を信じている。
都合の良い考え方だ。甘く、甘っちょろい子供みたいな考えだった。
『まだまだ子供じゃないか』
幻聴が聞こえた。姉ちゃんの声だった。死ぬ間際には走馬燈を見ると言うが、僕にはどうやらお迎えの声が聞こえたみたいだった。
『お迎えじゃねえ。お前はまだこっちに来る時じゃねえだろ』
姉ちゃんは少年のように笑うと、消えてしまった。
僕は目を覚ました。
生きている。そのことに気づいた時浮かんだのは、なぜ生きているのかという疑問ではなくて、死ねなかったことに対する落胆だった。
僕は上体を起こして、事態の確認をした。僕が寝ていたのは病院とかではなくて橋の下だった。時間も夜から朝になっていた。携帯電話で時間を確認すると、もう午前八時半だった。遅刻確定だ。
ふと、昨日のことは全部夢だったのではないかと思った。その方が僕にとっては現実的だった。
でも、制服は穴が開き血で汚れていた。
それは昨日のことが紛れもない現実であるという証拠だった。僕はべたつく制服を脱いで傷の確認をした。傷は綺麗に塞がっていた。縫い目もなく、そこに穴が開いていたなんて気づく人はいないくらいだ。
そしてもう一つ消えていたものがあった。それは男の死体。昨日僕が殺したはずの死体が消えていた。
昨日のことが現実で、僕がここに放置されていたのを考えると、まだ警察や地域住民には知らていないということだ。なのにそこにあるはずの死体が無い。
「それなら、私が片づけておいたよ」
視界の端からひょっこりと少女は現れ、気が利くことを自慢するように言った。
「そっか。ずっとここにいたの?」
「うん、まあ君が目覚めるまではと思って。ていうか、寒くないの?」
言われて急に寒くなった。この時期に上半身裸はまずい。ただでさえ夜を外で過ごして風邪気味だというのに……。僕は急いで制服の上着を着直した。血の感触が気持ち悪いが仕方ない。
「じゃあ、僕は帰るよ」
傷もなく、風邪気味なこと以外体は平気だった。ここにいる理由はもうなかった。
「そっか、じゃ、さよならだね」
少女は特に別れを惜しむ様子もなかった。僕も同じように特になにか思うことはなく、ただ失敗した自殺のことを思っていた。