5.人を殺す十分前
教室に戻った僕は、教室の飾り付けをやっている生徒の手伝いをした。そして皆が帰るのと同時に、僕も帰ることにした。
外は日が暮れてすっかり辺りが暗くなっていた。白い息を吐きながら、僕は歩いていた。道は昨日降った雨で濡れ、そこら中に水たまりが出来ていた。けれど僕は避ける気も起こせず、ばしゃばしゃと音を立てながら歩いた。
先生の言葉は未だに僕を苦しめ、気持ちを沈ませていた。
先生は一応教師として真っ当なことを言っている。目標も持たずだらだらと生きている怠け者に、ちゃんとしろと言っているだけだ。
いじけてないで、大人になれと言われているだけだ。
僕は溜息をついた。僕の悩みなんてそう珍しいものじゃない。このくらいの年頃なら、皆大なり小なり将来に対する不安を持っている。僕の場合その悩みに、姉の死という少し特殊なものが加わっているだけだ。その特殊さに甘えているだけなんだ。
本当はきっと、大したことはないんだ。もっと悲惨な目に遭っても、立ち直って立派に生きている人はたくさんいる。僕の心が弱いだけだ。問題は僕にある。
「そんなこと、分かってんだよ」
吐き捨てるようにそう言うと、僕は水たまりを蹴飛ばした。子供っぽく、物にあたった。馬鹿みたいだ。
「大丈夫?」
突然、声をかけられた。透き通る氷のような、冷たい声だった。
振り返ると女の子がいた。同い年くらいで、背の低い、全てを飲み込むような黒い長髪だった。
心配の言葉を投げかけられたのだから、答えようと思った。でも、その子が足から血を流していたからそれどころではなくなってしまった。
「君こそ大丈夫か?血が出ている」
血で濡れた大腿部を指差してそう言うと、少女は痛がる素振りも見せず答えた。
「大丈夫。こんなのすぐ治るから――そうパパが言ってた」
無表情に、無感情に、少女は言った。顔色は変わらない、まるで人形のようだ。それに口調が静かだから緊迫感が一切なかった。多分誰かに刺されて、追われているのだろうけれどそれにしては、少女は酷く冷静だった。
いや、そんな唾つけとけば治る程度の怪我ではない。今もだくだくと血が流れている。多分刃物か何かで刺されたんだろう。傷口はよく見えないがそんな感じだ。
「ほら、こうすれば」
そう言って少女は右手を傷口にあてた。まさか本当に唾をつけるんじゃないだろうな。
「とにかく病院に行こう。なんだったら救急車を呼ぼうか?」
そう言った時だった。少女が傷口に触れ終え、右手を大腿部から離すと、傷が――消えていた。
僕は目を見開いてよく見た。はた目から見たら今の僕は少女の大腿部を凝視する変態に見えていることだろうけれど、それでも観察した。肌についた血はそのままだったが、傷口は確かに塞がって、流血も止まっていた。
「ね?治ったでしょ?」
僕は反応に困りながら、ゆっくりと頷いた。
よく見ると少女は奇妙な格好をしていた。ポケットもなければボタンもないワンピースだった。けれど、色が白く布も薄いから入院服に見えた。
「そ、そうか。治ったならまあ良かった。じゃあ僕はこれで」
振り返って、家とは逆方向に向かって歩こうとした。
「待って」
けれど少女が僕の袖を掴んで引き留めた。
「助けて」
その時初めて、彼女の顔が歪んだ。悲しそうに、恐怖に打ちひしがれている顔になった。
僕は固まってしまった。不意に姉のことを思い出したからだ。姉は助けてと言われる前に人に手を差し伸べる。そのため時には失敗もあった。余計なお世話をしてしまうことも多かった。でもその代わりに、誰かに助けを求められたことはなかった。いつだって相手が言うのは「ありがとう」だった。
僕は、少しだけ考えて――「分かった」と言った。