彼女の誘い?
授業というものは憂鬱だ。長い時間椅子に座り、数式や英単語、古文や歴史、さして興味の湧かない事柄を頭に入れなくてはならない。苦痛以外のなにものでもない。思うに、勉学という行為がつまらない理由は、大人が決めたルールに従っているからだろう。
大人は子供を、自分たちの所有物と勘違いしているに違いない。テストという篩にかけ、学力に応じて区別する。持ちものを整理するのと同じ感覚なのだ、きっと……。
午前の授業を終えた僕は、椅子の背もたれに背中を預けて一息吐く。まさか転校初日から篩の上に乗せられるとは、ついてない。
「ちくしょう、抜き打ちテストを仕掛けてくるとはな。ついてないぜ」
馬刀葉も同じ感想のようだった。結果に自信がないのか、その表情は優れない。
「いいか転校生、よく覚えておけ。あの数学教師は性悪で有名だ。なにも抜き打ちテストは今回が初めてじゃない。二年に上がって三回目だ。三回だぞ。多すぎだっての。一回目は進級したての四月で、二回目は五月の連休明け、そして三回目は夏真っ只中の七月ときたもんだ。実施は完全にランダム。全て教師の気分次第。おかげで対策を立てるのは困難を極める。更に言うなら、抜き打ちテストの結果は成績にダイレクトに反映されちまう。オレたちはいつ行われるかわからないテストにビクビクしながら授業に望んでいるんだ」
馬刀葉はヤケになっているようだった。
「抜き打ちってそういうもんだろ。生徒を普段から勉強させるための手段なんだって」
「お前はずいぶん冷静だな。さては結果に自身があるんだな。これが都会の学校に通っていた余裕ってやつなのか。負けたぜちくしょう!」
なんの勝負なのか知らないけど、馬刀葉は悔しがっていた。
「でっ、真面目な話どうなんだ。問題解けたか」
「どうだろうな。一応、解答欄を埋めるには埋めたが、記入した答えが正しいかどうかはわからん。当てずっぽうで書いたところもあるしな」
数学なんてそんなものだ。例え公式がわかったとしても、些細な計算ミスで最終的な答えが違ってしまう可能性がある。
「悔やんだって後の祭りなんだ。後悔するだけ損だぜ。すぎたことは忘れるのが一番だ」
「達観したやつだな。気に入った。特別にオレさまと親しくする権利をやろう。この学校で困ったことがあったらなんでも相談してくれ、友よ。ただし勉強と金銭以外でな」
僕と馬刀葉は互いの拳を軽く触れさせた。
友達か。悪くない。家族、友人、幼馴染。全て故郷に置いてきた身の僕にとって、こいつの存在は心強かった。
そんなわけで、僕と馬刀葉は昼食を共にすることにした。弁当は持参していない。校内には食堂があるようなので、そこを利用する。
食堂は一階のフロアを丸ごと使用しており、内部は広い。吹き抜けの天井も開放的で、天窓からは光が燦々と差していた。
「量はそこそこ、味もそこそこ、値段はなかなかリーズナブル。口に合うようなら、それなりに優雅な学校生活を送れる。なんせ財布に優しいからな。昼飯代を小遣いに回せる」
そう言って馬刀葉は、唐辛子をたっぷり振りかけたうどんをズルズルと啜った。
僕も自分のソバを口にする。別段悪くない味だ。
「どうだ。美味いか?」
「ああ。どうやら、それなりに優雅な学校生活を送れそうだ」
馬刀葉は口いっぱい頬張りながら、親指を上にグッと突き上げた。
「ただ、毎回毎回ここのメシも飽きるからな、たまに弁当持参でくるときもある。願わくば、一度でいいから屋上で弁当を広げてみてえな。生徒の立入を許可してくんねえかな」
思うに、こいつは学校という空間を楽しんでいるのだろう。休憩時間に聞いたところでは、僕の席を決めるやりとりも、予め担任と仕込んでおいたそうだ。「お約束ってやつを現実にやってみたくて、つい……」。そう語る馬刀葉は、悪戯を企てる小さな子供と同じ目をしていた。
「ここ空いてる? 空いてるよね。はい、座ったからもうあたしの場所ね。ほら、狭いから久はもっと隅に寄ってよね」
唐突に割り込んできた天降が、馬刀葉を端に追い遣り、自分の場所を確保した。
彼女は弁当を持参してきているらしく、テーブルの上で弁当箱の包みを広げる。渋い唐草模様のハンカチだ。
「おっ、その厚焼き玉子一つくれ」
「無償提供はお断りします」
「仕方ねえ、この麺を一本やる」
「率直に言うけど、舐めんなよコラア」
微笑ましいやりとりを挟みながら、僕らは昼食を終える。
「さてと十夜、飲みたいものはあるか? 今だけ特別に、このオレさまが奢ってやろう。転校祝いと思ってくれ」
「マジで! ありがとな馬刀葉。じゃあアイスココアお願いするぜ」
断ることは失礼に当たる。人の善意には素直に甘えるのが吉なのだ。
「あたしはソーダ―ね。売り切れてたらグレープでも許すわ」
「もう一度言うが、これはオレから十夜への転校祝いだ。お前の分はお断りだ」
断られ、唇を尖らせる天降。
「いいですよーだ。自分で買ってきますよーだ……」
天降は拗ねたような口調で席から立ち、販売機の方に歩いて行った。その後ろに続く馬刀葉。
テーブルが僕一人だけになったとき、こちらに近づいてくる人影に気づいた。
「少し話してもいいかしら?」
――有国織衣だった。彼女は艶っぽい笑みを浮かべながら、僕の前に腰を下ろした。
「そっ、そうだ。今朝は助かったよ。君のおかげで大事なクローバーを無くさずにすんだ。ありがと。遅ればせながらお礼を言うよ」
あのとき有国さんは急いでいたようで、僕にクローバーを渡すや、すぐに行ってしまった。言葉を交わす暇なんてなかった。授業間の休憩時間に話しかけようにも、なかなかタイミングが掴めなかった。彼女とまともに話すのはこれが初となる。
かなり緊張する。心臓は激しく脈打ち、掌は汗ばみ、口内はカラカラだ。クローバーを届けてもらったことにより、僕の中で彼女は特別な存在となっていた。
「まさか、今朝出会ったあなたが、話しに聞いていた我がクラスの転校生だったなんてね。なんか昔の少女漫画みたいな展開だわ」
そう言って有国さんはテーブルに両肘をつき、上目づかいに僕の方を見つめてくる。そして、「運命ね……」と意味深な言葉を放った。
「この出会いは運命よ。私とあなたには、運命的なものが存在するに違いないわ」
この出会いが運命、それはとても素敵な言葉に思えた。周りの風景が見えなくなり、目の前の彼女しか認識できなくなってきた。この世界の中に、僕と彼女しかいないような錯覚に陥る。
「よかったら放課後、二人きりで合わない?」
僕は二つ返事で承諾する。断る理由なんてどこにもない。
「ありがとう。じゃあ放課後……」
そして有国さんは待ち合わせ場所を告げると、テーブルから離れて行った。
「今のは有国さんだったよね?」
天降が帰ってきたようだ。その横には馬刀葉もおり、二人共ジュースの紙コップを手にしている。
「なにを話していたんだ?」
一拍迷うも、隠す必要はないと判断し、僕は先程のやりとりを二人に話した。
冷やかされるかと思いきや、二人は曖昧な表情を浮かべたのみに留まった。
「なるほどね、有国さんから誘われたわけか。まあ、いわゆる……あれよね」
「一つ言えることがある。それは彼女からの誘いが、十夜が期待しているようなものではないということだ。オレからアドバイスをするなら、イヤならはっきり『ノー』と言えということだ」
二人の意味深な言葉から、僕は微かな不幸の臭いを嗅ぎ取った。