不幸は初日から
ふいに顔に冷たい刺激が奔り、僕は足を止めた。
「あら、大変。どうしましょ!」
声がした方に目をやると、太ったおばさんがこちらに歩いてくるのが確認できた。右手には柄杓を持ち、左手にはバケツを提げている。どうやら打ち水をしていたところ、誤って僕にかけてしまったらしかった。
「ごめんなさいね。あなたがいたの気づかなかったわ。これ使って」
渡された手拭で顔の水滴を拭う。
「濡れた服もなんとかしないと。えーと着替えは……」
「お気遣いなく。この暑さならすぐに乾きます。それに、慣れてますから」
「そう、それならいいわ……」
僕が怒ってないことがわかりホッとしたのか、おばさんの顔に安堵が広がる。
「ところで、あなた見かけない制服ね。どこの生徒?」
無駄話モードに切り替わったのを察し、僕は「桜浜です」と言い残し、素早くその場から立ち去った。
慣れたものだ。歩いている最中に水を被るなんてのは珍しいことではない。よくある日常の一コマだ。いつだったか、運送トラックがぶちまけた保冷用の氷に埋もれたこともある。それに比べれば些細なものだ。怒りも湧いてこない。
溜息を一つ吐き、空を見上げる。低空を羽ばたくツバメに、天高く聳える巨大な入道雲。いい夏空だ。
学校へは、あと二十分ほどで到着だろう。七月初頭の真夏日とはいえ、それまでに服が乾くのは難しいだろうか。まあ、乾かないなら乾かないでも構わない。どうせ向こうに到着したら指定の制服に着替えるのだから。
まさか転校先の制服が間に合わないとは……。宅配業者が不手際を起こし、届くはずだった制服を紛失してしまったのだ。弁償はしてもらったものの、発覚が遅かったせいで、今日の初登校には間に合わなかった。私服で登校するわけにもいかないので、仕方なく前の学校の制服で登校することにした。
これも全て僕の不運のなせる業だ。今朝起きたとき、どういったわけか冷蔵庫のコンセントが抜けていた。卵と乳製品は全滅、飲みもの類は生暖かく、朝ご飯用に買っておいたコンビニのおにぎりは微妙な味に変質していた。
さっきの打ち水といい、新しい街でも僕の運勢は一向に改善されないらしかった。
……幼い頃から不幸な目にばかり合っている。
幼稚園時代は僕の分のおやつが足りなかったことが何度もあるし、小学校に入学してからは、突発的な不運に見舞われる機会が増えた。
車に水を跳ねられるのは基本として、マンホールの蓋が外れて下水に転落したことや、頭に看板が落ちてきたりしたこともあった。ドブにハマった回数は記憶しているだけでも十回は超えている。中学に上がると、降りかかる不幸もより理不尽になってきた。急いでいるときに限ってバスが遅れたり、電車がストップしたり、頭を洗っているときに水道が止まったり、もはや悪霊に憑かれているとしか思えなかった。きっと妹の病気も僕のせいなのだろう。
薄幸な人生を歩みつつも、不屈の努力が実り、高校は都内屈指の名門私立へ進学することができた。今にして思えば、あれはのちに遭遇する最大級の不幸への下準備だったに違いない。
定期券の紛失や、運動中の思わぬアクシデント。日常的な不幸を嘆きながらも、挫けることなく高校生活を続け、ちょうど二年に進級した頃、ついに最大級の悲劇に見舞われた。親父の勤め先が経営不振に陥ったのだ。
親父が勤務している会社はなかなか大きい。テレビでもたくさんCMを流しており、誰もが一度は社名を聞いたことがあるくらい有名なところだ。いわゆる大企業というカテゴリーに属していて、日本のサラリーマンの平均より、幾分か多めの収入を得ていたのだ。そのおかげで学費がバカ高い名門私立にも、僕はなんなく在学していられた。とはいえ、そこが経営不振に陥ったのなら話は別だ。
会社社長の記者会見はニュースでも大々的に報道された。円高とか株価暴落とか、高校生には縁のない単語が羅列される中、大規模リストラという発言にはイヤなものを感じた。
結論から言えば、親父はリストラを免れたものの、給料は大幅に減ったらしい。それに伴い、僕の学費を賄う余裕が家計から失われてしまった。学費が払えないなら学校を辞めなくてはならない。僕は他校への転入を余儀なくされた。
せっかく名門に入学したのに、辞めなくてはならないなんて。あの苦しかった受験勉強はなんだったんだ。「ぜんぶ水の泡だ!」、こんな台詞をリアルに発する日がくるとは……。
過去への情念に胸を焼いていた僕の耳に、車のクラクションが響く。アッと思った瞬間、すぐ脇を大型トラックが通過して行った。
危なかった。もっと周りに注意しないと。引っ越しを終えたばかりで身心共にクタクタだけど、不幸は手加減などしてくれない。気を張って行動しなければ足元を掬われてしまう。こんな見ず知らずの街で命を落とすのはゴメンだ。
某県の真ん中に位置し、そこそこ大きくて、それなりに発展しており、首都圏には及ばないまでも退屈しないぐらいには娯楽も揃っている街、『桜浜市』。戦後、県庁所在地のベッドタウンとして開発され、その後の高度経済成長の波に上手く乗ることができた。バブル崩壊の煽りを食らいつつも、多くの企業の誘致に成功したおかげで、現在でも高い水準の都市経済を維持しているらしい。事前に調べた桜浜市の歴史はこんなところだ。
この街が熱心なのは経済活動だけではない。若者の教育にも力を入れている。街の中心には大学の立派な校舎が立ち、学生たちに快適なキャンパスライフを提供している。街の北側、南側、東側には高校が一高ずつ設立されており、それぞれ『北高』『南高』『東高』の愛称で呼ばれている。僕こと井坂十夜が向かっている先は、南側に位置する『南高』だ。『私立桜浜高等学校』が正式な名称になる。
僕はこの街の教育制度に救われることとなった。市の方針により、中学から高校、もしくは高校から大学に進学する際、一定以上の偏差値を有している学生には、市が学費の何割かを負担してくれるのだ。これは他の県や市から転入してくる学生にも適応され、僕はなんとか学費負担の範囲に含まれた。
実家を離れアパート暮らしをするハメになったけれど、第二の高校生活を開始できるのは喜ぶべきことなのだろう。
様々な思いを噛みつつ、僕はバッグにつけているキーホルダーに触れた。四葉のクローバーを模したもので、実家を出るとき、妹の麻美奈がくれたものだ。不幸ばかりの僕が、少しでも幸せになるようにとの心遣いだ。
井坂麻美奈。歳は僕より一つ下で、容姿端麗で性格のよい、自慢の妹だ。本来なら幸せな人生を約束されていたはずなのに……。麻美奈は幼い頃から呼吸器系の病気を患っているのだ。それも治療困難な難病ときたものだ。不憫でならない。
クローバーをきつく握り締めながら、新しい学び舎を目指す。
市街地に入ると、往来する人々の数がグッと増える。擦れ違う人は決まって、珍しいものを見るようにこちらを一瞥してくる。
僕が着ている制服はけっこう目立つ。今は夏なので上はワイシャツだけど、下のスラックスが派手だ。赤と白のチェックに黒い線が入っており、学園ドラマやアニメに出てきそうなデザインだ。身に着けているネクタイも同じ柄で、知らない人が見たらコスプレと勘違いしてしまうかもしれない。
早いとこ学校に行ってしまおう。僕は足を速めた。
交差点を素早く通過し、街路樹の木漏れ日の中を、サッと通り抜ける。
まがり角に差しかかったとき、角から急に飛び出してきた自転車に驚き、反射的に後ろに飛び退く。瞬間、背中に走る弾力と、「きゃっ」という小さな悲鳴。どうやら僕のすぐ後ろを、誰かが歩いていたらしい。
「あっ、ごっ、ゴメン」
振り向き、すぐに謝る。
後ろにいたのは女の子だった。円らな瞳に、通った鼻筋。肌は色白で、ブラウスから出た二の腕がなんとも爽やかだ。長い黒髪は腰まで達し、吹き込む風に揺れるたびに彼女の項を露わにする。制服からするに桜浜の生徒のようだ。
「いえいえ、お構いなく。それより危ない自転車ね。もう少し交通マナーを守ってほしいわ」
彼女は遠ざかる自転車を目で追いながら、苦言を示した。どうやらこちらの非礼は気にしていないようだ。
一礼を残し、彼女が手前の角へ消えたのち、僕も歩みを再開する。
さっきの子、結構可愛いかったな、などと邪な考えに浸ったときだった。更なる不幸が僕に牙を剥いてきた。
バスに置いて行かれそうなのか、はたまた電車の時刻に遅れそうなのか、背広姿のサラリーマンが僕を押し退け走り去って行った。
そのままバランスを崩し、道路脇に積まれている粗大ゴミの山に突っ込みそうになるも、寸でのところでグッと踏ん張る。なんとか体勢を立てなおしたところで、額の汗を拭う。
先程のサラリーマンに心の中で毒づいていると、ふと左足に針金が絡まっていることに気づく。
外そうと無理に引っ張ったのがまずかった。どうやらこれは、積んである粗大ゴミを固定していたもののようで、それが外れてしまったのだから最悪だ。
やっちまった! 溢れんばかりの後悔を胸に抱きながら、僕は崩れ落ちる粗大ゴミに潰されるのだった。
やはり新生活も波乱の幕開けとなってしまった。神様は僕になんの恨みがあるのだ。
嘆きたいことはたくさんあれど、それより今は、この忌々しい廃棄家電の山をなんとかする方が先決だ。
冷蔵庫の下から這い出そうと力を込めたときだった。
「あなた……大丈夫……?」
どこからともなく、女の子の声が聞こえた。
「その……とんでもない状態だけど……。大丈夫……なのかなって……?」
地面から顔を上げると、二メートルほど前方に靴のつま先が確認できた。
「ああ、お構いなく。よくあることだから」
僕の軽い答えに、彼女は、「そう、なんだ……」とだけ口にした。
歳は僕と同じ十七歳くらいだろうか、肩まであるセミロングの髪が印象的だ。制服を着ていることから彼女も学生だろう。純白のブラウスに、紺とグリーンのタータンチェックのスカート。桜浜の制服だ。
「私が支えてるから、その隙に……」
そう言って近づいてきた彼女は、冷蔵庫に手をかけ、斜めに傾ける。
背中にかかる圧迫が弱まった。可愛い顔に似合わず、意外に力のある子だ。恐らく運動部に所属しているのだろう。間近で見ると、彼女の両足が鍛えられているのがわかる。
ソックスから伸びる脹脛は健康的に日焼けしており、同年代の女子と比べ、やや筋肉質なように思える。太腿にも無駄な肉が見当たらず、膝からのキレイなラインを形成している。そしてそこから更に……。
更に上へ視線を動かしてしまったのは無意識による行動で、けっして疾しい欲求に突き動かされたわけではなかった。ただ物事の真相がどうであれ、問題なのは当人がどう思うかだ。結果として、僕の視線に気づ いた彼女は、鍛え抜かれた右足の一撃を僕にお見舞いし、この場から去って行ってしまった。
頬に奔る痛みに耐えながら、僕は自力で冷蔵庫から這い出す。
朝起きてから二時間ほどしか経ってないにもかかわらず、すでにボロボロだ。今日は近年稀にみる不幸日だ。
水をかけられるは、トラックに轢かれそうになるは、自転車と激突しそうになるは、粗大ゴミに潰されるは、そしてなにより、
「スカートの下にショートパンツは卑怯だっての……」
惜しい気持ちを抱きつつ、服の汚れを払い落す。
肌の露出部分に擦り傷を負ってはいるが、致命的な怪我はない。背中が少々痛むけど、この程度ならすぐに回復するだろう。
体の具合をチェックしているとき、ハッと息を呑む。
バックにつけていたクローバーがなくなっているのだ。潰されたとき外れたに違いない。僕は粗大ゴミを退かし、クローバーを探す。
倒れていた場所に落ちているかと思いきや、まるで見当たらないことに焦りが募る。そんなバカな。どこに行ってしまったんだ。あれだけは失いたくない。
一通り探したものの、クローバーは見つからず、僕はガックリと肩を落とした。コンクリート塀に手と額を押しつけ、溢れくる失意を噛み殺すため、歯をグッと食い縛る。
転校する僕を気遣い、妹がくれた幸せのお守り。なくすなんて絶対にあってはならない。しかしなくしてしまった。まるで幸せという概念から完全に見放されたような気分だ。
「あの、あなた……?」
背後で女性の声がした。通りすがりの人が心配して声をかけてきたのだろう。見慣れない制服の高校生が、散乱した粗大ゴミの脇で項垂れているのだ。さぞ奇異な光景だろう。
「放っておいてください」
僕の返事は自然とぶっきらぼうなものになった。
「でも……」
(だから放っておけって言ってるじゃないか!)、と心の中で罵声を上げたとき、女性が、「四葉のクローバー……」と一言発した。
ハッと後ろを振り返ると、そこに立っていたのは、数分前に僕とぶつかった女の子だった。
その手には探していたクローバーが握られており、
「このキーホルダーって、あなたのだったりする?」
差し出した僕の掌に、そっと乗せてきた。
「ポケットに手を入れたら、覚えのないものが入っていたから……。考えられるのは、さっきぶつかったときぐらいだったもので……。やっぱりあなたのものだったのね。よかった、追いかけてきた甲斐があったってものよ」
そう言って微笑む彼女からは、神秘的な雰囲気が漂っていた。