6話 丸文字を書く
2歳半になった。
ラウルたちは3歳になって自由を謳歌している、と、思う。羨ましい限りである。
わたしはというと、託児所騒動の後ズルズルと託児所に通い続けた。そして、ラウル達が3歳になるまで、暇さよりもメースの視線に耐えていた。対応は基本無視である。メースは無視されたり、冷たくされたりするのが好きな変態さんだったので喜んでいた。「痛めつけられるのも…」と口が動いていたが見なかったことにしている。
メースの性癖を理解することは出来ないため、擁護するわけではないが、彼女はとてもいい人だった。気配りもできるし、子どもにも優しいお姉さんだった。あんな性癖さえなければと残念に思ったほどだ。
とにかくそんなメースなのでわたしがいなくなった後もきっと次のターゲットを見つけるなりして充実した日々を送るだろう。
わたしは託児所から解放されて、今は自宅で絶賛軟禁中である。
3歳になるまで保護者同伴ではないと、街中を歩いたり、他の子の家に行ったり出来ないとか…かなり退屈である。
奈留時代と比べると3歳からというのは早い方だと思うが、わたしにとっては遅い。
最近ふと思う。わたしがこんなにも退屈なのは、まだ3歳になっていないということだけが問題なのではなくて、自分の言動も原因になっているのではないかと。
そう。生まれてから大人の前では出来るだけ年相応を心掛けてきた。それが原因になっているのではないかと思っているのだ。
……もしかして、食糧庫にカギがかかっていたのも書斎に入れなかったのもこれが関係してるんじゃない?散らかすとか思われたんじゃ……
しかし、今更どうしろと言うのか。急に言動が変わったら不自然だ。
わたしは、うーんと唸って、両腕を胸の前で組んで首をかしげた。そして、ハッっとして顔を上げる。
……急じゃなければいいんじゃない? まずは、口数を増やしたり、文字を全て覚えたりするのはどうかな? この世界の2歳児にはまだ早いだろうと思ってたんだけど、背に腹は代えられないよね?
言葉は覚えたけど、文字はまだ半分程度しか覚えていない。自室にある数冊の絵本からはそれくらいが限度だった。年相応を心掛けていたこともあり、大人の前では口数を少なくしてきたから今まで誰かに文字を教えてくれと頼んだこともない。それに、自室には書くものがなかったから、覚えている文字を書いたこともない。
これはわたしの推測を確かめるいい機会ではなかろうか。
「よっし」
そう言って、早速行動を開始する。
「お父さんなら教えてくれるだろうし、頼んでみよっと」
ポンとベッドから飛び降りると、棚の一番上から絵本を取ってしっかりと抱える。そして部屋を出て、トコトコとお父さんがいるであろう書斎へ向かった。
コンコンコン
「おとうさん」
扉の外から呼ぶと、扉が開いてお父さんが出てくる。
お父さんは「どうしたの?寂しくなってしまったのかい?」と言って、眉を落として前かがみになった。
「ううん、ちがうよ。文字をおしえてもらいたいの。このえほんをね、じぶんでも読んでみたいなっておもって…。じぶんで読めるようになったらもっと楽しいとおもうのっ。」
絵本をギュッと抱きしめながら、上目使いでお父さんをを見る。
お父さんは、一瞬目を見開いて瞬きした後、頬をほころばせて「いいよ」と言ってくれた。
……お父さんはやっぱり優しいね。
それにしても、流石、わたし。完璧な演技じゃない? 本物幼児には負けるけど。
心の中で「よっしゃー!」とガッツポーズをしながら、お父さんにお礼を言う。
「ありがとう、おとうさん」
「いいんだよ。私はエマがやりたいことを手伝えて嬉しいのだから。少し準備をしなくてはならないから、先に部屋に戻っているといいよ。すぐに行くからね。」
そう言うと、ニコリと笑って書斎に戻っていった。
わたしも言われた通りに自室に戻る。そして、椅子によじ登って机に向かいお父さんが来るのを待つ。
ガチャリ
部屋のドアが開くと、「お待たせ」と言ってお父さんが入って来た。手には羊皮紙のようなもの1枚と数枚の紙、羽ペンとインク壺を持っている。
わたしは首をかしげながら、お父さんを見ると、羊皮紙のようなものを指さしてたずねた。
「おとうさんそれは?」
「あぁ、これは文字を覚えるのに使う羊皮紙だよ。私が昔使っていたものだ。」
そう言いながら、懐かしそうにやさしく微笑むと、それを机の上に広げる。
A4サイズの羊皮紙だ。そこには、文字がアルファベット表のように並んでいた。ここの文字は平仮名よりもアルファベットに近い。
「裏には数字も書かれているから、文字と一緒に覚えると良いよ。」
「そのはねペンでかいておぼえるの?」
「うん。でも、その前に文字の読み方を覚えようか。それが終わったら、こっちの紙に書いていいからね。」
数枚の紙と羽ペンとインク壺を机の端に置くと、お父さんは一つ一つ指をさしながら読み方を教えてくれる。
わたしはコクコクと頷きながら、お父さんが言った後に復唱する。それを何周かした後にランダムで指をさされた文字を読むということをした。
「今日はここまででいいかな。明日も一緒に覚えていこうね。」
ある程度時間が経つと、お父さんはそう言って、部屋を出ていった。
……覚える分量が少なかったから、さっきので文字の読み方は全部覚えちゃったよ。どうしよう。覚えてないっていう演技を続けた方がいいのかな? いやいや、それじゃあ今までと何も変わらないよね?
全然進展しないよね?
わたしは自分の中の二つの感情の間で葛藤する。そしてある結論を出す。
「よしっ!決めた!明日は文字を書く!」
次の日の朝、わたしは起きるとすぐに着替えてお父さんのところに向かった。お父さんは着替え終えて、ちょうど部屋から出てくるところだった。わたしはニコニコしながら駆け寄る。
「おとうさん」
「ん?そんなに嬉しそうにしてどうしたんだい?」
「えとね、文字の読み方をぜんぶおぼえたんだよ。あれから一人でおぼえたんだ。」
嘘である。あれからは特に何もしていない。すでに覚えてしまっていたから。
お父さんは数回瞬きをした後に微笑んで「よく頑張ったね」と言って、頭を撫でてくれた。
……ううっ、罪悪感があるけど、褒められるとうれしい自分がいるよ。
何とも複雑な気持ちに苛まれながらわたしは言葉を続ける。
「それでね、今日は紙に書いてもいい?」
「うん、いいよ。今日の朝は予定を空けてあるから、朝食を食べた後に文字の書き方を教えてあげるよ。」
「うれしい、ありがとう。おとうさん」
「ああ、それと、アネットは今日の午後は忙しくて来られないらしいから、午後はおとなしく家で留守番しているんだよ。」
「わかった!文字のれんしゅうしてる」
何度も一人で外に出ては、すぐに連れ戻されるというかっこ悪い前科があるからだろう、ものすごく心配そうな顔をされた。
だが、大丈夫だ。やることがあるなら暇じゃない。
ちゃんと留守番できるよ、わたし!
そのままわたしたちは台所に移動して朝食をとる。もちろん、いつも通りの見栄えのしない食事だ。
……はぁ、奈留時代の美味しいご飯が懐かしいよ。
自分で作るにもこの世界の食材の事を知らなさすぎる。前世の世界と同じ食材もあるけど、それだけだとメニューが限られてしまう。
……これは一度、市場で調査をしてみないといけないかもしれないね。家の食糧庫のカギが開けばいろいろ実験出来るんだけど、きっと開けてくれないだろうし…。
やっぱり、何か実績が必要だよね?
わたしはムシャムシャとゆで野菜を咀嚼しながら、自分の器をジッと見つめて考える。そして、お父さんの顔を見据えて口を開いた。
「おとうさん、こんど市場につれて行って」
「ん、急にどうしたんだい?」
「前につれて行ってもらった時は、小さかったからあまりおぼえてないの」
市場には、一週間分の食材を買い出しに行くアネットやお父さんに何度か連れて行ってもらった事がある。しかし、その時のわたしは今よりもっと小さく、もっと自由ではなかった。年相応を心掛けていたこともあるが、とにかく、大した情報を得られなかったのだ。
一人で行こうとしたこともあったけれど、その時は家を出てすぐか家を出る前に誰かにつかまって連れ戻されていた。それに、2歳になってから暫くは、ほとんど託児所で過ごしていたため、市場に行く機会を逃していたのだ。
しかし、父親同伴で、3歳に近い今のわたしなら何かできるのではないか。
……多少演技にボロが出てもいいよね。だって、おいしいご飯が食べたいんだもん。
わたしがお父さんの顔を見つめながら答えを待っていると、お父さんは何か考えるように顎に手を当てて首をひねった。
「私の仕事がないときなら連れて行ってあげられるよ。だけど、市場に行くのは週に一度だから……」
そう言って、言葉をためた後、今週はもう買い出しが終わっている事を教えてくれた。そして、「来週なら連れて行ってあげられるけど…それでもいい?」ときいてきた。
勿論、いいに決まっている。今週行くことが出来ないのは残念だが、今は文字の練習をすることも出来るから我慢できる。
「うん、それでもいいよ。ありがとう」
「それまで、我慢出来る?」
「う、うん。できるけど…どうして?」
「いや…」
お父さんは言葉を詰まらせた。
……え?もしかして……いや、絶対、わたしが我慢できない子だと思ってるよね!?
わたしはムッとしてお父さんを見る。すると、お父さんはパッと目をそらした。
これは確定である。
……わたしだって、暇すぎでさえなければちゃんと我慢できるもん。フンッ
それから食事を終えて器を片付けると、文字を書くために部屋に移動した。
「初めてだからね、まずは私がお手本を見せてあげるよ。」
「うん!」
お父さんは羽ペンを手に取ってから、丁寧に持ち方と書き方を教えてくれる。
わたしには奈留時代の記憶があるから、特に必要ないのだが一応聞いておくことにした。流石にこんなところでボロは出さない。
「こうして持ってから、羽ペンの先にインクを付けて……こうやって……」
カリカリとペンを走らせて、一文字、一文字を丁寧に書いていくお父さんの手元を見て、わたしは感嘆の声を上げた。
この世界にも書き順があるらしい。
「へぇー、そうやって書くんだね」
「そうだよ。午後から一人で練習出来そうかい?大丈夫?」
「だいじょうぶだよ!」
……どれだけ心配されてるのわたし! 脱走なんてしないよ! これからはちょっとずつ言動を変えていくって決めたんだから!
物凄く心配そうなお父さんを横目に、文字の練習を始める。
「えーと」
「そうそう、上手だね!」
試しに一文字書いてみたら、横で見ていたお父さんに褒められた。
調子に乗ってしまいそうだ。
顔がにやけていく。
「そうでしょー」 ふふん
その後、少し得意になったわたしは、黙々と紙に文字を練習していった。
我ながら、単純だと思う。
「ふぅー、できたー」
「この分なら、一人でも大丈夫そうだね」
わたしの頭を撫でながらニコリと笑ってそう言うと、お父さんは午後の予定のために部屋を出て行った。どうやら、信頼を勝ち得ることが出来たらしい。
「さてと、普通に文字を書くのもそろそろ飽きてきたよ。紙もまだ残ってるし……どうしようかな。」
羽ペンを机の上に置いて、少し肩を回してから考える。
……丸文字でも書こうかな……。
奈留時代、学校で丸文字が大流行したことがある。
それを思い出したわたしは異世界版丸文字を書くことを思いついた。
カリカリ カリカリ
「結構かわいい。もしかしたら、こっちでも流行るかもしれないね。」
異世界版丸文字がかわいいこともあり、筆が進む。
そこから先は丸文字だけを書き続けた。
しばらくすると、仕事を終えたお父さんが帰ってきて、様子を見に来た。
「な、何してるの?」
「『丸文字』のれんしゅうだよ。」
「『丸文字』?なんだいそれは?」
「え?」
やってしまった。
「丸」+「文字」というかんじで言ったつもりだったのだが、お父さんには通じなかった。
こっちには丸文字という言葉はないらしい。
「えーと、文字を丸く書くれんしゅうをしていたの…」
お父さんは、少し目を見開いた後、やさしく微笑みながら「せっかく綺麗な文字が書けるのだから、そんな練習はしなくても大丈夫だよ。」と言った。
……えっ? 丸文字は却下?
どうやら、丸文字はこの世界では流行らないのかもしれない。がっくし
やっとエマが動き出しました。
じわじわと。
次は、市場に行きます