柒――江戸探訪
通りを歩きながら、虎影は周囲の人々の話に耳を傾けた。その殆どは世間話やどこそこの夫婦のいざこざなど、あまり虎影の役には立たないものだった。
しかし、江戸には様々な人が集まるもので、中には興味深い話も密かに紛れているのである。
(中々、全容が見えてきたな)
虎影が聞き耳を立てていて、今迄のことも併せて分かったことがいくつかあった。
一つ目は、清を拐った人物だ。どうやら、表には出ない人身売買を行っている人物と思われた。それならば、身代金の要求もないのが頷ける。
二つ目は、龍ノ助の謎の行動が浮かび上がってきた。丁度、清の言動――件の鬼が掛け軸から出てきたと言っていたというやつである――が噂として人々の口を流れ始めた頃らしい。
なんでも、重苦しい顔をしながら頻繁に茶屋に行っていたという。
(そこで、何をしていたのだろうか?)
また、見慣れない男と共に居るところも目撃されていたという。
黙々と思考をしていながら、虎影の中では一つの予想が確信へと変わっていく。
「おーい、黒鳶ー!」
待ち望んでいた声と、頭にずどんと重い衝撃がはしった。少しふらついたが、倒れることは辛うじて免れる。
「……狛、どうだった?」
「色々にゃ猫仲間に聞いたが、当たりよ」
けっけっけっと笑う狛。どうやら猫に化けているようで、周囲の人々は珍しそうに狛と虎影に視線を向けていた。
しかし、黒鳶はそれどころではなかった。
「お前さんは運がいいにゃ。見ていた奴がおってな、場所は花芽屋だとさ」
「花芽屋……饅頭が美味しいあの茶屋か。ありがとう」
「素直なら素直で気持ちが悪いにゃ」
「団子は無しだな」
「それとこれとは話が違いますぜ、旦那。それで、向かうつもりですかい」
「勿論だ」
「難儀な奴ちゃのー……。行って何か出来る訳でもにゃいのににゃあ」
そう不平を呟くが、だからといって花芽屋へとを足を早める虎影の頭から降りる気は無いようであった。何かに気がつき、虎影はぼそりと口に出す。
「……饅頭を買うつもりはないぞ」
「そんにゃー。片付いたら奢ってくれよ」
「団子だけだな」
そんな虎影を見てその後、黒鳶がとうとう猫と喋るようになった、と噂が流れることになるとは、当の本人は露ほども予想していなかった。
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「本当に凄いな……。どこもかしこも人間でいっぱいだ」
菅笠を目深にかぶり、股引に合羽を羽織った旅人姿で、燕は感嘆の声をあげた。
その髪の毛は雪のような白色から人界に来る前に紫黒の旦那に黒色に染められ、格好も人混みに馴染むようにと着せられたものであった。
そして、旦那と幾つかの約束をして燕は人の世に来たのだった。
『燕、向こう側に行っても今から言う四つの事だけは絶対守ることを約束しろ。いいかィ?』
「えっと、空を飛ばない。喧嘩をしない。屋根に登らない。あまり人の目を見ない」
忘れないようにと小声で反芻して、大変だなぁ、と燕は溜息をつく。珍しい青色の瞳の色はどうしても隠すことはできないから、という紫黒の言葉で最後の一つは理解できた。
しかし、他の三つは何が駄目なのかというのが燕は分からず、ただ首を傾げると、紫黒に困ったように笑い返されて『とりあえず守ってくれりゃアいい、細かい事は気にすんな』と言われるだけであった。
「まぁ、兎も角、虎影を探さないとな。……だけど」
気を取り直して口に出すが、どこか当てがあるわけでも無い。燕はただ、人々の様子を見物しつつ、ふらふらと江戸の町を歩き続けている事しかできなかった。
虎影が話していた言葉から、住んでいると思われる辺りに送ってもらったので、何かしら手掛かりがあると踏んでいたが、沢山の人々が入れ替わり立ち替わり蠢く江戸である。そう簡単に見つけられる訳ではなかった。
現に燕は既に半刻ほど歩いているが、黒鳶色の羽織はおろか、虎影のとの字も掴めていないという具合である。
そこで、どうしたものかと歩く燕の目の前、二人の男の会話が耳に飛び込んできた。
「そういや、黒鳶が戻って来たんだってよ! 酒屋の田助が見たんだってよ。知ってたか?」
「あの、黒の羽織を着た、背の低い男の子か? 少しの間見ないようだったが、戻ってきていたのか」
ぴくり、と燕は反応し、二人の会話に耳をそばだてた。黒の羽織、背が低い男の子。黒鳶という名に聞き覚えはなかったが、聞く限りの外見は虎影と一致する。
「また、同心と一緒に町奉行の真似事をしていたらしいぜ」
「どこそこの呉服屋の娘さんが拐かされたって話か。全く、薄気味悪い子どもだ」
聞き覚えのある話に確信を持ち、目が合わないように気をつけながら、燕は話している男の背をとんとんと叩く。二人は振り向き燕を見るが、知りもしない旅人に不思議そうな顔をした。
「旅の方か、何か用で?」
「その男の子が何処にいるか、知ってますか? 俺、探しているんです」
「ああ、黒鳶のことか。お前、知ってるか?」
片方がもう一人に聞くが、左右に首を振るばかりで知らないようだった。そこで、男が思い出したように目を見開いてから燕を見た。
「そういえば、そこに居るかどうかは分からないが……よく福茶屋に出入りしているって聞いたことがある。行ってみたらどうだ?」
「それは、どちらですかね?」
「この道を少し引き返すと、大きな柳の木が見える。そこの小道を左手へと曲がって、次に出た大通りを右へ曲がって歩いていけば着くはずだ。表に看板があるから、分かるだろう」
「ありがとうございます」
「気をつけてな」
教えてくれた二人に軽くお辞儀をして、燕は踵を返した。
二人の話していた男の子は、虎影で多分、間違いは無いだろう。例え違ったとしても、道の途中でまた何か分かるかもしれない、と燕は教えてもらった道順通りに、福茶屋へと足を進めた。
暖簾をくぐり福茶屋に入ると、燕よりも背が低く可愛らしい女の子が駆け寄ってきた。看板三姉妹が末娘、梅であった。
「お客さんごめんなさい! 今、空いてる席がないの……」
「えっと、お茶を飲みに来たわけじゃないんだ。ここに、黒い羽織の男の子が出入りしているというのを聞いてきたんだ」
「ああ! じゃあ、貴方は黒鳶さんのお知り合いなのね!」
申し訳なさそうな顔から一転、梅は朗らかに笑う。そして、にっこりと笑いながらじっと燕の顔を見上げた。
「だから――そんなにも綺麗な眼をしているのね」
「!!」
小さな声でとっても綺麗、と笑顔で言う梅に、しまった、と燕は菅笠に触れる。自身より背が高い者の視線は遮れても、背が低い者の目は否応無しに青の双眸を捉えられる。その事を燕は失念してしまっていた。
無言で顔を背け、菅笠の鍔に手をかけてぐっと下へと引き下げた。約束の一つを、重要な一つを守ることができなかった。
その様相に、幼いながらに言ってはいけない事だと分かったのだろう、梅は慌てて謝る。
「ご、ごめんなさい! 誰にも言わないから!」
「……そうしてくれると、助かる」
まだまだ人で賑わう店の中では、幸い騒がしさに紛れて誰も聞いていなかったようだ。ほっと胸を撫で下ろしつつ、長椅子に座っている人々の目に気をつけなければ、と燕は気を引き締める。
「えっと、黒鳶さんは今日も来たけれど、……今、何処にいるのかは分からない、かな」
そう言うと、きょろきょろと誰かを探すように梅は店の中を見渡すと、あ、と明るい声を零す。
「松姉! ちょっと来て!」
「はあい、梅、少し待って」
返事をしたのは、お客に団子を出していたもう一人の看板娘、松であった。ごゆっくり、と言って笑むと、燕と梅の元へと来る。何人かの客の注意が、燕達の方へと向けられる。
「松姉、この方は黒鳶さんを訪ねて来たんだって。今どこにいるか分かる?」
「うーん、ちょっと……分からないわ」
「そっか……」
しゅんとする松と梅に、居た堪れず燕が口を開こうとすると。
「――確か、花芽屋がどうとかぶつくさ言ってたぜ」
話を聞いていた客の一人が、声をあげた。先程、松が団子を渡していた男であった。丁度団子一串を食べ終わったところで、番茶を啜るとほっと息を吐く。
「福茶屋に向かう間にすれ違ったんだわ。頭に猫を乗せてたから、よぉく覚えてるぜ。今から急げば会えるんじゃねぇかい?」
「平蔵さん、……ありがとうございます!」
「良いってことよ。困った時はお互い様よ」
「花芽屋は、ここを出てまっすぐ行って、大きな酒屋さんを右に曲がって、見えた橋を渡った向こうだよ!」
梅はそう言うと、さあさあ急いでとその小さな身体で燕を入り口の方へと押し遣る。意外にもその力は強く、力を抜いていた燕は容易く押し出されてしまう。
「お騒がせしてすみません。ありがとうございました!」
人の目を憚らずに、振り返って燕はそう言うが、その視線は直ぐに暖簾によって隠された。
店の外まで出ると、梅が子どもらしい甲高い声で早口でまくし立てた。
「お客さん、急いで! 黒鳶さんはすぐに居なくなっちゃうから」
「わかった。――お梅、ありがとう」
「良いってことよ!」
男の真似をして、梅はにこっと笑ってそう言った。燕はそれじゃあ、と言うと菅笠の鍔少し上げ、駆け出す。
その背に向けられるのは、幼い少女の商魂たくましい最後の一言。
「次は、是非お団子を食べに来てね〜!」