陸――現れる影
屋根瓦に寝そべった白い髪の少年は、ぼんやりと曇り空を眺めていた。
「虎影は元気にしているかなぁ」
自身と全く違った色の少年を思い出して、ぽつりと呟いた。
彼が今朝方帰ってしまってからというものの、少しつまらないなぁと燕は感じていた。いっそ、虎影に会うために現世に行ってしまいたい気分。そのくらい、燕にとって黒い虎との日々は楽しいものであったのだった。
「おーい、燕。何処にいるんだィ」
下からの聞き慣れた声に屋根から降り、燕は声のした方は向かう。たぬき屋の二階、馴染みの部屋へと窓から入ろうとすると、その声の主が立っていた。
言わずもがな、紫黒である。
「どうしたんだ、旦那ー」
「そんなとこにいたのかィ」
「ちょっとくら考え事してたんだ」
「お前、一丁前にそんな事するようになったんかえ! こりゃあ魂消た」
大袈裟にはっはっはと笑いながらそう言う紫黒に、燕はむっとして一文字に口を結んだ。
機嫌をとるように頭をぽんぽんと撫ぜると、紫黒はにやりと笑って言う。
「燕、現世に行きたくはないかィ?」
「え?」
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虎影が丹呉屋に着いてから、八兵衛と六蔵は程なくして丹呉屋に駆け付けた。
六蔵の考えで福茶屋に立ち寄った二人は松に虎影の話を聞き、急いで駆けつけたのだった。
藍染の暖簾を跳ね除け、息を切らした八兵衛が駆け込む。
「黒鳶!」
ばたばたとした騒がしい音たちに虎影が目を向けると、苦虫を噛み潰したような馴染みの顔が目に入る。
「やあ、八兵衛。いつもながら忙しそうだな」
店の中、一段上がった上がり框に座りながら普段通り、何も変わらず挨拶をする虎影。八兵衛はその姿を確認すると。
「……っ!」
「おいっ!?」
膝から、崩れ落ちる。驚きに、虎影は思わず立ち上がり駆け寄る。予想以上の様相に、何故か少しだけ笑みが零れた。
「大丈夫か? もしかして、そんなに心配だったのか?」
「……五月蝿い。一寸、驚いただけだ……」
片手で頭を抑えながら、虎影の支えを借りて八兵衛は立ち上がる。その顔には、驚愕と呆れと安堵が混ぜ合わさっていた。
「……黒鳶――」
「八兵衛!」
八兵衛がなにか言いかけた瞬間、声が響く。ばっと二人が振り返ると、背後から六蔵がこれまた息を切らせて暖簾をくぐってきた。
「はぁ……。八兵衛、貴方のその真っ直ぐなところは美点でありますが、私を置いていかないでください……」
「六蔵様、申し訳ありません」
「以後、気をつけてください……。それで」
息を無理やり整えた六蔵が、虎影に向き直る。背の高いその顔を、虎影は見上げた。柔和そうな雰囲気でありながら、底が知れぬ仄暗さを持つ黒い目をしている男である。
「貴方が、黒鳶ですか。初めまして、与力の六蔵です」
「はじめまして」
「さて、早速で申し訳ないのですが、掛軸を調べて何かわかったことはありましたか?」
六蔵の言葉に、虎影は八兵衛の顔を見遣った。無言で頷きが返ってくる。視線を与力の茶色がかった瞳へと向ける。
「この拐かし、“鬼”は関わっておりません。私は誰かが手引きしたものと考えています。でなければ、そう安々とお清を連れ去ることはできないと思われます」
清には、辰がずっと付いていた。両親に代わって面倒を見、それを生業として食っているのだから、片時も目を離さないはずだ。ならば、何故清は拐われたか。
必ず、誰かの手引きがあるはずだ。その見当が、なんとなく虎影にはついていた。
それらを踏まえて、子どもらしからぬ落ち着いた声音を心掛けて、虎影はきっぱりと告げた。
虎影の言に、八兵衛は意外にも物の怪が変わっていると信じていたようで、驚き固まっていた。すこし目を見開いたあと、六蔵はやんわりと笑む。
「分かりました。どうも有難うございます」
そして、真剣な顔つきへと変わる。
「ここからは、危険もあります。どうか町奉行にお任せください」
返答を待たずそれだけ言うと、六蔵は黒い羽織を翻して虎影の横をすり抜けて丹呉屋の奥へと向かう。半分放心状態だった八兵衛も気を取り戻して、虎影の肩に手を乗せる。
「黒鳶、後は大丈夫だ。福茶屋で団子でも食べて待っていろ」
いいな、と言って同心は与力の背を追う。
暖簾の近く、一人取り残された虎影は顎に手を当てる。
(成る程、手出し無用ということか)
それもそうであろう、妖怪絡みとあれば見鬼の力を持った虎影の力も必要だろうが、その可能性はつい先程自身の言葉で否定した。虎影自身に対人の武闘能力がある訳でもないので、居ても特に役には立たないということは既知である。
(だが――誰も了承なんてしていない)
そっと暖簾を潜り、外へと歩き出した。
虎影は、先程お使いに行ってもらった狛の帰りを待ちつつ、街中の人々の話に耳を傾けることにした。
その後ろ姿、少し色褪せた黒い羽織りが暖簾の向こうへと消えたのを、六蔵は少しだけ振り返り見届ける。
八兵衛と少し目線を交わすと、大きく口を開いて声を響かせた。
「龍ノ助さん、龍ノ助さん。いらっしゃいますか」
「はい、はい、只今!」
どたどたどたと足音が響き、出て来た龍ノ助は丁度辰を連れて来ていた。自身を呼んでいた人の顔を見ると龍ノ助は驚き、足を止める。
「あれ、六蔵様と八兵衛様ではありませんか! 先程まで黒鳶さんが居たはずですけれど……」
居たはずの黒い羽織の少年が、与力と同心に代わっていれば驚くのも頷ける。八兵衛は静かに斜め後ろに控える中、先程まで虎影が座っていた上がり框に腰掛ける。そして、できるだけ柔らかく笑って六蔵は口を開いた。
「ええ、彼とも話しました。それで、辰さんのお話を聞きたいのですが」
「それはそれはちょうど良かった! 虎影さんにも呼んでくるように言われたもので、連れて来たのですよ」
「……そうでしたか。では、辰さん。こちらへ」
辰は、二十ぐらいの大人しそうな女性であった。顔は少し俯き加減で、龍ノ助の顔を常に伺っているような、そんな様相だった。
「はい」
しずしずと二人の方へと進み出ると、六蔵とほうへと顔を向け、その側に正座をする。丁度、六蔵と龍ノ助の間に、龍ノ助の視界を遮るようにして、座った。
「六蔵様、私にできることならば何でも仰ってください。どうか、お清を……!」
真剣な瞳を向けて、辰はそう言うと両手で六蔵の手を取る。そして、密かに片方の手の指先を、六蔵の掌の上で滑らせた。
その背後では、辰の言葉を聞き、畳み掛けるように、龍ノ助も正座し、二人へと頭を下げた。
「六蔵様、八兵衛様、お清をどうか、どうかお願いします……!」
その間も、辰はするすると指先で何かを描き続ける。そして、一区切りつくと、じっと六蔵の目を見つめた。黙って視線を返す。
その様子を、八兵衛は黙ってじっと見つめていた。六蔵はふっと笑うと、辰の手を握り返す。
「勿論、力を尽くして見つけ出しましょう。それには、あなた方の協力が必要不可欠です」
辰の手を離して立ち上がり、龍ノ助に向き直ると、六蔵は柔らかに微笑んだ。
「とりあえず、辰さんをお借りしてもよろしいですか? 本人にしか分からないこともあるでしょう」
「ええ、ええ、勿論ですとも。……辰、行って来なさい」
「はい、分かりました」
「では、行きましょうか」
龍ノ助は、どうぞよろしくお願いします、と言って辰を送り出した。綺麗な所作で草履を履き、辰は八兵衛、六蔵と共に丹呉屋を出たのだった。
雑踏の中を幾ばくか歩き進めると、橋のかかった川縁へと出た。そこで三人は立ち止まり、六蔵が辰に向かって語りかけた。
「さて、何が目的でしょうか? 望み通り、連れ出しましたよ」
口元は笑って居ながらも、目元に冷ややかさを残したまま言い放つ。八兵衛は、ただただ不思議そうな顔で見ているのみ。
「六蔵さま、どういうことですか?」
「それは……」
「――私が、“つれだしてください”とお願いしたのです。本当にありがとうございます」
そう言って、ぺこりと辰は頭を下げた。
丹呉屋で六蔵の手に指を滑らせていたのは、そこでゆっくりと、“つれだしてください”と掌に指で文字を描いていたのだ。直ぐに六蔵は気がつき、読み取ってこうして辰を連れ出したのであった。
「どうしても、伝えなければと思いましたが、あの場で言うのは少し難しくて……」
困ったように目を彷徨わせながら辰はぎゅっと両手を握った。
「私、聞いてしまったのです!」
その言葉に、今までの表情とは一変、二人は眼を少し見開いた、間の抜けた顔つきに変えられる。
しかし、次に発せられた辰の言葉によって、二人の顔が否応無しに真剣な表情へと一変させられるのだった。