肆――怪奇に悩める者達
何をしているんだったか。
黒い羽織を着た幼顔の男が、目に映る。言わずもがな、黒鳶である。
そうだ、掛軸を調べに来たのであった。
掛軸を見た黒鳶が、口を開く。
「これが、件の掛軸か?」
「そうだ」
床の間に飾られた、なんの変哲もない掛軸。商家の繁栄を願ってだろう、描かれているのは雀であった。特に何という違和感は感じられなかった。
しかし、黒鳶はそうではなかったらしい。
離れて見たり、近くから見たり、斜めから、様々な角度から掛軸を見る。
その眉間には、幼さを遺す顔に相応しくない皺が寄っており、怪訝な顔をしていた。
「やっぱり、何か感じるのか?」
黒鳶のその目には、妖怪変化が映るという。人間為らざる者の気配に敏感であるのだ。全くもって自身には分からないが。
「んー……」
顎に手をやり、唸る黒鳶。どのように彼の目に掛軸が映っているのか、自身には分からない。
「触って見てもいいか?」
黒鳶の問いに、壊さないようにな、とだけ答える。触れるぐらいなら、大丈夫だろう。
黒鳶はゆっくりと掛軸へその手を伸ばしていく。
何故か、駄目だと思った。
黒鳶を止めなければと感じた。
しかし、遅かった。
触れた指先が。
黒鳶の体が。
掛軸に――。
♢♦︎♢♦︎♢
「……はぁ」
八兵衛は溜息をこぼした。
清々しく晴れ渡った空がいやに眩しく感じる。この数日間、夢見が悪く、碌に眠れていない八兵衛にとって陽の光は眩しすぎるのであった。
様々な店が軒を連ねる表の大通りを、どんよりとしながら八兵衛は歩いていた。
丹呉屋の一件からかれこれ五日経つ。
その後、黒鳶を見たという話は聞いていない。
神隠しか、それともまた別の何かか。
馴染みの茶屋や借りている割長屋を訪ねたが、彼の存在も、その影でさえも見ることはできなかった。
あの小生意気な、得意げな顔を見ることが無くなってしまうのかと思うと、胸が締め付けられる。
三年程前まで、八兵衛にとって黒鳶は、巷で噂の奇人程度の認識であった。
その齢十ほどにして羽織を纏い、黒い髪は長く、やけに大人びた話し方をする“奇人”。
話しかけられても素っ気ない返事しか返ってこない、味気のない子どもだと言われていた。
しかし、話してみればそうでもない。
噂はあてにならない。意外と話ができ、頭も切れる。それに、八兵衛には見えぬ人間為らざる者等が見えるという。
八兵衛は、話の通じる、そりが合わずに時折口喧嘩をする黒鳶をそれなりに大切に思っていたのであった。
『触ってみてもいいか?』
そう聞かれた時に、駄目だと制止をしていたらこんな事にはならなかったのだろうか。
そのような考えしか、今の八兵衛には浮かんでこなかったのであった。
また一つ、溜息をついた。
「八兵衛。まだ引きずっているのですか」
声のする方へ向くと、八兵衛の雇い主である与力の六蔵がそこに立っていた。
「貴方の真面目なところは素晴らしい長所です。しかし、過ぎたことをぐだぐだぐだぐだと悩んでいるのは悪いところですよ」
「……六蔵さま」
与力と同心の象徴である黒い羽織を纏い、腰には二本の刀。柔らかな物腰、いつも笑んでいるような顔つきだが、独自の情報網を持っており、侮れない策士であることを八兵衛はそこはかとなく感じ取っていた。
「申し訳ありません。どうしても、彼奴の事が頭をよぎるのです……」
あの日から五日経つ。しかし、黒鳶が掛軸に触れたあの光景が、何度も何度も頭の中に浮かんでは心を締め付ける。
掛軸と黒鳶についての事を、八兵衛が唯一しっかりと伝えられたのはこの六蔵のみであった。大抵の人々は、やれ酒にでも酔ったと、夢でも見たのだとまともに取り合いもしてくれないのである。
六蔵のみが耳を傾け、真摯に八兵衛の話を聞いてくれたのであった。
「それは、仕方のない事でしょう。しかし、考えてみてください」
六蔵は、歩き出す。それにともなって八兵衛も半歩斜め後ろについて歩き出した。
「八兵衛の言う通りならば、その黒鳶とやらはそう簡単に死ぬような人ではないでしょう。きっと大丈夫ですよ」
「そうだと、いいのですが」
確かに、彼奴はそう簡単には死ななさそうではあるなと八兵衛は思った。
六蔵は、きりりと口を一文字にする。
「それに、丹呉屋の件を一刻も早く片付けるのが、今の我々の役目です。黒鳶がこの事件に巻き込まれたならば、ひいては彼の為にもなるでしょう」
一息にそう言って立ち止まると、六蔵は八兵衛を見下ろした。
「はい。心得ました」
きっぱりとしたその答えに、六蔵は満足げな笑みを浮かべた。八兵衛から、目の下の隈は消えずとも、どんよりとした後悔の塊のような雰囲気が消えたからである。
黒鳶の為になる、と言ったのが功を奏したかな、と六蔵は胸の内で呟いた。八兵衛は義理堅く、友人や家族を大切にする人である。六蔵は、そこを突けば、どうにか任務を全うするかなと思ったが、どうやら当たっていたようであった。
「それにしても、困ったものです」
六蔵もまた、ふぅと溜息をついた。
事件が起こったのは、丹呉屋の掛軸を黒鳶と八兵衛が調べに行った三日後のことであった。
『掛軸から鬼が出てくるのを見た』としきりに言っていた丹呉屋の娘・清が、何者かに拐かされたというのである。
両親が店で商いをしている日中に拐われたらしい。彼女の幼い頃から両親の代わりに面倒を見ている辰という女性がいるが、少し気を抜いてしまった隙に、どこかへと連れ去られたと言う。
身代金目的と言うわけでもないようで、未だ何の音沙汰もない。
何も情報がなく、清は行方知れず、全くのお手上げ状態なのであった。
また、人の口に戸は立てられぬとはまさにこの事だろうと言わせるがように、『丹呉屋の娘さんは、鬼に拐われた』という噂が瞬く間に広がったのである。
『掛軸から鬼が出るのを見た』という清の言葉と相まって、こういった噂が広まったのだろう。
しかし、六蔵は自分自身の目に見えるものしか信じることはしない。
必ず、清を拐った人間がいるはずだ。
眼に見えぬ者達が人を拐う、“神隠し”なるものは何かしら前兆や、場所に条件がある。
彼等の存在を否定する訳ではないが、この事件に彼等の出る幕は無いだろう。
それに、辰に怪しさを感じた。六蔵は、どうも彼女から後ろめたさを感じているように思えたのである。何か、他にも引っかかりを覚えるが、何だろうかと六蔵は首を捻った。
「……六蔵さま?」
八兵衛が怪訝な顔を引っさげていた。いつの間にか大通りの真ん中で、六蔵は考え込むあまり立ち止まってしまっていたであった。
「何でもないですよ。丹呉屋へ急ぎましょうか」
「はい」
二人は、早足で通りを抜けた。
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背中に衝撃が走る。どさっ、と部屋に音が響いた。軽く頭も打つ。
「くぅっ……」
見慣れた天井、親しみ慣れた埃っぽい空気。半身を起こせば、使い慣れた文机に、書きかけの絵が置きっ放しになっていた。どうやら、無事に吾が家に帰ってきたようだ。
元の江戸に帰る、ということで、虎影は不可思議な模様が描かれた陣の上に立たされた。強く想像した所に移動することができる、と紫黒の旦那の言葉で、思い描いたのは住み慣れた部屋。
『じゃあな、虎影!』と言う燕の声を最後に、眩しい光に包まれて、虎影は意識を手放した。
少々強引な目覚ましで意識を取り戻したが。
「帰ってきた、のか」
ふっと口元が緩み、肩の力が抜ける。
(身体はずっと緊張していたんだな)
虎影は今更ながらに気がついたのだった。
そんな虎影の頭にまず思い浮かんだのは、生真面目な同心の顔であった。
目の前で知り合いが忽然と消えてしまうという怪奇にみまわれた彼は、一体どうしているのだろうか。
扉の外を見ると、まだ日は高いようだ。
履いたままであった草鞋で床を汚さぬよう、気をつけながら土間へ移動する。少し着物の乱れを直し、虎影は扉を開けたのだった。
12/13……誤字、言い回しを修正しました。