参――妖し世、陰陽
「まぁ、お前さんの人が住む世や界隈に対して、此方は妖怪が住む世や界隈、ってことサ」
紫黒の旦那は、煙管片手にゆったりと紫煙を吐き出した。独特の香りがただよっていた。
燕は、『お茶をもう一杯貰ってくる』と言って階下に降りていったきり戻って来ていない。ついでに、虎影は自身の分も頼んでおいた。
二人きりになると、余計に旦那から発せられる、穏やかでいて強い波動が感じられた。
「成る程、そういう事ですか」
「おや、納得したのかィ?」
旦那が驚く。心底意外そうに目を見開き、虎影を見ていた。
自身でも、想像の及ばない状況に置かれているのに存外冷静であることに驚いている。いや、それほどでもないか。
「私は、幼い頃から妖怪を見ていました。他人と違う景色を見て生きてきたのです」
「ふぅむ、そうかい」
「人が住まう世があるならば、妖怪が住まう世があっても理に適っていると思いますから」
虎影は、幼い頃から、人間ではないものを見てきた。
時にそれらは話し、奇声を上げ、黙り浮遊し、影に潜む。それが物怪、妖怪だと気がついたのは四つにも至らぬ頃だった。慣れた今となっては見えていても、一部の者を除いて無き者として生活している。
人と違い、妖怪で人の様に定住する者は見たことがあまりなかった。
それ故に、この妖界に妖怪どもが人間のように定住している、と言われれば合点がいくのである。
理由は、それだけではないが。
まだ驚きを隠せない表情で、旦那に見つめられる。虎影は見た目こそ幼いが、境遇故に学問に長け、考える事に慣れていた。
「……お前さん、幾つだィ」
「確か、十二か十一かと」
「こりゃア魂消たなァ!」
至極真面目に答えると、あっはっは、と笑い転げる旦那。しかし、笑いは直ぐに収束し、無表情にも似た悲しげな顔がそこに表される。
「お前さん、何があった?」
短く静寂が訪れた。
どのように答えるか、悩んだからである。
「何も。何もありませんよ」
今生は、と付け加えて、子どもらしく笑って返した。まだ、言う気にはなれない。
「……そうかィ」
幼さのある笑みの中に何を見たのだろうか、紫黒の旦那は目を逸らし窓の外を見て一服、煙管を噴かす。
深くは追及してこないのが彼なりの思いやりか、それともその理由を耳に入れるいつかの日を感じ取ったのか。虎影には分からなかった。
そのまま、横を向いた旦那を見つめていると、長い黒髪の合間、首筋に濃い紫の文様に気がつく。
(彫り物か……?)
それにしても、変わった文様をしている。燃える火を書き写したようで、その色は夕暮れの空、赤みがかった紫であった。
「どうかしたかィ?」
じっくりと見つめられていることに気が付いた旦那が、不思議そうに眺めている。
「いえ、何でも」
またいずれ判るだろうと、首を振っておいた。少し気になるが、まだ知らなくてもいいだろう。次の楽しみにとっておこう。
それにしても、と虎影は口を開く。
「戻ってくるのが遅いですね、燕」
「ああ、それは、ただ単に難しい話が嫌ェなんだよ。あの燕は」
きっかり終わった頃に帰ってくるのサ、と言った旦那に、なんとも燕らしいと思ったのであった。
♢♦︎♢♦︎♢
それから幾日か経ち、たぬき屋の一階にて、考え事をしながら虎影は茶を飲んでいた。
紫黒の旦那曰く、人界と妖界はお互いに影響しあっているらしい。まるで光あるところの影のような、陰と陽のようなものだと言っていた。
人界での江戸は、江都という名で妖界に存在し、京都は京戸となりまた同様に存在している。そして、虎影が滞在しているたぬき屋は江都にある。
また、時間の流れもほぼ同じらしい。多少の誤差はあるが、四半刻にも満たぬと言っていた。
例えば、現世にてかの大災害・明暦の大火の時は、妖界も江都の大半が灰と化し、それはもう言い表せないような惨状であったようである。
妖界を統べる、火・風・水・地の四天神がその力を奮ってようやく鎮火したんだヨ、と旦那が言っていた。
世の中に因と果があるように、神と呼ばれるには、壮絶な力という所以があるのだろう。
(一度、お目にかかりたいものだ)
と、ぼんやりと虎影は思った。
しかし、ゆっくりしている暇は無い。
本来の目的、丹呉屋の掛軸――八兵衛の依頼ついての事である。
虎影が通ってきた掛軸、それは悪鬼達の溜まり場である鬼門町に繋がっていた。
つまり、丹呉屋の娘さんが言っていた事は嘘だとは言い切れないのだ。本当に鬼が出てきたのかもしれない。
(確か、丹呉屋の娘さんは六つだったか。幼子は、時折視える事があるからなぁ)
四六時中妖怪が見えてしまう虎影は、世の常を考えると例外中の例外である。
事の顛末を早急に帰って八兵衛に報告せねばならないだろう。
本当であったならばそれはそれで大変な事である。
ずずず、とお茶を啜り飲み干した。
「虎ちゃん、もう一杯要るかい?」
気がつくと、真横に帆前掛を着けた恰幅の良い狸が立っていた。にんまりとした笑みが優しげにこちらを見る。
「たぬ吉さん。ではください」
「あいよ〜」
妖界に来てから四日経ち、江都にも馴染んできた。たぬ吉ともすっかり顔馴染みである。
やはり、妖怪達にとって人間は珍しいらしい。現在のたぬき屋の中でもさりげなく視線が向けられている。
町を歩いていても、興味本位で話しかけてくる好奇心旺盛な人々が居るほどである。
ことん、と目の前の卓に湯呑が置かれる。
「ほい、虎ちゃん」
「ありがとうございます」
するとそのまま、ふくよかな腹を揺らして虎影の隣へと座った。
「聞いたよ。明日、現世に帰っちゃうんだって?」
「はい、そうです」
「そーかぁ。寂しくなっちゃうなぁ……」
寂しげに声音が低くなる。たぬ吉は、狸があるが人間に負けず劣らず表情豊かで、気持ちが表情に表れるのであった。
「そうですか?」
「勿論さ。燕ちゃんも、『人間の友達ができたー』ってさ。とっても嬉しそうだったよ」
安易にその様子が想像でき、笑みが溢れる。なんとも燕らしい。
一口、茶を飲んだ。
「また、いつかおいでよ。それで、作った蕎麦をみんなで食べてくれたら、ぼかぁ嬉しいよ」
「……はい」
頷くと、たぬ吉は嬉しそうに笑みを浮かべる。
飲んだ茶の温かみが、胸に沁みた。
そこで、俄かにたぬき屋の中が騒つく。虎影が、穏やかでしなやかな波動を感じた。
「よゥ」
「おお、紫黒の旦那、いらっしゃい」
「こんにちは」
毎度ながら、貫禄のある御仁である。あまりこうして人前ならぬ妖怪前に出ないのか、それとも珍しいのか、名が判った事で妖怪達の騒つきは増していた。
「虎影、ちょっといいかィ?」
ちょいちょい、と手招きされて、たぬき屋の外へと連れ出された。
「なァに。別に大したものじゃねぇんだけどな」
町中を歩き、旦那に連れてこられたのは矢立を売る店であった。矢立とは、筆と墨壺が一体となった持ち運びができる筆記具で、少し大きめの煙管のような形をしているものだ。
「こりゃ珍しい! 紫黒の旦那じゃないですかい。どういったご用件で?」
「何ってそりゃア、矢立を買おうと思ってヨ。何かいい奴ないかい?」
やたらと兎のような耳が長い店の主人と旦那が話している間、展示された数々の矢立をじろじろと見渡す。
少し大きいものから、小さめのもの、飾りがあるもの、木目が綺麗なもの、飾り彫りがしてあるもなど様々な物が売っている。
虎影は、その内の一つ、飾り気のない矢立に目が止まった。全体を黒く塗られ、少しだけ花が彫られたものだ。墨壺のところには五芒星が彫られている。
手に取ってみると、そこまで大きくないのにずしりと重さが伝わる。
「それが気になったのかィ?」
「! ……はい。意外と重いですね」
気がつくと背後に旦那が立っていた。
店主は物珍しげにこちらを見ている。多分、人間だからであろう。
「それ、いい素材で作られているんだけど……なかなか買い手がつかなくてねぇ」
「これ、現世の物だろィ。まぁ、妖界じゃア売れないだろなぁ」
「魔除けの印、更には晴明の桔梗印にも見えますからね」
五芒星は、陰陽道においての魔除けの印として使われているものだ。かの安倍晴明も使ったと言われる。悪行を為さない江都の妖怪にしてみれば、恐れることはないものの良い印象を持つこともないのだろう。
(しかし、大きさも丁度良く、花の彫りも好みだ。こんな矢立が欲しいものだ)
矢立一つが買えるほどの大金を今持ち合わせてはいないので買えるわけがないが、それでもじろじろと見てしまう。
その様子を見ていた旦那はふっと笑みを浮かべる。
「……よし。これ、幾らだい? 買おうじゃねェか」
「ありがとうごぜいやす、旦那!!」
懐から金一両を出して、紫黒の旦那が買ったのだ。五芒星の矢立を。
「だ、旦那?!」
確実に虎影の為に買ったのだろう、どうすればいいものかと笑みの浮かんだ顔を見上げる。店主は嬉しそうに金勘定をしていた。
「なァに、安いもんだ。それに、妖怪が使うにはちっと魔除けが過ぎる。人間のお前さんが使うべきだろう」
「そうでさぁ。羽織の坊ちゃん、あんた人間だろう? ありがたく頂いときな」
「それに、これから必要になるだろうからなァ……持っとくべきだヨ」
「必要に、ですか」
その言葉の真意が分からず首を傾げたが、そうそう買える物でもないので、ありがたく矢立を受け取った。
やはり、ずしりとした重みを感じる。大事に使わせてもらおう、そう思った。
「魔除けの呪を一つ、教えておこう。一度だけ妖怪の牙を跳ね除けるものさ」
矢立から筆を取り出し、虎影の腕にすらすら、と文様を描いた。梵字のような、そんな不思議な文様であった。
「ありがとうございます」
「効力が無くなると消えるからな。一度にいくつも書いても意味がねぇから、消えてしまったらもう一度書く事だ。気をつけろヨ」
「はい」
「坊ちゃん、くれぐれも悪鬼にはお気をつけくだせぇ。彼奴らは危ねぇからな」
「……はい」
既に身を以てその恐ろしさを体感している虎影は、深々と頷いた。
様子を見た紫黒の旦那に頭を撫でられる。幼い頃に置いてきたままの、暖かさとくすぐったさを感じる。
(そうだ。あの人もよくこうして頭を撫でてくれていた)
頭を撫でられる感覚は、幼い頃に出会った、不思議な男を思い起こさせた。
その翌日、現世・人界へと無事帰還を果たす。しかし、その頃江戸の町では、掛軸の一件が予想だにしない事件へと発展してしまっていたのであった。