壱――迷い子が一人
(ここは、何処なのだろうか)
虎影は、ごくりと唾を飲み込んだ。
江戸の町に似た割長屋の並ぶ裏通り。虎影は、その家々の間から表通りを覗いていた。
徳川家が治める世の中で、虎影は江戸の町に住んでいる。しかし現在、周りには人間っこ一人も見つからない。
(道を歩くは一つ目に、いくつも角の生えた者……、空を飛ぶのは天狗に龍ときた)
妖怪変化。
そう江戸の町で呼ばれる者達が、人で溢れるはずの表通りを闊歩していた。
(ここは、何処なのだろうか……)
普段住まう江戸のようで、江戸でない。虎影は、夢でも見ているかのような気分であった。しかし、目の前に広がる光景はまぎれもない現実である。
この不可思議な事の発端は、遡ること半刻程前。
団子屋でゆったりと茶を啜っていた虎影に、『黒鳶、手伝ってくれ』と知り合いで同心の八兵衛が頼みこんできたのである。
誰が呼んだか、いつも黒鳶色の羽織を引っ掛けている虎影は、巷では“黒鳶”と呼ばれていた。
『どうしたのか』と問いただせば、八兵衛曰く、『丹呉屋の娘さんが、掛軸から怖ろしげな鬼が出てくるのを見た、と言い続けている』との事である。
嘘か真かは別として、本当に鬼が出てきているのならば、呉服屋を営む丹呉屋としても一大事。
人間ならざる怖ろしげな鬼が家から出てきたとなれば、少なからず良くない印象を持つ者が出てくるだろう。
これからその丹呉屋へ向かうという事で、少々不服そうではあったが虎影は八兵衛に同行したのであった。
床の間に飾られた、例の掛軸に描かれていたのは、木の枝に止まる雀達。八兵衛には何の変哲もなく見える掛軸だが、虎影はどこか引っかかるような違和感を感じていた。
何が違和感の原因なのか、考えながらじろじろと掛軸を見つめる。そして虎影は、ゆっくりと手を伸ばし、そして、その表紙に触れる。
感じたのは、少しざらりとした紙の感触ではなく、水の中に手を入れたようなときのような感触。
指先が、掛軸の中へ入っていたのである。
(これはいけない)
虎影は直感的そう思ったが、時既に遅し。
視界が真っ暗に塗り潰される。虎影が次に目が覚めたのは、全く同じ掛軸がかけられた、誰もいない全く別の、割長屋の中であった。
虎影は、幾許か自身を取り巻く状況を思案した後、部屋にかけられた雀の掛軸を触れる。
しかしどうしたことか、そこには紙の感触があるだけ。
また、先程の違和感を掛軸から消え去った以上、どうしようもなくなった虎影は、部屋から外に出る。
そして、大通りを横行闊歩する妖怪変化を見るに至ったのである。
虎影はふぅ、と静かに溜息をつき、表の大通りへと黄金の眼を遣る。
(しかし、嫌な空気を放つ妖どもばかりだな)
見つめた先に居るのは、普段見るのとは違った、少し嫌悪感を抱かせるような妖怪ばかりであった。知り合いに食い意地の張った猫又や、山菜売りの天狗などがいるが、この妖怪は――比べ物にならない嫌な気配を放っている。
言うなれば、禍々しさを纏った悪鬼ばかりである。
(さて、どうしたものか)
何処であるのかもよく分からないところで一人きり、虎影には打つ手がない。
腕組をしながら立ち尽くしていると、表通りの鬼やら一つ目やらがざわざわと騒ぎ立て始める。
「ん? おい、人の子の匂いがするぞ」
「何だって??」
「人の子だと?」
「っ!!」
悪鬼達の会話の内容を聞いて、虎影は息を飲んだ。同時に、道を駆け出す。
妖怪は、人間の生気を好む。
特に、悪鬼や瘟鬼などは人の子を喰らってしまう事さえあるのだ。
あれだけ禍々しい気配を放つ妖怪たちが集っていたのである。虎影は、自身が彼らにとっての格好の餌だということを忘れてしまっていた。
「おい、物音がしたぞ!」
「いたぞ、人の子だ!!」
しかし、駆け出した足音を聞きつけた悪鬼達に見つけられてしまった。
なんとか逃げ果せようと虎影は必死に黒鳶色の羽織をはためかせて走る。しかし、焦るあまりに、道に落ちていた木の板に足を引っ掛けてしまう。
(痛ってぇ…!)
そのまま倒れ伏し、虎影は道に転がる。
顔を上げると、走っていた一直線に繋がる道の前方からも、そして後方からも嫌な気配を纏った妖怪たちが押し寄せてくるのが見えている。
どうにか動こうとするも、引っ掛けた右足に鈍い痛みが走る。木のささくれで切れたか、足首から血が流れていたのである。同時に左足を捻ってしまったようで、身じろぎするので精一杯であった。
そんなこんなと虎影がもがいている間に、悪鬼たちは周囲を取り囲む。
「おお、まだ子どもじゃねぇか」
「新鮮だなぁ。人の子なんて久しぶりだ」
「へへ、もう逃げらんねぇぜ」
「……くそ」
まさに多勢に無勢だった。たとえ逃げ道があったとしても、足を痛めている虎影では逃げきることはできないことは想像に難くなかった。
どうしようもなく、取り囲む悪鬼たちのにたにたと下卑た笑いを精一杯睨め付けたその時である。
一羽の白い鳥が、空から舞い降りたようだった。
「うわっ!?」
「なんだ此奴…!?」
青い空からふわりと音もなく地に降り、虎影を庇うように立った鳥は、真っ白な髪、真っ白な着物を着た男であった。
その姿を見た悪鬼達は、明らかに様子を、その態度を変える。
「こいつ、白燕だ!」
徐にそう一つ目が声を上げると、どよめきが取り囲む悪鬼達に伝播していく。その最中、あまりにも場違いな白さを持ったその背中を、虎影はじっと見上げていた。
彼の背は虎影よりも少し高いくらい、今まで見たことのないほど鮮やかで美しい白髪。肌も色白く、生気を失っているかのようである。
「これ、俺がもらっていいよね?」
白燕、と呼ばれた男は、首を傾けながら、甲高く、幼さを感じさせる声を響かせる。
どよめき、少し慄くが、悪鬼達は黙って獲物を逃すような者の集まりではない。
「おいおい、先にこいつを見つけたのはおれ達だぜ?」
「いくらなんでも横取りはなぁ?」
「ふうん、じゃあ、俺と遣り合うってことでいい?」
挑発するような悪鬼達の言葉に、あくまでも明るく、楽しむかのような声音でそう言い切る白燕。
その様子を裏付けるのは、体つきであった。着物の袖から覗く手足は程よく肉が付いており、腕が立ちそうな出で立ちである。
虎影は終始黙りつつ、目の前の真っ白な人が妖怪かよく分からない存在を観察し続けた。
(それにしても、この者……凄い迫力だ。後ろ姿でも分かる。強い力を感じる)
妖怪変化・人間に関わらず、生きる者はそれぞれ波動を放っている。それらは強さや心持ち、生き様などに左右される。そして、強い波動は迫力となって滲み出るのである。ある意味、強さの尺度の一つとなり得るのだ。
それ故、一部の鬼達は、力を感じ取ったか、またその迫力に負けたかもう既に逃げ散っている。
悪鬼達の嫌な波動とは対照的な、強く澄んだ波動を白燕は放っていた。
不意に振り返り、地面に座りなおした虎影を白燕はじっと見据える。目がかち合うと、くっと虎影は息を飲んだ。
見下ろされたその両の眼は、空を写し取ったような青色であった。
角も何もなく、姿形は全くの人型。今までに見たことのない瞳の色と、肌の色、見かけに似つかわしくない波動の強さを除けば、ただの人間であった。
「なぁ、お前」
「……何だ?」
「此奴らに喰われるのと、俺に連れさらわれるの、どっちがいい?」
虎影は、訝しみながらも、この何処かも判らぬ場所で出会った、同族らしき者に興味を抱いていた。
「……そのような選択ができるのか?」
「まぁ、お前が本当に望んで彼奴らに喰われたいと言うなら止めねぇけど」
「……そこは止めて欲しいものだが」
「どうなんだ? こっから生き伸びたいなら、俺の手を取ってくれ」
そう言い、白燕は掌を差し出した。
唇は弧を描き、その眼は虎影を真っ直ぐと見つめている。
(悪鬼達に喰われるか、白燕の手を取るか)
「おい、何やってやがる?!」
「獲物を連れ去らう気だ!」
「やっちまえ!!」
(まぁ、なるようになるか)
騒ぎ出した悪鬼の声を聞き、虎影は色白いその手を取る。
瞬間、ぐっと強い力で引っ張られる。
「その身、この燕が預かった」
軽々と片手で虎影を横抱きにし、騒ぎ立てる鬼達を尻目に、空中へ高く白燕が地を蹴った。
「此奴、貰ってくぜー! ありがとよ!」
「待て!! くそ餓鬼!」
「飛ぶなんて卑怯だぞ!」
地上でがやがやと悪鬼達が騒ぎ立てるが、もう既に虎影の耳には入ってこない。
それどころか、ほんの数秒で立て続けに起こる浮遊感に苛まれ、視界はぐるぐると回り、虎影は意識を手放す寸前であった。
「口開けるなよ、舌噛むからな」
辛うじて開けた瞳で虎影が見たのは、眼下に小さく見える悪鬼達と、広がる理路整然とした街並み。
(空を、飛んでいる?)
驚きのあまり、先程までどくどくと脈打つと共に感じていた足首の痛みも忘れ、広がる視界に目を丸くするのみである。
「いくぞ?」
白燕の声を微かに聞いた後、どうなったのかという記憶は虎影にとって定かではなかった。