参――妖し花々
江都の花街は、何とも言い難い妖艶さが漂っている。それは、夜であろうが昼であろうが変わりはない。昼とは名ばかりで、昼夜絶えず薄靄がかかったかのような、暗い夜の雰囲気であるのだ。
そんな花街を、燕達一行は、盗みに遭った遊女達に話を聞くため歩き進んでいた。
「そういえば、初めてだなぁ」
「ん? どうした白燕」
「いやさ。俺、花街に来たこと無かったな、と思って」
歩きながら、思い出したかのようにそう燕が言う。視線の先には人集りと、かろうじて見える番傘。
昼の花街では、花魁道中が行われていた。華やかに着飾った花魁が、花街の道を練り歩くのである。そんな花魁の姿を一目見ようと、大人子どもに関わらず多くの人で賑わっていた。
それを横目に、萩矢はにやりと笑みを浮かべて返した。
「そうかそうか、初めてか。ま、白燕もまだまだ若いもんなあ」
意味深に頷く萩矢を、燕は合点がいかずに不思議そうに見上げた。その両隣で並んで歩いていた、子狐二人が声を上げる。
「日も初めて来たよ!」
「月もー」
「おっ、日も月も初めてか。よしよし、じゃあ後でこの萩矢が行きつけの店に――?!」
そこで萩矢の背中に叩き込まれた、吟の渾身の一撃。素手、握り拳で殴ったのだ。細身な身体のどこから出てきたのだろうかという力強い一撃で、萩矢は蹌踉めかざるおえない。
背後を歩いていた吟の、仕事をしろと言わんばかりのへの字口。振り返り、その顔を睨みつける萩矢。
「痛ってぇ……何しやがる!」
「いや……ちょっと手が滑っただけだよ?」
後ろ歩きをしつつ、燕はそんな両者の様子を苦笑いで眺めていた。そこで、くっと服の裾を、日と月が引っ張られる。
「ねぇ、燕、此処じゃないの?」
「萩矢の言ってたお店だよー」
「っと……あ、本当だな」
二人の指差す方を見ると、萩矢の言っていた目的の太夫が指定した遊郭であった。燕は、流石だな、と言いながら日と月の頭を撫でる。子ども扱いするなよ、と言いたげな視線を余所に、立ち止まったままの二人を振り返り見る。
案の定、そっちのけで未だに睨み合う奉行と覚がそこに居た。こちらの様子なぞ見てすらいない、二人。燕と日、月は世話の焼ける連れ合いへと声をかけた。
「お二人さーん? 喧嘩は後で。萩矢の旦那、仕事だぜ仕事」
「吟も、落ち着いてー!」
「深呼吸、だよー」
花街には、多くの遊女が存在する。その内、選び抜かれたたったの十数名の教養や芸事に秀でた遊女は、花魁と呼ばれるようになった。その名を持つということで、花街の遊女階級において上位であることを示すことができるのだ。
そんな、数少ない花魁の中の三人。抜きん出た才と美貌を兼ね備えた者が居た。他の花魁とは別格のその三人は、花魁の上をいく最高位の遊女であることを示す称号・太夫を冠することが許されたのだった。
そして、三人の太夫達は、いつしか兼ね備えた妖艶さ、華々しさから、妖花三太夫と呼ばれるようになっていく。
そんな世の大半の者が間近に見る事も叶わぬ、花街の三大高嶺の花は、燕達の目の前に揃って座していた。
「よう此処までお出でなさんした。あちきが妖花三太夫が一人、芍薬でありんす」
「同じく、牡丹でごさりいす」
「百合でありんす」
どうぞよしなに。そう声を揃えて言った三人の、紅を引いた唇が色っぽく弧を描いた。
「花街の一等の花々が揃い踏みたぁ、こりゃ良え景色なこった。……そうそう見られるもんじゃねえよ」
「確かに……こんな綺麗な女、そうそう居ないや」
萩矢がにやっと笑いながらそう言うと、燕はほけっと美女三人に見惚れながら、呟いた。燕の初々しい、素直な様子に三太夫はくすくすと微笑ましげに笑う。
そこで、萩矢が顔を引き締め、凛とした声音で空気を変えた。ぴん、と糸を張り詰めたようだった。
「さて、今日参上つかまつったのは他でもない。盗みについても一度詳しく、話を聞こうと思ってな」
「ほう、そうでありんすか。そいで、其方さんは?」
芍薬は、視線を燕、次いで吟へと向けた。白髪、蒼眼よりも、目元を隠した、その変わった風体が目を引いたらしい。
「……お初に、お目にかかります。吟と、申します」
「燕です」
恭しく礼をした吟に倣って、燕も礼をする。日と月は、離れるなと言ったものの、太夫達の計らいもあって別の部屋で禿達に相手をしてもらっている。補足するように、続いて萩矢が口を開いた。
「この吟は、俺の相棒でな。一緒に話を聞いてもらおうと。そんで燕――白燕は腕っぷしがあるからな。何せ、前代未聞の事柄ゆえ、何かあっては、と思って連れてきたって訳さ」
「ほう、……燕、吟、どうぞよしなに」
牡丹の言葉に、燕と吟は軽く会釈して返す。ただ座っているだけなのに、どことなく艶めかしいのが、太夫たる所以だろう。
「さて、では一人一人、別の部屋にて話しを聞こう。まず芍薬殿、お願いします」
芍薬が笑んで頷くのを見ると、萩矢は立ち上がり燕と吟を見遣った。
「吟は俺と一緒に来い。燕はここで待っていてくれるか」
「……勿論だよ」
「待ってりゃいいんだな」
燕が了承したのを見届けると、牡丹、百合と共に部屋に残して、吟と萩矢は隣室へと芍薬を連れ出した。
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虎影の住まう割長屋には、珍しく客が来ていた。其奴は、虎影の居ぬ間にふらっとやって来て、今や我が物顔でふうっと紫煙を吐き出している。
「おゥ、帰ってきたか」
出入り戸を開くと、彼の人は当たり前のようにそう声を掛ける。その姿を認知した虎影は、少し目を瞬いてから、真顔で口を開いた。
「……妖世で何かあったんですか、紫黒の旦那」
「なんだィ。……何か無いと来たらいけねェのかね?」
「いえ、そういう訳では無いですけれど」
「まぁまぁ、そんな所に突っ立ってねェで上れヨ」
くいくい、と煙管を上下に動かす旦那。逆転している立場には何も言うまい、と、虎影は無言で草履を脱いで上がる。しなやかな、旦那特有の波動が、部屋に満ちていた。
文机を挟んで、紫黒の旦那と相対して座す。元々狭い部屋が、より狭く感じた。
「……して、何の用事がおありで?」
態とらしく、虎影は首を軽く傾げてみせる。そのちぐはぐな口調と仕草を見ると、ふっと笑んでから紫黒の旦那は口を開いた。
「お前さんは絵が上手いなァ。この辺りにある絵を見せてもらったが……どれも良く描けてる」
そう言いながら、床や文机に散乱した紙の内、一枚を拾い上げると、旦那は眺めた。一匹の猫――狛を思い浮かべ、墨でさらさらと描いたものだった。
「それは……有難うございます」
軽く頭を下げてから礼を述べると、絵から視線を移した旦那と目が合う。
「誰かに習った事はあるのかィ?」
「幼少の頃に、少し」
「……その、師の名前を聞いても?」
此方を見据える紫黒の旦那の、その目付きが少し鋭くなる。虎影はただ、答えた。
「土御門清弦、と」
その言葉に、旦那は驚いたように少し目を見開くと、煙管を咥えて吹かした。ふうっと横を向いて、煙を吐き出す。そして目を合わせぬまま、ただこう返答する。
「そうかィ」
何か、感慨が混じったような、少し掠れたような声音だった。少なくとも、虎影にはそう聞こえていた。少し気になって、切り込んでみる。
「……旦那は、師匠と知り合いなんですか?」
じぃっと見詰めると、気になるのか、とでも言いたげに横目で此方を見た。紫黒の旦那は、口の端を少し上げて、含みを持たせた笑みを見せる。
「ま、そんなような関係だなァ。っと、そんな話をしに来たんじゃアねぇんだった」
そこで、煙管の火皿がぼっ、と音を立てて燃え上がった。目視できる程に一瞬で燃え上がり消えるなんて、自然に起こりえない出来事である。
(狐火……、いや、鬼火だろうか?)
じっと注がれる虎影の視線など露知らず。旦那は懐から筒のようなものを取り出すと、煙管の火皿から灰を移したのだった。
そして、煙管と筒を懐へ仕舞い込むと、虎影の方へと身体を向けて座り直した。
「ずっと、違和感があったんだィ。お前さん、……意識と身体が馴染んでないようにみえるんだな」
「……馴染んで、いない?」
よく分からない言い回しに、怪訝な顔で虎影は聞き返した。旦那は頷きで返す。そして、文机の上に身を乗り出すと、指先で虎影の額に触れる。
「一寸、整えさせてもらおうと思ってな」
旦那がそう告げた瞬間。触れられている指先から額へと、熱が伝う。暖かく、柔らかな光を浴びる。
その光が弾けるように一瞬閃き、虎影は反射的にぎゅっと目を瞑る。どくり、どくり、と自身の鼓動がやけに大きく聞こえた。
「ほれ、もう目を開けても大丈夫だ。ちィとばか、楽になったはずだ」
紫黒の言葉に、恐る恐る目を開ける。そこには、あいも変わらずにやりとした旦那が居たが、少し視界が鮮明になったような、感覚がより研ぎ澄まされたような。
今、この時代を生きているんだという実感が、虎影の中で強まったのだった。
「何か……不思議な感覚です。何も変わっていないようで、明らかに何かが違う気がします」
「良いってことヨ。お前さんも苦労しているようだしなァ」
そう言うと、ふっと柔らかに紫黒は微笑んだ。それはまるで、親が子を見守るときにみせるような、そんな笑みだった。
自然と思い出されるのは、幼い頃の彼の人の微笑みで。それに付随するように、嫌な記憶も蘇る。
「次いでに、護身の呪をもう少し、教えようかね」
紙をもらってもいいかィ、と聞く声に、虎影は意識を引き戻される。
「はい、勿論どうぞ。御教授、お願いします」
「本っ当に……堅っ苦しいねェ。お前さんは。ま、それこそ人それぞれだけどなァ」
くくくく、と笑いながら、旦那は懐から矢立を取り出す。質素ながらも品のある、旦那に似合った矢立であった。
「あっと、そうだ」
そう言って何やら思い出したように動きを止めると、旦那は此方に目を遣った。
「偶には江都に来てくれても良いんだヨ? 燕が手薬煉引いて待ってるからなァ」
そういえば、燕が帰ってから後には掛軸を貰ったものの使っていなかったのだった。
「では、この後にでも行きますよ」
「おうおう、そうしてやってくれィ」
ふっと笑い合うと、再び紫黒の旦那は矢立から筆を出し始めた。
虎影は一度立ち上がると、文机に向かう旦那の側へと座り直す。
「じゃあ、一つ一つ書いていこうかね」
その言葉を皮切りに、紙の上をさらさらと筆が黒い跡を成していった。
2018/03/14…遊女屋→遊郭に訂正しました。
2018/05/07…物語の内容を少々変更しました。