壱――夢現に見ゆ
新篇突入です。
ひらり、と淡い桃色の紙吹雪のような、桜が風に舞っていた。日向の縁側に座ってぼうっと見つめる瞳の中、小さな空へと桜が舞い踊る。
「――燕。昼餉の時間ですよ」
耳に響くのは、聞き覚えのない懐かしい声。矛盾するような感覚に不思議な心持ながら、燕は声の主を振り返る。
視線の先には、立ってこちらを見つめる男。茶色味を帯びた、女のように長い髪。優しげな瞳で、口元に笑みを浮かべて燕を見ていた。
その顔を見て、自然と名前を声に出そうとするが、燕は口を開いたものの、声が出ない。すんでのところで思い出したように感じた言葉は、霧散していってしまう。
「無理に、話そうとしなくても良いですよ」
もどかしそうに口を開けたり閉じたりしている燕を見てか、男はそう告げる。歩き来て燕の隣、縁側に腰掛けると、男は優しく頭を撫ぜながら言葉を紡ぐ。
「君の言いたいことは、まぁなんとなくですが、感じとることができますし……。慌てることはありません、少しずつ、言葉を出すことに慣れていけばいいですから」
じっと見つめ上げていると、撫ぜる手を止めることなく男はゆったりと微笑みかけてきた。
それがどうにもくすぐったいような、気恥ずかしような、嬉しいような気がして。
燕は真一文字に口を結んで少し俯いた。
それを見て男は笑みを少し深くして、さあ、昼餉にしましょうかと言って立ち上がった――。
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燕が妖世――江都に戻って来てから数日が経った頃。
たぬき屋の一階。妖怪達で賑わうその中で、燕はふわぁ、と一つ大きな欠伸を零した。黒く染められていた髪色は、すっかり元に戻っている。
「あれ、どうしたの燕ちゃん。欠伸だなんて珍しいねぇ」
朝餉を出しに来たたぬ吉は、目を丸くして燕を見た。元気溌剌とした姿がいつもの燕であるが、今は少し眠たげな目元にぼんやりとした様子である。
「たぬ吉さん……ここんところ、なんだか奇妙な夢を見るんだよなあ」
「へぇ、どんな夢だい?」
「いや、それが内容は詳しく覚えてないんだけれど……いつも、同じ一人の男が出てくるんだ」
「それはなんとも不思議な……その男の人について、何か心当たりはないかい?」
その問い掛けに、燕はなんと答えようかと黙り込んだ。記憶にない、見知らぬ人であるその男。しかし、その男の顔を見るたび、何故かしら親しみや安らぎを感じるのである。
「よく、分からねぇ……」
不服そうな顔で絞り出すようにただそう答えると、たぬ吉はぽんぽんと燕の背を軽く叩く。
「まぁまぁ、あまり気にしていても仕方ないからね。ほら、しっかりご飯を食べな」
たぬ吉が持ってきた、つやつやと炊かれた白米に、湯気を立てる味噌汁など、食欲をそそる朝餉。いつもの燕ならすぐさま食らいつくはずであるが、今は何か引っかかるようなその男の存在に唸るばかりである。
「何か、気になる。それに、思い出せそうなんだ。けど……なんか、霞がかかったみたいで……」
「そんなに気になるのかい? ……じゃあ、紫黒の旦那に聞いてみたらどうだい」
「そっか!! 旦那に聞けば何か分かるかな……。たぬ吉さん、旦那、来てる?」
「いや、来ていないよ。どこかに出掛けているんじゃあないかな」
紫黒の旦那は、たぬき屋の二階の一室を間借りしているようなものだった。ふらりと現れては煙管を蒸して、燕やたぬ吉を相手に話をする。
虎影の割長屋と繋がっている掛軸がかけられた床の間も、その部屋にあるのだつた。
「そっか……ありがと、たぬ吉さん。次に会ったら、相談してみるよ。じゃあ、朝餉、いただきます!」
「うんうん、しっかり食べな〜。それと、たぬ吉だからね」
冷めないうちに、と急いで食べ始めた燕を見てふっと笑うと、たぬ吉は仕事に戻ったのだった。
いつからだったっけなぁ、とぼんやりしながら、燕は空を見上げた。勿論、ここの辺り見る不可思議な夢についてである。現世と違い賑やかな空は、鴉天狗やら朧車やら、長く尾を引く龍が飛び交っている。
朝餉を食べ終えた燕は、何か面白いことでもないだろうか、序でに夢に現れる男について思い出さないだろうか、と江都の町をぶらりふらふらと歩いていた。
道行くのは、一つ目だったり、角があったり、人の姿を持たないものも多い。そのようなぼうっと眺めている妖世の、現世とは異なった景色たちは、虎影との出来事を思い起こさせた。そこで、はっと気がつく。
「そうだ、現世から帰ってきた後からだ」
ということは、現世に行ったことが引き金となったのだろうか。ううむ、と唸りながら、燕は一つずつ事細かに現世の出来事を思い出していく。
虎影を探し歩いて道のり、茶屋で黙らせた男、幼子の奪還、団子を頬張った後、託された絵。鬼の、絵。裏側に描かれている不可思議な文様――。
「見たこと、あったっけな?」
虎影に託された鬼の、悪鬼の絵が描かれた紙。その裏にあった文様に、燕は小さな引っ掛かりを感じる。
ふらりふらりと歩きながらいくら記憶を思い返せど、もやもやとした蟠りがその存在感を強めるのみで。
「ううむ……、やっぱ分からねぇ」
「どうしたんだ、白燕……?」
ぽつりと零した言葉に呼応するように、背後から聞こえる声。燕はくるりと振り返りみると、そこには薄紫色の短髪で、長めの前髪の下には目元を隠すように布を巻いた青年――吟が立っていた。
「おう、吟か」
「ああ、やっぱり白燕だった」
燕が向き直って返答すると、口元に柔らかく笑みを浮かべる吟。浅紫の着物に、淡藤色の羽織を纏っていた。
「なんだ、読んでなかったのか?」
「いや……読んでいたけれど、纏ってる空気が、少し違う感覚がして」
「そうか? そんなことは無いと思うけど」
首を傾げた燕に、ふふふと吟はゆったり笑む。
吟は、姿形こそ人に似ているが、れっきとした妖怪・覚であった。生きる者の心を覗き込むことができ、表に出ることない隠れた感情を読み取ることができてしまうのである。
その力が一際強い吟は、その瞳で見る事で様々な思いを読み取れてしまう。故に、力を抑制する為、目元を布で覆っているのであった。
「……危ない――」
「ん?」
なんの前触れもなくただそう告げる吟に、燕が目を丸くした瞬間。
「燕だっ!」
「だー」
「うおわっ!」
「あー……」
天真爛漫な声と共に燕を背後から襲う、二つの影。勢いよく体当たりされた衝撃でくらりと蹌踉めく。が、それきしの事で倒れる燕ではない。
地を踏みしめて体勢を立て直すと、身体を半回転させて襲撃者達を、背後を見遣る。
「日と月か!」
「当たりー!」
「りー」
したり顔でそう答えたのは、狐のお面を顔につけた二人の子ども。赤みがかった茶髪へとお面をずらし外すと、四つの茶色い瞳が燕を見つめていた。少し雰囲気が違えど、ほとんど瓜二つの顔が横に並ぶ。日と月は、双子の妖狐であった。
「久々に会ったな。元気にしてたか?」
「日は元気だよー!」
「月もー」
「そうかそうか」
嬉しそうに笑って燕が二人の頭を撫ぜると、日と月は揃って頬を膨らませて睨みあげる。
「子ども扱いするなよー!」
「そうだぞー」
「ははは、そうだったな」
姿形は子どもと言えども、二人は妖狐である。日と月は燕とは違い、正確には分からないが、生きた年月は優に七十年を越えているのであった。
会話がひと段落したところで、三人の様子を見ていた吟は、おずおずと申し訳なさそうに声を出す。
「……ごめんね、燕。日と月が急に体当たりなんかしてしまって」
「ん? ああ、そんなに気にするなよ。挨拶みたいなものだし」
「そう言ってくれると、……嬉しいよ」
何でもないように燕が答えると、吟は小さく口元に弧を描く。日と月は、吟が面倒を見ており、親代わりのようなものであるので責任を感じているらしかった。
そこで思い出したように、日が口を開く。
「あ、そういえば吟、ちゃんと見つけたよ!」
「月が見つけたのー。偉いでしょー」
「そう……、二人とも、有難う」
自慢げに言う日と月に、にっこりと笑んだ吟。事情を知る由もない燕は、その様子を不思議そうに見つめる他ない。
「見つけたって、何を?」
「奉行の、……萩矢に呼ばれてね。待ち合わせをしたのだけれど、場所がわからなくて」
「ああ、よく道に迷ってるもんな。道を覚えるのが苦手なんだったっけ」
「そう……日と月が覚えて案内してくれるから良いけれど、困るよ。良ければ、一緒に来る?」
軽く首を傾げる吟に、どうしようかなと燕は少し思案した。しかし、考えてみるものの断る理由もなく。夢については気掛かりではあれど、当てがある訳でもない。実質、暇を持て余しているようなものである。
「燕も一緒に行こ!」
「行こうよー」
両側から日と月が燕の着物の袖を掴んで、軽く引っ張りながら言う。双子の妖狐は自身に本当に懐いてくれているようで、燕は笑みが溢れた。視線を吟に戻すと、燕は返答を口にする。
「おう、付いてくことにするわ。本当に良いのか?」
「勿論。……じゃあ、行こう。日、月、案内してくれる?」
「はーい!」
「行こー」
元気よく返事をすると、満面の笑みを浮かべてからお面を顔をに付け直し、二人は歩き始める。
その小さな二つの背中を追いながら、燕は吟と共に足を進めたのだった。