拾――祓い、封ず
目を閉じると、懐かしい声が思い起こされた。
それは丁度、虎影がその男を絵の師として、勝手に慕い始めた頃だった。
『――そろそろ、私の術を、君に教えようと思ってね』
『術?』
不思議な雰囲気を纏った男は、いつだったかそう言って筆を取ると、紙に何やら書き込んでいた。
すらすらと動く筆元を虎影が覗き込むと、二重の円に、五芒星。北、南、西、東の四方位が書き込まれた、見たこともない不思議な模様だった。
『この江戸は、比較的穏やかな妖怪達で溢れている。……しかし時折、あまり良くない輩が、人々を脅かすような……悪さをすることもあるんだよ』
『そう、なんだ』
そこまで言うと、男――清弦は筆を置いて、虎影を真っ直ぐに見据えた。
『君には、妖怪を紙に閉じ込める術を教えましょう。これは、人間に害をなす妖怪に、対抗する力です』
『……』
黙って、虎影は耳を傾けていた。普段と違った、丁寧な口調が、周囲の空気を厳かなものへと変貌させる。何故、そんな力を持っているのか、何故それを自身に教えるのか。清弦の真意を探ろうとしたが、ただただその瞳は優しげに、そして少し哀しげに揺れるだけであった。
『……この力は、強大です。いつか、この力が必要なときが来るでしょう。しかし、力に溺れないでください。どうかきっと、君は正しく使ってください。君の、正しいと思ったように使ってください――』
(……私にとって、今がその時です。清弦師匠)
虎影が考えていた手立てとは、遠き日に師から教わった、妖怪を紙に閉じ込める術であった。
虎影は、黄金の瞳でまっすぐと悪鬼憑きの男を見据える。懐から折り畳まれた一枚の紙を取り出し、両手で広げる。
言わずもがな、模様の書き込まれた――師匠直伝の陣が書き込まれた、紙であった。
「!!」
それまで訝しみ、睨めつけていた男だったが、その陣を見た瞬間、明らかに狼狽える。ちっ、と舌打ちをし、荒れた口調で咆哮した。禍々しい、嫌な波動が、声に乗って虎影にぶつけられる。
「あんた……まさか彼奴の仲間か?!」
「さぁ、どうだか。知った事じゃないな」
夜が、直ぐ其処まで来ていた。
日が暮れて、人間の支配する時間ではなく、妖怪達の支配する時間が来ようとしていた。
(大丈夫だ。きっと、上手くいくだろう)
ふぅ、と深呼吸すると、意識をすっと男――その中に入り込んだ悪鬼に集中させる。
そこに見えたのは、揺らめく紅い炎。熱しやすく冷めやすいところも鑑みると、悪鬼は火の眷属であるらしい。
妖怪は必ず、火、水、地、風の四つの内どれかの眷属に属している。四つの要素は互いに影響しあい、水は火に、火は風に、風は地に、地は水に強いという四すくみの関係にある。
虎影はその四すくみを利用し、それぞれを司る四神――順に朱雀、青龍、玄武、白虎の力を借りることで、より悪鬼を閉じ込めやすくしようという魂胆であった。
悪鬼が火の眷属である以上、力を借りるのは、水を司る四神、青龍であった。
力を借りる為の言の葉も、同じ頃に師匠から教わっていた。虎影は、一音一音を噛みしめるように音を紡ぐ。
「〈……遥か東方に御坐します青き龍よ どうか手前にお力を授け給え……〉」
言い終えると、ふわりと虎影の周囲に淡い青色の光が舞い踊った。水の眷属の、紛れもない青龍の加護であった。
苦手とする眷属の力に、男――いや、男を完全に乗っ取った悪鬼は焦りを滲ませる。
「このまま、封じられてたまるかよ!!」
虎影は、すぅ、と空気を吸う。その瞬間、虎影に向かって駆け出し、男は右拳を振りかざした。
「この、……人間の子風情が!!」
「……くっ!」
殴られる。そう身構え目を瞑った虎影だったが、来るべき衝撃はなく。硝子が割れるような、ぱきぱき、という音を耳にして目を開けると、男が仰け反り後方へ吹っ飛ばされていた。
『一度だけ妖怪の牙を跳ね除けるものさ』
(……魔除けの呪か!)
紫黒の旦那に書いてもらった魔除けの呪が、悪鬼の攻撃を撥ねつけたらしい。悪鬼が衝撃で気を抜いているこの好機を逃すわけにはいかない。虎影は、流れるように誦文を唱えた。
「〈我、此岸と彼岸の狭間を視詰める者 秩序を保ち、陰と陽の均衡を守る者〉」
両手で持っていた紙の陣を、悪鬼に向ける。浮遊していた、青い光の粒が瞬く。
「〈汝、我に仇なす者 絵となり紙の、悠久に閉じよ――!〉」
「……う、あ、あっ!」
起き上がった男が、自身に向かって飛び来る青光に慄き、声を上げる。
身体を縛り上げるように軌跡を描き、くるくると男の周囲を青い光が舞う。そして、一際強く光ると、男の中に入り込んでいた悪鬼が引き剥がされてその姿を現した。火の眷属の、厳つい赤鬼であった。
憑かれていた男は、気を失ったように地面に倒れ伏した。
「くそ……! この子ども風情がぁ――!!」
がなりたてるように言葉を言うや否や、青い光がぐるぐると取り囲み、赤鬼は小さな光球に押し込められる。
その光球は一直線に虎影の手元の紙――陣に吸い込まれると、淡い青い光を散らす。
陣の描かれていた髪のまっさらだった裏面には、荒々しく猛々しい、墨で描かれた鬼の絵が浮かび上がっていた。
紙に閉じ込められた妖怪は、紙の中で一つの絵となる。浮かび上がってきた鬼の絵は、術が成功した証であった。
「子どもを、甘く見るからだ。……まぁ、私が少し普通ではないだけだけれど、な」
少し疲弊した笑みを浮かべて、絵に向かってそう虎影は返答した。
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一夜明け、虎影は燕、狛、斑と共に福茶屋でみたらし団子に舌鼓を打っていた。店の中の一角、長椅子に並んで座り、虎影は一口茶を啜ると松に声をかける。
「お松、団子をもう後二串」
「はい、二串ですね」
「んにゃ! わっちも食べたい! 黒鳶、わっちの分もう一串!!」
「げ、この猫又、まだ食べるのかよ……」
「……すまん、お松、加えてもう一串くれ」
「はあい、分かりました。計三串、少し待っていてくださいね」
「狛、呆れるねぇ……あんたって本当に、食べることについては節操が無いねぇ」
化けていない狛と斑は、客達には見えてはいない。よって皿の上には、虎影と燕二人が食べたとしても多すぎる串が、既に平らげられていた。
昨晩、無事清を取り戻した後。倒れ伏す男を見て、どうしたものかと虎影は頭を悩ましていた。
禍々しさを押し隠していたことから、憑いていたのは、なかなか力の強い悪鬼と見受けられた。きっと、憑かれていたここ数日間の、彼自身の記憶はすっぽりと抜けていることだろう。
本人にとっては無実の罪を問われることとなるに違いないが、真実を話しても大衆は受け入れないことが目に見えている。
燕が清を助けた後の詳細と共に、そう虎影が話をしていると。
『じゃあ、清が頑張って逃げてきたってことにすれば良いと思うの』
『え?』
先程までその悪鬼に捕まって怯えていた清が、口を開いた。その足元にいた猫二匹は、様子を見守る。
『だって、鬼さんが悪いだけなんでしょう? 清を拐ったおじさんも、この人の顔は見てないの。清が何も言わなかったら、この人はきっと疑われないよ』
『確かに、それなら辻褄も合うな。虎影、これなら良いんじゃないか?』
清の言葉は、思っても見ない申し出だった。それができればこの上もなくありがたかったが、本当に良いものかどうか、心配そうに虎影は問いかける。
『いい、のか?』
『うん。清ね、鬼さん見たことあるの。だから、お兄ちゃん達の言ってることを信じてるもん』
『そうか。ありがとう、お清』
『ううん。それは清が言わないと。お兄ちゃん達、ありがとう。お兄ちゃん達が清を助けてくれたから、いいの』
そう言ってのけた女の子は安堵の混じった優しい笑みを浮かべていた。燕が、優しくまた清の頭を撫ぜた。
清の提案に乗り、隙を見て清が一人逃げ出した、という風に口裏を合わせることとし、清を丹呉屋に送り届ける。その後、燕と共に虎影の住まいである割長屋に帰って、二人は一夜を明かしたのだった。
「はい、黒鳶さん! お団子三串、お待ちどうさま!」
「ああ、お梅、ありがとう」
団子を乗せたお皿を持ってきたのは、にこっと笑みを浮かべた梅。そっと長椅子に置くと、虎影が一串、燕が一串、気がつくと不自然に一串消えていった。
「黒鳶さんが沢山食べてくださるのは嬉しいけど、団子作りが間に合わないって竹姉がもう、おかんむりよ!」
「そうか、……では、お竹に美味しい団子をありがとうと伝えておいてくれ」
「わかった、言っておくわ。旅人さん、竹姉のお団子、美味しいでしょ?」
「うん。本当に、とても美味い! もう五串は平らげたな」
「でしょう! ちゃんと食べに来てくれて、ありがとうね!」
そう言うと、他の客に呼ばれて、梅は席を離れていった。今日も福茶屋は大賑わいであった。お茶を出す松も梅も、中でせかせかと団子を作っている竹も忙しいことだろう。
頼んだ最後の一串を平らげると、虎影と燕は湯呑を手に取り、番茶を飲み干す。腹を膨らませて苦しそうに横になっている狛を、呆れた目つきで斑は見下ろしていた。
「じゃあ、そろそろお暇するか」
「そうだな」
「わっち達もおさらばするとするかにゃ」
「その様子じゃあ、歩くことすらできなさそうだけれどねぇ」
「そ、そんにゃこと……あるわけが、にゃかろう」
苦しそうな狛と呆れる斑と別れ、虎影と燕は福茶屋を出たのだった。
「じゃあ、俺も江都に帰るよ。掛軸も渡したことだし」
「そうか。絵についても、紫黒の旦那によろしく頼むよ」
「あいわかった」
虎影と燕は割長屋に戻ると、新たに壁に掛けられた掛軸を前に別れの挨拶をしていた。
燕が江戸に来た理由。それは、虎影にとある掛軸を渡すためであった。
勇猛な虎が描かれたその掛軸は、妖世と現世を行き来するための扉の役割も担うものとして紫黒が用意したもの。
向こう側ではたぬ吉が商うたぬき屋の二階に繋がっており、燕と虎影が自由に行き来できるようにということらしかった。
「じゃ、またな、虎影」
「ああ、またな」
握り拳をこつんとぶつけ合わせると、にっと二人して笑った。燕はすっと掛軸に触れる。そして、旅人は掛軸の向こう側へとぴょんと飛び込んだのだった。