1.春の訪れ
ドサリと、雪が落ちる重たい音で、俺は眼を覚ました。
この病室からは何も見えないけれど、朝の日差しで雪が溶けかけているのかと思う。冬に閉ざされたこの国にも、ようやく春の訪れが近づいて来ているのだろうか。
この北国よりもさらに北の果て。
北極より襲来して大陸に多大な被害を与えた魔族が駆逐され、魔王が討伐されて十年ぶりに平和が戻ってきたのだ。きっと人々は明日への希望に満ち溢れ、いまだに戦火による荒廃の傷跡が深いこの街にも、かつての活況が取り戻され始めているに違いない。
一方で、人も寄り付かぬ静かな城の一室で寒気が入らぬようにか、小さく区切られた窓を見上げている俺は世界から取り残されたような寂しさを感じていた。
「終わったな」
……俺の長い冒険の旅も。
二十四歳で異世界に召喚されて、伝説の魔剣の勇者として各地を転戦し。
ついには北極の魔王城まで攻め寄せて、人族対魔族の長き戦いに終止符を打った長い冒険。
厳しい苦難の日々ではあったが、囚われの姫を助けたり伝説の魔剣を振り回せる男ならば誰もが憧れるファンタジーな毎日だった。
つい一ヶ月前まではそうだったのに、こうして眼を覚ましたら全部夢だったんじゃないかと思えて仕方がない。
なぜなら、今の俺は傷ついて、燃え尽きて、魔剣の勇者としての力どころか、スライムにも負けそうなレベル1だ。
身を起こそうとするのにも一苦労な人間をもはや勇者とは呼べまい。魔剣どころか、もう棒きれも振れそうにない情けない身の上。
ベットで身を捩るだけで、身体の節々がキシリと傷んだ。関節を針が刺すような鋭い痛み、内臓から来るじわりとした鈍い痛み。様々なタイプの痛みが、俺の行動を阻害する。気持ちが萎えかけそうになる。
回復魔法によって俺の外見は治っているようには見えるが、あまりに深く傷つけられた筋肉や靭帯の激しい損傷まで完治することはなかった。
回復しないのは大魔王の呪いなのだそうだ。魔王の側近の吸精公爵にエナジードレインを食らって極限までレベルダウンを受けたところに、魔王の一撃を受けてしまった。
死ななかったのがおかしいぐらいなのだ。相打ちを狙ったわけではないが、魔王を倒せてまだ命があったのは幸運だと言われた。
痛みに歯を食いしばりながらベットサイドの手すりに寄りかかるようにして身を起こす。
まだ俺は二十代だというのに、この不自由な重たい身体はまるで老人のようだ。
治療してくれてる大賢者シドンによると、このまま治療を続ければ歩けるようにはなるという話だったが、もう剣士としては戦えない。
「はぁ……」
思わず嘆息する。動くたびに軋む身体にまだ慣れてないから、呼吸を整えないと気合が入らない。
痛みをねじ伏せて立ち上がるのだ。
「何してる、寝てなきゃダメじゃないか!」
お盆を持った少女が病室に入って来るなり、俺に慌ただしく声をかけた。チェニックを着た赤髪の小柄で凛とした少女だ。
チェニックと言っても、女性用のカジュアルなものではなく胸元に王国の猫竜の紋章をあしらった軍服である。
お盆の上に乗った土鍋からは良い香りがする。北方のこの国、灰雪国の食生活は概して質素だ。雪に閉ざされた土地でもあり、言ってしまえば貧しい土地柄だ。
柔らかいものしか口に入らないため、鍋の中はまた麦粥だと思うが、この青葉を感じさせる爽やかな香りには覚えがある。南方産の香草を奮発してくれたんだろう。
香草は、香りづけとしても好まれるが食欲増進の薬草でもある。この北の果ての灰雪国ではめったに口に入らない貴重品だ。
昨日はあまり食べられなかったから気を使ってくれたのだろうが、ただでさえ復興間もない国の国庫に負担をかけてると思うと心苦しい。
「いや、少しでもリハビリしておきたいんだ」
少女は、俺が起き上がろうとするのを遮るように俺の腹の上に粥のトレーを乗せた。
「あんまり、リハビリしすぎても良くないって聞いたぞ。ほら、朝ごはんを持ってきたんだ」
「ああ……ありがとう」
俺は素直に木の匙を受け取って、少女が小皿に取り分けてくれた粥をすくって食べるがあまり食欲はない。
香りは良いと思うんだけど、ああ良いな南方。こんな寒いとこじゃなくて、暖かい土地に行きたいと不意に思った。
「食べないと良くならない」
「そんなこと……」
言われたって分かっているのだ。せっかく出された食事だから食べなきゃと思うけど、でも胃が重い。
「それとも、美味しくないか。私が作ったんだが、不調法だからこんなことも上手くできなくて恥ずかしい」
「いや、味は美味しい……と思う」
正直なところ味なんか分からない。良い香りは分かるが口の中に入れても舌が痺れて飲み込めない感じなのだ。何とか無理に飲み込んでみたが、小さな木皿の半分を食べたところでギブアップだった。内臓が弱っているせいだろうと思う。
この前まで、自分では食事できなかったのだからこれでもマシになったほうか。
「勇者殿の体調が回復したら、すぐに連れて来るようにエリーザベト姫様に言われていたのだが、これじゃまだ無理そうだ」
俺のスプーンの進みっぷりを見て、悲しそうな顔で少女は言った。
「お呼びとあらば、行かざる得ないけどね。この国には迷惑をかけてしまってるんだから」
多少無様だが、杖があれば歩けるぐらいにはなっている。
今はこの国の女王陛下になった、姫様に謁見するぐらい何とかなるだろう。
「そんな迷惑だなんて……、うちの国も私も、勇者殿には返しきれない恩があるのだから、お世話ぐらい当たり前だ」
「少なくとも、君が俺を世話する必要はないけどね」
こうして普段着に近い服装でいれば、ただの可愛らしい小娘にしか見えないが、彼女は城の侍女でも看護師でもない。
イーミャ・ヴォルブルガ・エスターライヒ。この国で最強のレベル99に到達した猫竜騎士であり、一緒に最後の魔王討伐戦にも参加した仲間の一人なのだ。
灰雪国の猫竜騎士といえば、一騎当千の少女騎士として大陸全土に名が轟いている。
この国の兵制はよく知らないが、領地持ちの貴族であり上級騎士には当たるのだろうから、下女の真似をさせるのも心苦しいのだ。
ちなみに俺は、日本のごく普通の一般家庭の出だ。
異世界人であるし、魔剣の勇者としての実力があったから戦時下では優遇されていたが、もう過去のことである。
「必要はある、だって私は貴方に命を救われた」
イーミャは茜色の瞳をキラキラと光らせる。俺としては、またその話かと溜め息を吐く。
あの大魔王との最終決戦の時に、エナジードレインの先にいたのは本来なら彼女だったそうだ。それを俺が受けてしまったのに責任を感じているらしい。
「何度も言ったが、別に君を助けるために飛び出たんじゃないから」
ダメージを受けて膝を付いた魔王の首を討ち取れると思ったから、つい飛び出してしまったのだ。油断もあったかもしれない。
回復不可能なほどの攻撃をまともに食らってしまった。
結果として魔王に刃が届いて致命傷を与えることに成功したのだから、判断ミスではなかったと思っている。
でも、必死だっただけでイーミャを助けるためではなかった。
「分かってる、私を助けるためだったのだな」
分かってない……。なんで何度も説明してるのに理解できないんだ。
若干十五歳で、魔王討伐パーティーに選抜される天才だけあって竜に乗っていなくても卓越した戦闘センスを誇っている。あらゆる武器を使いこなし、長物を使わせても剣を使わせても、右に出るものが居ない。
ただでさえ強い猫竜という巨大生物を使役して、騎士としても強い攻撃ができるのだから天与の才と言ってもいい。
正直、魔剣が使えなければ全盛期の俺でもまったく勝ち目がない。戦闘面では文句なしに天才なのだが、残念なことにこの女の子は騎士道が形になったような変人だ。
「違うから、恩を感じることはないと何度も」
「騎士として、命の恩は命で返さなければならない。勇者殿から受けた恩は、我が身を引き裂いても足りぬほどだ」
イーミャは、俺に恩を返すと言い張っている。
仮にも王国の騎士なら後輩の育成もあるのだろうに、こんなに頭が硬くてよく務まってると逆に感心してしまう。
まだ年若い天才だけあって言ってることが常人には理解し難い。
こんな騎士の従者になったら大変な苦労をしそうだ。
「分かったよ、女王陛下に後ほど拝謁する。そう連絡してくれ」
城の厄介者になっている以上、呼ばれれば挨拶しないわけにはいかない。
あとついでに彼女を看護に付かせるのは、いい加減止めさせよう。
言動がいちいち理解し難い女の子とはいえ、これでも高位の騎士なのだから女王か大臣が言えば、止めるだろう。
まだ戦後復興も半ばなのだから、こんなところで戦闘の天才に下女の真似事をさせているのは国の損失にもなるはずだ。
「じゃあ、まず身体を拭くことにしよう。身なりを整えず、姫様の前に出るわけには行かない」
暖炉で沸かしたお湯を持ってきてくれた。こういうところは、ありがたい。
言ってることは噛み合わなくても、丁寧に看護してくれてくれることは分かるのだ。タライに入れた濡れ布を搾って差し出してくれるのを受け取ろうとしたら、すっと避けられてしまった。
「じゃあ、それを渡して退室して。ちょっと身体を拭くから」
別に半裸ぐらい見られてもいまさらだが、まだ子供らしい幼さを残した少女とはいえ、一応相手は女騎士なので礼儀として俺は言ったつもりだった。
それなのに怪訝な顔をされる。
「いや、私が身体を拭くに決まってる」
いや、決まってない。
「もうとりあえず手足は動かせるようになったから、拭くぐらいは自分でできる」
身体を動かすたびに四肢が軋むように痛むから。少し時間はかかるだろうが、もう身体を拭くぐらいはできる。
「無理しちゃダメだ、まだ痛むのだろう。……勇者殿の痛みは私の痛みだ」
そりゃ身体は痛むが、下の世話から身体を拭くことまで他の人間にやってもらうのは恥ずかしいのだ。体の痛みより、その精神的羞恥の方が勝る。
だからどれほど痛もうが……って、待て。
「なんで、イーミャが脱いでるんだよ!」
彼女は突然、俺の目の前でチェニックをゴソッと脱いで上半身裸になった。いや、下着はつけている。ささやかな胸に布を巻いているから一番大事な部分は隠れているが、そんな問題じゃない。
「私の服はキメが粗くチクチクするから、拭くときに勇者殿の肌が傷ついてしまってはいけない」
「そんな問題じゃないだろ」
もう、俺がどうこうの話ではなくなってしまった。
思わず目をそらしたのがいけなかった。
「ほら、服を脱がせるから。大人しくしてくれ」
「わわっ、止めろ!」
小柄な少女にこれほどの力があるのかと思わせるほど、有無をいわさずシャツを脱がされる。
いや、俺の抵抗する力が弱すぎるのか。為す術もなく、彼女は下着姿のままで俺の上に腹ばいとなり上半身を暖かい濡れ布で拭いていく。
十五歳の小娘の薄い胸に興奮するわけもないが、ぴったりと胸が俺の胸に当てられていると生暖かい感触が伝わってくるし、下着に巻いている布が少し緩んでいるせいか白い胸元が覗いてしまう。
そうか、日照時間が短いから肌が白いんだな。
騎士だけあって筋肉はよく鍛えられているが、若々しい肌は弾けるような美しさがある。
入院生活が長いせいか、魔が差してそんな変なことを考えてしまった。一回りも年下の小娘相手に何を考えているんだか、俺は邪念を振り払おうと頭を振る。それにしても、なんでこんな変な体勢で拭いているんだ。
イーミャは、そういうこと全く考えないんだよなあ。
「こんなに痩せてしまって、これも私のせいだ」
「くっ……」
もうこうなっては眼を逸らして、清拭が早く終わってくれることを祈るしか無い。ほんの少しの辛抱だ。
「下も脱がすから」
「ちょっと待って、そこはさすがに――」
悪いことは続くもので、その時病室の扉から叫び声が聞こえた。
「うあああああああああ、ボクの患者に何やってくれてんだー!」
ものすごい勢いで叫びながらかけよってくる白衣姿で、白髪と見紛うほどの美しく長い銀髪の幼女。
俺の担当医師、回復魔法だけではなく魔法ならなんでもござれのオールラウンダー、大賢者シドン・コイヴニエミ、このちっこいのも魔王討伐メンバーでレベル99である。
ちなみに、幼女に見えるのは見た目だけで古の長命族なので、本当はかなりの高齢のはずだ。耳の長いロリババアである。
いや、それ以前にこいつは性別すら明らかではない。もう四年ぐらいの付き合いになるのだが一人称はボクであり、都合のいい時に性別までコロコロと変えるのでハッキリしない。
幼女かどうかすらわからない。もしかしたら幼男子なのかもしれない、もしかしたらその両方かも……なんだこいつ。
よく考えると謎だらけだな。大魔王との戦いに忙しくて深く考えてなかったが、そもそもエーフ・ガードって種族が何なのかも俺は知らない。
「身体を拭いていただけ」
「清拭も治療の一部なんだよー、素人がボクの患者に手を出さないでー。ボクがやりますから即刻どいて、というかどけー!」
パンツ半脱ぎの状態の俺の上で、少女騎士と幼女医師が押し問答を始めた。
いくら小柄とはいえ、天才騎士である小娘を幼女が押し返した。何かの魔法を使ったのだろうか。
「勇者殿は、私が洗うのだ!」
「やー、ボクの患者だよー!」
何らかの魔法で押し返された少女騎士は、体格で勝る俺の身体をやすやすと持ち上げて幼女から逃げる。
わーい、お姫様抱っこだ。
「なんて喜べない……」
大の大人が、少女に抱きかかえられて抵抗できない。情けない気持ちでいっぱいだった。
ほとんど食べられないせいか、痩せ細った俺の身体は小柄な女の子に持ち上げられるほど軽くなってしまったのだ。
今スローライフ小説が熱い!
スローライフと自分の作風は一番遠いと思ったんですが
いろいろ疲れることがありまして、ちょっと筆休めに書いてみました。
新木伸先生の異世界Cマート繁盛記を読んで「こういうのもあるのか!」と感動して自分でも書いてみたくなったということもあります。
まだ全然スローな感じになってないんですが。
三話ぐらいから癒し系になりますので、どうぞお付き合いください。