7.労働と小包
ようやく空になった洗濯カゴを持ち上げようと伸ばした手の先に、どさりと積み重なる汚れ物。
「洗っといて」
見上げれば、カゴを逆さにした同室の先輩が、不気味な笑顔で立っていて。
「行くよー!」
「今行く」
先輩は入口から呼ばれて、駆け足で去っていく。
「うーん……」
明らかに自分のではない、洗う前の下着を広げる。
寄って来たエイナルファーデが弱弱しく笑っていた。
「もっかい、水とってこよっか」
「うん」
急に重くなったカゴをその場に残して立ち上がる。
***
「集荷?」
エイナルファーデが頓狂な声をあげてキューナを見た。
「うん。実家に荷物送ったりとか、するでしょ?」
「しないよー。あのねキューナ、ここでは、手元から離した物は戻ってこないのが常識」
戻ってこない、というのはつまり。
「……ここから何かを送ろうとしても、何かが外から届いても、誰の手に渡っちゃうとか、そういうこと?」
「そゆこと」
ぱちんと指を鳴らすエイナルファーデ。
「あ、でもね、全く物流がないってわけじゃないんだよ」
「うん、昼に荷運びやったし」
「あ、そうだったんだ。そうそう、ああやって、届く荷物はまず上官が手に取ることになるかな。金品はまず取られちゃうし、よく分からないものは捨てられちゃうみたい」
検閲ってことか、と旧騎士団時代にあったと言われている、悪しき徹底主義の制度の名を思い出す。
「送るほうはね、本棟の一階に投函口があるんだけど、回収係が上官への献上品に使うから。偉い人は敷地の外まで出しに行くんだよ、西側の丘の上に伝馬局があるの。樽抱えて坂道駆け上がるのはきつかったなー」
「樽?」
「うんそう、なんか花っぽいにおいの、紫色の液体が入っててね」
「……それはたぶん、密輸品の酒だねぇ」
中央州でもよく引っかかって押収される、濃度の強い酒。少し手を加えると劇薬になることで有名な、造酒法で製造が制限されている品種だ。
「あ、やっぱり?」
エイナルファーデはあっけらかんと言った。
「……やっぱり、って」
「そのうち別棟にある備蓄庫の仕事もあると思うから分かるだろうけど、ここの敷地に置いてあるのって、そういうのばっかりだもの。小屋何個分になるのかな。キューナだって、昼間もそうだったんでしょ?」
そういうのばっかり。一人二人のこづかい稼ぎを、直属の上官が黙認しているとか――そういうレベルじゃ、ないのか。
「覚悟しておいたほうがいいよ、そういうの、日常茶飯事だから」
まるで当然のことのように平然と説明するエイナルファーデに、キューナは愕然とした表情を隠せない。
「大抵の上官は自分の隊のことを、自由に使える駒だとしか思ってない。大尉クラスの人たちは、そうやって色んな悪事をして私腹を肥やしてるのよ。成果と報酬は自分が総取り、もしバレても犯人になるのは実行犯である私たち下っ端だからね。まぁ、爆発物じゃなくてよかったよ」
そんなエイナルファーデに、キューナはただありきたりな相槌を打つことしかできなかった。
「よいしょっと」
貯水庫からくみ出した水を、洗い桶に注ぎいれる。みぞれ混じりの水しぶきが上がる。水面を見つめた後、決意をかためた両手をつっこむ。
「ううっ、冷たー!」
本日2回目だけど、それでも悲鳴は上がる。
「今日のはまだいいほうだよ、そんなに汚れてないし、増えたの一人分だけだし。私たち、二人だしね!」
明るく笑っててきぱき動く隣のエイナルファーデに、キューナは去年の様子を想像して、うん、と小さくうなずいた。
***
洗濯帰り。廊下を歩きながら、すれ違う騎士を眺めてキューナが呟いた。
「……そういえば、ここって、メイドとか使用人とかいないんだね」
ぼんやりとキューナが言うのに、ああうん、とエイナルファーデの歯切れの悪い返事。
「昔はいたらしいんだけどね。みんないなくなったって」
急に脇道から飛び出てきた頭が声を発した。
「い、いなくなったってそれって……」
「わ、びっくりしたヤスラ」
「騎士の気まぐれで殺されたり、逃げ出したりしたっていう話」
「うへぇ、そういう話ばっかだなぁ」
「それにね、医者もいないの。怪我しないように気をつけてね」
「うげええ」
エイナルファーデはヤサルタの顔をじっと見て。
「一年の子だよね。ここ女子側の階段だよ、怒られちゃうよー」
「おう、迷った!」
「あはは、いさぎよい」
部屋番号を聞き出したエイナルファーデが帰り道を教えてやる。
「さんきゅー!」
ヤサルタは両手を振って、飛ぶように去っていく。
「元気な子だねぇ、いいねぇ、弟に似てる」
「なんだ。好みとか言うのかと」
「ええー私は年上が好きなんですよー?」
部屋のドアを開けて、すぐに寝台に寝転ぶエイナルファーデの横に、真似して同じように寝転ぶ。
「仕事がないうちに仮眠?」
「そうそう」
エイナルファーデが眠ったことを確認してから、キューナはそっと身を起こす。棚に入れていたボストンバッグを取り出して床に置いた。冷たい床板に片膝をついて、物音を立てないように細心の注意を払いつつ、カバンから大きめの包みと紙を取り出した。部屋の窓を押し開ける。夜風を頬に感じながら窓枠に片足を載せて。
カーテンが大きくはためき、すぐに大人しくなった。
窓は元通り閉まっている。黒髪の少女の姿はもうなかった。
***
塀を越えて本部の敷地を抜け出し、伝馬局で中央州宛の包みを投函した帰り、キューナは石畳を駆けていた。角を曲がろうとしたとき、見覚えのある濃紺の服が見えた。反射的に細い路地に飛び込んで身を隠す。
――騎士だ。
息を潜めるキューナの前を、いくつかの軍靴の音と影が俊敏に横切る。
「トゥイジ元帥! いました!」
憲兵の友人に教えてもらった密偵の要領で、息をひそめたキューナは、路地からそっと盗み見る。
北州騎士団本部を囲う塀の前に、数人の騎士が立ちふさがっていた。その足の隙間から見えた顔は――緑色の怯えた目をした子ども。入隊一次試験の直後、まだそんなに北州のヤバさが分からなくて危機感もないときに、迂闊にも本部への伝令を頼んでしまった子だ。生きていたとわかってほっとした。
一つの足音がゆっくりと近づく。
「やけに手こずったな。この距離だぞ、見失うとはどういうことだ」
「も、申し訳……」
子どもを包囲していた一人が吹っ飛んだ。なぎ払った警杖が、トンと軽い音を立てて石畳を打ち鳴らす。
「げ、元帥……」
一人がおののいて呟いた。
あれが――トゥイジ元帥か。
その横顔を目に焼き付ける。元帥の目がぎょろりと下を向いた。
「また会ったな、ガキ。……やはり、近かったな」
子どもは何も言えずに、目を大きく見開いたまま震えている。
一度頭を引っ込めたキューナは、目の前の雨どいを掴んだ。強度を確かめると、民家の壁のレンガの目地にブーツの爪先を引っ掛けて、体を引き上げた。往路じゃなくてよかった。荷物がないから両手が自由に使える。煙突掃除用の梯子までたどり着き、上りながら耳をすませる。
「一体、中将殿はどういうおつもりで……」
「さてな。ただひとつわかるのは、これがただの視察延期ではないということだ。まずは居場所と行動を知る必要がある。たった一人と侮らず、充分に警戒しておけ。なにか情報が入ったら、必ず、まず私に伝えろ」
「はい。他の基地の味方にも、一報は済ませてあります。汽車も中央も動きはありません」
「騎士団以外もだ。使節団、貴族、傭兵、何と結託しているか分からん」
「はい」
「不要な書類も早めに処分しておけよ」
「はい。将校たちに通達を出してあります」
屋根まで辿りついたキューナは、彼らを見下ろしつつ呟いた。
「ちっくしょ……頭、回る方だなぁ」
でも、彼らの口ぶりからすると、元帥の狙いはアルコクト中将だけ。包囲している騎士たちや子どもの生死に関わる危害を元帥が加えるようなら横槍を入れて逃走して撒こうと、隠しナイフを袖の中から手に移して、柄を握る。
それまでは、できるだけ情報がほしい。
トゥイジは神経質そうに周囲を見回してから、低い声を出した。
「このあたりの宿をさがせ」
「はいッ」
数人が散り散りに駆け出していく。子どもが慌てて叫ぶ。
「う、受け取ったの、ここじゃないし、あれから会ってない、よ!」
「そうか」
一応、相槌は打ったが、意に介さないといったふうで。
子どもの周囲に散らばる雑芥を見て、トゥイジが言った。
「お前、ここに住んでるな?」
子どもが身を硬くした。
「そうだな……ここを動かなければ、時々はメシをやろう。死なれては困るからな。ただし、逃げたら殺すぞ。それから、あの手紙を持って来た女とまた会ったら、話でもしてできるだけ引きとめておけ。会ったことや話した内容は早く、必ず知らせろ。そうでなければ殺す。分かったか?」
一方的にしゃべり、丁寧に復唱までさせて。
今度は部下に向き直る。
「まぁ、宿にはいないだろうな。あいつらが戻ってきたら民家や商店もだ、しらみつぶしに当たれ。本棟と新宿舎と倉庫の警備以外は全て回せ」
「はい」
幸運だ。敷地内の衛兵が減ればキューナとしても動きやすくなる。
「なるほど……結構血眼なわけね」
それほど、中央に知られたくない事情があるということか。全員が引いていくのをほっとしながら見送って、時間を気にしながら足を踏み出す。
騎士たちと入れ違いに、体格の良い衛兵が一人駆け寄っていくのが見えて、動きを止めた。
「あ」
その顔には見覚えがある。初日に案内してくれた門番だ。
呆然としていた子どもが彼の足音に気づいて、ぱっと笑みを浮かべる。騎士から乱暴な口調だが気遣う言葉が投げられて、子どもは嬉しそうに礼を言って立ち上がり、大丈夫だと証明するように飛び跳ねる。
「へぇ、友達なのかな……えーと、大尉か」
あの子に味方が一人でもいるとわかってほっとした。二人の邪魔をしないように数ブロック迂回してから、塀を越えて敷地内に戻る。
「……あれ?」
何の気なしに見た本棟に、明かりのつく窓が3つ。暗すぎて時計塔の針は見えないが、執務はとっくに終わっている時間だ。よっぽど居残らなければいけない仕事があるのか、それとも。
キューナの呆れ笑いが、月明かりに照らされる。
「……咎めるものがいないと、堂々としたものだなぁ」
明るい部屋の位置を覚えてから、宿舎に戻る。食堂から聞こえてきた声にひょいとのぞきこむと、怒りの表情をしたイグヤと目が合った。
「おい、どこ行ってたんだよルコックド」
「えへへ、ちょっと宿舎の中で迷ってた」
「はあ?」
「仕事だぞ。今晩中にこの山片付けないといけないってよ」
ヤサルタが目の前のかたまりを指さして、
「細かく砕いて袋に詰める。袋が破れたらやり直し」
薄っぺらく明らかにもろい布袋をぱたぱたと振る。
「つーか、これ何?」
「保存食だろ」
「この街でよく売ってる奴はここまで固くねーよ、食べれんの? これ」
「くっちゃべってねーで動けよ?!」
見知らぬ先輩の怒声に、慌てて会話を止めて作業に加わる。木材のような固さの雑穀のかたまりを指で押しつつ、
「……まさかね」
「ん?」
「なんでもない」
キューナは首を振って、近くの木槌を振り上げた。
***
「……終わったー」
イグヤが床にへたりこむ。
「先輩たち、もういないぞ」
キホの声に食堂を見回せば、確かにいるのは一年だけ。
キューナは木戸を細く押し開けて、外に頭を押し出した。思ったより暖かい風が頬を撫でて、
「あ」
「どうした」
追って顔を出したキホと一緒に、塀の向こうに明らんだ空を見つけた。時計塔が指す時刻は――4時。
「げえぇ」
キューナとキホの間から顔を出したイグヤが、蛙のような声をあげた。
「これもう朝だよ……」
「……なぁ、昨日、起床何時って言われたっけ」
「えーと、朝食の用意が7時までに必要だから……」
「……考えてねぇで寝ろ」
凝り固まった腰やら肩を叩きほぐしつつ、のろのろと足を引きずって部屋に戻って、すぐに泥のように眠りに落ちる。