フエフ編(前編)
本編終了後の話。
外の演習場から、威勢のよい号令となじみ深い打撃音が聞こえてくる。
山積みになっていた承認書類をようやく全て片付け終えたクウナは、まだ読んでいない計画書の山を脇へと押しのけて、自身の執務室で大きく伸びをした。
椅子に座ったまま身体を大きくねじって、その不安定な姿勢のまま、賑やかな屋外の様子をしばらく眺める。
「あー、いいなぁ、楽しそうだなぁ……」
四脚の椅子を大きく傾けて、二点だけでバランスをとりながら窓硝子に手のひらをつける。冷えた板硝子の向こうに見知った顔をいくつか見つけて微笑んだ。
「……どうにかして、演習が終わるまでに合流できないかなー」
クウナの仕事は書類に判を押すことだけではない。北州騎士団には、そもそも規則や必要書類が存在していない業務も多く残っている。それらの現状を調べ上げ、最適な方法を検討し、分担を割り振って徹底させる――昼夜問わずせっせと働いているのだが、ちっとも減っている気がしない。
今にも演習の終わりを告げかねない時計塔を睨みつけながら、どうにかして今日の仕事を一瞬で片付けられないかと必死で考えてみるけど――連日考えていることだ、今日も名案はさっぱり浮かばない。
諦めのため息をついて窓から離れる。手を置いていたところ以外が白く曇って残った。
「当分は演習後に相手してもらうしかないか」
手土産片手に夜の宿舎にお邪魔して、体力の余っていそうな人を演習場に引っ張り出して打ち合う。ここ連日続けている日課を今日もやることになりそうだ。
そうと決まれば誰にするか。キホ、イグヤ、エイファあたりは昨日の荷運びの筋肉痛が残っていてしんどいだろうし、班長は先日の対戦でぶちのめして以降「策を練る」とか言って相手してくれないし、副班長やアサトさんは今大忙しだろうし。
そんなことを考えていたところで、目の前の扉から、控えめなノックの音が響いた。
「はい、どうぞー」
数秒の間を置いて、扉がそっと開く。
「――失礼します」
「しっ、失礼いたします」
落ち着いた声と焦ったような声。
「じきじきにいらっしゃるの珍しいですね、どうしました?」
顔を覗かせる前にクウナにそんなふうに言われて――上品な調度品の並ぶ執務室に入室したトララードは驚いたように少女を見た。そしてその手元にある書類が全て片付いていることに気づいて、さっと低頭する。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいえー。それで?」
「私はただの付きそいなのですが、」
そう言って、隣に立っていた青年の背を押した。
「あ」
よく見覚えがある。彼とはここ数日、不定期にだけど毎日のように顔を合わせているから、用件はすぐに分かった。トララードが付き添ってきた意味も。
「……な、何度も本当に申し訳」
そう言いながらぶるぶる震える半泣きの通信士に駆け寄り、
「ああごめんね、私が悪いんだ、ありがとう」
彼の手から伝言メモをさっと受け取る。読まなくても中身は分かっている。本部の騒動が全て片付いたとおじいが北州騎士団の全基地に発信した翌日から、連日届けられている『詳細求ム』の一言だ。
文面を把握しているらしいトララードが「あの」とクウナに進言する。
「よろしければ、各方面への通達文の控えが残っておりますので、少々手直しして東州の遊撃部隊宛にお送りしましょうか」
「あぁ違うの、ありがとう、これそういう意味じゃなくてね。えっと、トララードさん『打徹』って分かる?」
メモをぺらぺらと振りながらそう聞くと、トララードは首を振って通信士を見た。通信士がおずおずと言う。
「通信用語です。俗語の。宿直担当が酒を片手に、他の基地の通信士と夜通し打鍵する、通信士の宴会のことです」
「うんそう、北州にもあるんだね。これ、その『打徹』のお誘い。業務とは全く関係ないし丸々一晩空けられる日がなくて後回しにしてたんだけど、ううん、そろそろ潮時かな。私も話したいことたくさんあるし。ねぇ、今晩あたり一室借りても良い?」
「はい。ちょうど自分が宿直ですので、いつでもいらしてください」
通信士の青年はほっとした表情を浮かべて答え、素早く敬礼を向ける。
「本当? じゃあキミも一緒に飲もうよ。何持っていこっかなぁ……あ、カロとキホが漬けた冬橙酒の味見しなくちゃ。それからー」
うきうきしながら背後の戸棚を開け閉めし始めたクウナを見て、文官二人はそっと退室しようとする。クウナがふと思いついて、
「あ、待って待ってトララードさん、別件」
「はい?」
大小さまざまな酒瓶を両腕に抱えたまま振り返って呼び止める。テーブル越しに文官二人と向かい合った少女は、腰の剣を目線で示してから、ニッと好戦的に笑んだ。
「今日の執務後、ちょっと相手してくれません? 書類仕事ばっかりで鈍っちゃって」
トララードは目を点にして、少女の帯剣を見て、自身のひょろ長い身体を見下ろして、それから視線を戻し。
「……………貴女もよくご存知の通り、私は根っからの文官ですが」
「うん。だから、今この基地にいる人、3人まで選んで良いよ」
「と、おっしゃいますと」
「いっぺん敵として戦ってみたかったんだよねー」
その口ぶりに、『改革』時の参謀のような働きを求められていると気づいて――トララードはあごに指を当て一拍の間を空け、まんざらでもない様子で微笑む。
「では、遠慮なく」
「どうぞー」
「ウォルンフォラド中将とリュデ小将、それに……あ、騎馬の使用は可でしょうか?」
「あはは、ホントに遠慮ないなぁ。通常の騎士団支給品の範囲なら何でもどうぞ。あ、最後の一人は私が決めていい?」
トララードがうなずくのを視界の端に捉えつつ、クウナは酒瓶をテーブルに置いて窓を開け放つ。吹き込んできた風が少女の黒髪を舞い上げる。
ちょうど演習の終わった眼下の草地に向かって元気良く叫ぶ。
「ティーフ! ねぇ今日付き合って!」
彼女の後ろからのぞきこんだトララードが、敬礼と承諾の仕草を返す少年に、ほうと目を瞠る。
「ルタの少年ですか」
興味深そうに言う。
キホたちとの一戦以降、アルコクト大将の執務後の連日の手合わせは知れ渡っていて、すぐにそれと気づいた何人かが、テルテュフトに駆け寄って、肩に手を置き口々に激励を送っている。最近少しずつ増えてきたルタの理解者を数え、クウナは窓枠に頬肘をついて満足そうに微笑んだ。
***
結論から言うと、その対戦は実現しなかった。
集合場所に現れて組み合わせを聞いたウォルンフォラドが、良い顔をしなかった。
「どういう組み合わせでもいいが――二対二だ、でなきゃ俺は参加しない」
きっぱりと言い切ったその言葉を聞き、少し離れたところに立っていたソイが、群衆の中で不可解そうに呟く。
「どういう意味だ? 実力を均等にしたいんなら、組み合わせ自体を指定しねぇと」
近くにいたフェルが、ウォルンフォラドを指さして苦笑混じりに答える。
「あー、いいや、たぶんあの人、そんなこと考えちゃいないよ。自慢じゃないけど、ウチの中将は根っからのフェミニストだから。女性のクーさん相手にするんなら、単に頭数を揃えたい、ってだけだろうね」
その横にしゃがんでいたエイナルファーデがものすごく瞳を輝かせて、
「すてきー!」
と甲高い声で叫ぶ。周囲にいたウォルンフォラドの部下数人がはははと笑う。
「がんばれ嬢ちゃん、あの人は競争率高ぇよ?」
「それを言うなら北州にいるうちがチャンスだぜ。中央じゃまともに話もできねぇって、そこらじゅうから怒られるからな? ……部下の俺らが」
はー、とそこらの男たちが一斉にため息を吐く。エイナルファーデが苦笑しながら労いの言葉を口にした。
キホが不思議そうにエイナルファーデを見て言う。
「ハノアッジ、トララード中佐派とか言ってなかったか」
「ああ、それ言う? そう、そうなのー。中佐とクウナを見に来たんだけどー、ウォルンフォラドさんカッコイイ上に紳士って最強じゃない? それに、それにね、あの子も可愛くない?」
じたばたしながらエイナルファーデが指さす先には、話し込むクウナたちの脇で、黙々と腕や首のストレッチに興じているテルテュフト。
「……そうか」
過去幾度となく女性から『朴念仁』と称されたことのあるキホは、きょとんとしたままうなずく。
「なーんかちょっとミステリアスだよね!」
「お、二対二にするらしいぞ」
誰かの声に意識を戻せば、クウナが片手を挙げて提案するところだった。
「じゃあどう分けよっか。トララードさん、使ってみたいひと取っていいよ」
言ってから、本人たちを目の前にして選ばせるのは酷かな、と思い直したクウナが言い足す前に、
「では、リュデ小将とテルテュフト二等兵を。よろしいですか」
(あ、戦略上のことであれば平気なんだ)
無言でうなずいたリュデと「はい」と答えたテルテュフトが、トララードの元に歩み寄る。
集まった組み合わせを、クウナは目を丸くして眺めて。
「意外ー」
「そうですか?」
「うん。てっきり、年長者のウォンちゃんとリュデくんを取るかと思った」
「俺もそう思った」
帯剣の状態を確認しつつ、ウォルンフォラドもうなずく。
参謀の青年は、建物の前にずらりと並ぶギャラリーを見回して、薄く微笑む。
「読めないほう――面白くなりそうなほうを選びました」
「さっすが、わかってるー」
群集から賞賛の野次が飛んでくる。
「さて、少々時間をいただいても?」
「もちろん」
礼を言ったトララードが味方二人を引き連れて木陰に下がる。
彼らの様子をにこにこ眺めながら準備運動を始めたクウナに、ウォルンフォラドが聞く。
「どうくると思う?」
「さぁね。定石なら、体格を揃えて、ウォンちゃんにはリュデくんをあてがうよね」
「リュデ少将は中央の頃よりも腕を上げてるんだろ?」
「いや、環境が環境だったからね、身構えるほどは変わってないよ。いつもの感じで行けば、ウォンちゃんなら大丈夫」
青年の広い背中を、少女の手が励ますようにばすばすと叩いた。
「ああそう」
そんなつもりはなかったんだが、と呟き、少し情けない顔をして後頭部を掻くウォルンフォラド。
「――お待たせしました」
トララードの声に顔を向ける。
審判役を買って出た騎士が右手を挙げて開始の合図。途端に野太い歓声と拍手が鳴る。
いつものように剣を構えたリュデの横をすりぬける、小柄な影。軽やかな足音が草を踏みしめ、まっすぐにクウナの元に向かう。それとは酷く不釣合いな、風を切る重い音が、少女の鼻先でごうと鳴る。
テルテュフトが器用に振り回す珍しい大きさの重剣。何割かの人間には酷く記憶に新しい大剣が、空気を鋭く切り裂く。重い一閃に、あっけにとられた静寂ののち、場がわっと沸いた。
急に大きくなった声援の、想定外の盛り上がりににトララードが慌てる。
「ど、どういう……」
ルタの剣は確かに珍しいが、北州の騎士ならば存在は知っているはずだし、ここまで盛り上がるほどの戦況にはまだなっていない。
トララードの動揺に気づいた周囲の一・二等兵たちが笑いながら言う。
「そういや、中佐は見てなかったからご存じないですよね。『改革』んときに、アルコクト大将がフォワルデ倒したの、あの剣なんですよ」
驚きに目を見開いたあと、すぐに落ち着きを取り戻したトララードが指示を出す。
「なるほど。――テルテュフトは中将へ! 小将は大将へ!」
指示にうなずいてすっと進路を変えたテルテュフトの前で、「あ、バレちゃった」とクウナが笑う。
「ルタの剣ならば、大将殿相手でも多少は翻弄できると思ったのですが、甘かったですね」
ルタ相手に器用に立ち回っていた少女を見つめ、参謀は、言葉とは裏腹にどことなく嬉しそうに呟く。
群衆の視線の大半は少年とともに移動して、さっそくウォルンフォラドに向かって振るわれ始めた異様な太刀筋をわくわくしながら見つめる。
「おお、あのルタすげーな。あのウォルンフォラド中将が慌ててるぜ」
「いいぞチビ、押せ押せ、がんばれー!」
大声で声援を送る北州出身者たち。
「そっかー、あれってルタの剣だったんだな。あいつらのこと、今までマトモに見ようとしたことがなかったから……」
感心する何人かの若い騎士たちの横で、彼らとは裏腹に、中央から来た騎士たちは食い入るようにテルテュフトの剣を見つめている。やがて堪えきれなくなって、近くにいた北州の騎士に興奮気味に尋ねる。
「なぁ、あれはなんなんだ? どういう技法だ?」
「北の人間は全員できるのか?」
上官たちからの矢継ぎ早の、息せき切った問いかけに、若い一・二等兵たちはあわあわと答える。
「いっ、いいえ、あれは『あやとり』っつー宗派の演武でして」
「なるほど、宗派か……」
途端にしょんぼりする上官たちに、
「でも、アルコクト大将が習得してらしたので、教われるんじゃないスかね」
「クー大将が?! 本当か?!」
――などと、騒がしい群集の前で、涼しい顔の二人が向かい合って剣を構える。
「入隊試験、二次試験の続きだね」
クウナのワクワクしたような言葉に、リュデがわずかに眉を動かす。
「それを言うなら、牢屋の一件の続きでは」
「あ、そうだね」
クウナは笑って立ち位置をずらす。――ちょうど、あの日、リュデの自主練に飛び込んでいった位置になるように。
「お相手願います、リュデ小将」
ふざけた演出に動じることなく、一気に踏み込んできたリュデが重い一撃をくり出す。
「……っと」
いなしたクウナの手がしびれるほど。あの日とは攻守交替だと言わんばかりの剣幕を受けて、クウナがにっこりと微笑む。
数回の打ち合いののち、鍔同士がぶつかり合って動きが止まった。リュデがクウナの剣を弾き、一歩下がって体勢と呼吸を立て直しすぐさま踏み込む。最小限の動きで振るわれた一撃を捉え、その刃の側面を滑らせるように剣を流し――その先にリュデの姿はない。ぴゅう、とクウナの口笛が賞賛するように鳴る。
絶え間ない剣戟音の中、中央からの騎士たちが感心したようにクウナとリュデの剣を見つめる。
「俺、リュデ小将のあんな怖い顔、初めて見た」
「あー、相変わらずだな、あの人も」
草地にあぐらをかいて座り込んで、食堂から持ち出してきた夕飯の残りの飲料を空けながら、陽気な観客たちは腹を抱えて笑う。
「めっちゃ嬉しそうだな、小将」
一人が噛み締めるように笑う。
「え、そうすか?」
「そーだよ」
どう見てもいつも通りの無表情にしか見えないリュデの顔を不思議そうに睨む部下の横で、男は瓶を傾け、またくつくつと笑う。
リュデ小将は間違っても人格者ではないし、言葉もろくに通じないし、堅物だし、上官として仕えたい相手ではないが――騎士として、その類稀なる技量と剣術への貪欲さに憧れている人間は、そう少なくはないのだ、実のところ。未開の北州へ左遷されたという話に動揺した者だって多くいたのだ。
膝を深く曲げてリュデの懐に飛び込んだクウナが、リュデの剣を弾き飛ばした。
「――お、おい、危ないぞ!」
突然、横からそんな声が飛んだ。声の飛んできたほうに視線が集まる。
大きな剣を背負った老人が、ゆったりとした足取りで草地を進んでいた。
近づいてくる足音に気づいて、中央で立ち回っていた四人は動きを止めてそちらを振り返る。
「あ」
と、クウナの声。
背を丸めた老人はテルテュフトの前で立ち止まって、背負っていた重剣を草の上にどんと下ろした。きょとんする少年の顔を、しわだらけの顔が睨みつける。
「背が伸びたら打ち直すのがお前らの年中行事じゃなかったのか、ナマクラ小僧め。そんな剣でこのキチガイどもに勝つ気か?」
キチガイ呼ばわりされたクウナとウォルンフォラドは、黙って顔を見合わせて頬を掻く。
武器整備士の老人は、問答無用でテルテュフトの持つ剥き身の剣を奪い、その手に代わりの重剣を押し付ける。
「え、これ……」
「舐めるな。ルタの剣くらい作れるわ」
周囲の動揺にも一切頓着せず、言うことだけ言うと老人はさっさと去っていく。
「三日で直してやるから、三日後に武器庫まで取りに来い。ああ、ルタの奴ら全員、今度からはきちんと整備に来いよ」
一方的に威圧的な捨て台詞を残して。
我に帰った審判役の騎士が右手を挙げる。
「では、再開――」
「あ、ちょっと待って。せっかくだし第二試合といこうよ」
クウナはそう言って、暗くなってきた空を指さす。日没まであと少し。特別な事情がない限りは、日没後の真剣での打ち合い練習は禁止している。
トララードがうなずいたのを確認してから、
「ウォンちゃんとティーフは続けてて」
そう言って、クウナは右手で群集に向かって手招きする。馬を二頭引き連れてきた白髪の少年に駆け寄って、
「ありがとイグヤ」
二本の手綱を受け取った。
おお、と若い騎士たちから期待の声があがる。
「馬だ!」
「騎馬戦?」
「騎馬戦だ!」
リュデに彼の愛馬の手綱を渡しつつ、クウナが尋ねる。
「リュデくん、槍にする? 剣のままでいい?」
リュデは答えず、黙ってトララードを見る。察したトララードが笑顔で答えた。
「リュデ小将の得意なほうでどうぞ」
「どちらでも」
そつなく即答するリュデに、トララードはひとつうなずいて。
「では、槍を拝見してもよろしいですか」
「ああ」
それぞれの部下が槍を持って駆け寄ってくるのを、二人は礼を言って受け取った。
片手で身軽に騎乗した少女は、手綱をほっぽったまま、両手をぶんぶんと振る。
「いっくよー!」
うおー、と野太く威勢の良い歓声が四方から返される。
二頭の馬がゆっくりと動き出す。速歩で軽く駆け回って馬を慣らしてから、対峙する。
歓声渦巻くその中央、リュデは相変わらずの仏頂面で槍を構えた。その向かいで、クウナもおもむろに槍を掲げた。柄の先端から垂れ下がる金色の飾り尾が誇らしげに揺れる。その組み紐の独特の編み方に、その槍が下賜品であることに気づいたトララードが人知れず青ざめる。
リュデの太い気合いの声に、周囲の空気がびりびりと震える。
がつんと打ち鳴らされる二本の槍の柄。双方の馬のひづめが容赦なく地面にめりこんで泥を飛ばす。槍の柄が風を切る音。上着のすそが大きくはためいて広がる。
いつもの剣術演習用の木の棒よりもはるかに長い丈の武器を、演習では見たことのない速さで取り回している二人。矢継ぎ早に打ち鳴らされる柄同士の、激しく乾いた音。
群集は釘付けになってそれを見つめる。いや、見とれた。
「はっええ……」
まるで、あらかじめ動きの決められた演武を見ているかのように、双方の攻防が的確に作用し合い、滑らかな動きで応酬が続く。
群衆の一人が呟いた。
「ああいうのってどうやんの、考えて動いてる速さじゃねーだろ」
あいにくその周囲にその回答を持ち合わせている人間はおらず、皆一様に肩をすくめるだけで終わった。
馬のわき腹を軽く蹴り、数歩下がらせたリュデが、少女を眺めながらゆっくりと目を細めた。もの言いたげな視線にクウナが気づく。
「ん? 何?」
「……槍を持つのは、一ヶ月ぶりのはずでは?」
ブランクを感じさせない動きにリュデがそう尋ねると。
「残念。ドックラーくんのお屋敷で門番の双子と対戦したから……えーと、約半月のブランクだね」
「あの双子と」
「知ってる?」
「何度か屋敷の警備にうかがっています」
無表情な瞳の奥にある、わずかな羨望の色を感じ取って、クウナが提案する。
「今度手合わせしにいこうか」
「ぜひ」
彼にしては珍しく強い口調の返答に、クウナはくすりと笑う。
一方、ウォルンフォラド。
一瞬の隙を突いて、テルテュフトがトララードの元へ下がる。おや、と驚いた顔をしたウォルンフォラドも深追いはしない。
少年は参謀に駆け寄りすばやく耳打ち。参謀はすさまじい応酬を繰り返す騎馬戦に一度目をやってから数回うなずき、少年に了承の合図を返す。
攻防のあいだにふとそちらに意識をむけようとしたクウナに、リュデの愛馬がペースを変えて、斜めから踏み込む。リュデの槍が風を切り、クウナの右肩を狙う、ひねりの入った突き――
その先にあるのは、至近距離でにんまりと意地悪く笑う、いたずらっ子のような少女の顔。
(――誘い込まれた)
リュデがそれに気づいたのは、相手に有利な間合いに入ってから。
リュデの槍の内側に沿うように、クウナの槍が荒い音を立てて滑る。目の前すぐから放たれた一撃を、リュデは身をよじって無理にかわす。馬上の身体が大きく傾く。落馬寸前のリュデに、群衆からいくつもの悲鳴が上がる。
「よいしょ!」
明るい声がして、クウナの持つ柄がくるりと回る。石突き側がリュデの背後に回りこみ、その背を馬上に押し戻した。
そこへ、ウォルンフォラドの声が飛んでくる。
「悪い、クー! 逃した!」
振り向けば、肩を押さえたウォルンフォラドと、彼に対峙していたはずの少年が、全速力でクウナめがけて駆け寄ってくるのが見えた。
向かい来る少年の姿が、ぐん、とのびるような錯覚。彼の背後にぞんざいに落とされた重剣を見つけて、その疑問は解けた。重い荷を地に投げ捨てた小柄な少年の全速力は恐ろしく速い。
走りながら唐突に――テルテュフトが片手を口元に。耳をつんざくような指笛が鳴り響く。
クウナの、空いている右手が咄嗟に馬の片耳をふさぐが、繊細な動物は過敏に反応して身を震わせ、息を荒げて蹄を鳴らした。
その右側に回り込んだテルテュフトの足が、クウナのブーツの上から鐙に乗る。踏みつけられて揺れた鐙が金属音を鳴らす。
瞬く間に肉薄した少年の腕が少女に迫る。その手に握られていたのは短剣。それはクウナではなく馬の鼻先めがけて振るわれ――
間近に迫った銀光に怯えて、馬がぶるぶると荒い鼻息を鳴らす。
素早く手綱を引いて向きを変えたクウナの、そのはためく襟の先を、少年のもう片方の手がしっかりと掴んだ。
トララードが目を細める。
「わあ」
クウナの声。
ガクン、と重心がずれ、駿馬がいななく。蹄が鳴る。
不安定な姿勢のままクウナが振り回した槍の石突きが迫る直前に、テルテュフトはぱっと手を離して地面に飛び下りた。
一秒ほどの間ののち、圧倒されて言葉を失っていた周囲から、ひときわ大きな歓声が上がる。
長い槍をくるりと回して収まりの良い位置に直してから、クウナはテルテュフトを振り返る。少女の顔はとんでもなく嬉しそうにニヤニヤと笑っていた。
「ティーフ、馬上の相手への攻撃はお手の物?」
肩で息をするテルテュフトが、凛とした声で答える。
「馬ではなく、トナカイ相手のことのほうが多いですけど」
そのやり取りを少し離れたところで聞いていたトララードが、真剣なまなざしを二人に向けたまま、ひげの生えてきた自身のアゴをなでつつ呟く。
「元々、彼らルタの重剣は、対人用の武器ではなく、狩猟で得たトナカイや鹿などの大型動物の首を落とすためのものだそうです」
周囲の騎士たちが、従順な生徒のように相づちを打つ。それを耳ざとく聞きつけたリュデは、嫌そうな顔をして手綱を引き、馬上の少女を相手に再び立ち回り始めたテルテュフトから、愛馬を数歩分遠ざけた。
熱に浮かされたようにトララードが呟く。
「ぜひ、歩兵の演習に加えたいですね。この国は、他国に比べて騎馬の数が少ない。あの技術を学んでおいて損はない」
近くに立っていた上官が「ええ、ぜひ」と賛同した。
その群衆とはまた別の、ちょうど対角線くらいの位置にある人混みの中で、
「なってねぇな」
一人の青年が小さく呟く。その右耳が大きく欠けているのに周囲が気づいて好奇の目を向ける。事情を知らない中央からの騎士たちが彼に明るく問いかけ、ルタの青年は面食らったような顔をしながら答えた。
「通常なら、引きずり下ろして馬を奪うか手綱を切るかだ。アイツはそれを決めかねた」
ぼそりと答えて視線を前に戻す。
テルテュフトの短剣とクウナの槍が盛大に打ちならされている。
少年の、いつも通りの無表情にわずかに滲む悔しげな表情を読み取ったところで、クウナは、
「ああもう」
と短剣に応戦するには長すぎる得物――槍を地面に突き立て、目にも留まらぬ速さで腰の剣を抜く。
すぐ鼻先を通り抜けた鮮やかな一閃に、少年がバランスを崩す。
倒れこんだ少年の右脇の、わずかな隙間を酷く巧妙に通り抜けて、いつの間にか引き抜かれた一本の槍が勢いよく地面に突き刺さる。
どす、と物騒な音が、テルテュフトのすぐ近くで鳴る。
草の上に両手両足を伸ばしたまま転倒した少年は息を詰めて、自身の右腕のすぐ下にまっすぐ突き立った槍を見つめる。それから、勇ましい目で見下ろしてくる馬上の少女の笑顔を、ただ呆然と見上げた。
審判が勝敗を告げる。
わっと挙がった歓声の中、クウナが皆に向けて両手を振り上げる。テルテュフトの上着を縫いとめていた槍を引っこ抜き、声をかけてから、手綱をひいて馬を進める。
息もつかせぬ槍の攻防を、誰よりも身を乗り出して食い入るように見ていた青年――キホの前を通りすぎざま、さりげないウインクをひとつ。キホははっとなって馬上の少女を見上げる。
さっそうと去っていく少女の背を見つめ、
「芸が細かい」
そのすぐ横に立っていたイグヤが、呆れたように呟いた。
それから、クウナはぱかぱかと馬を進め、ウォルンフォラドに歩み寄る。
「まったく、何してるのウォンちゃん」
「悪い。若い子の全速力には追いつけないか。走りこみでもするかな……それと、これに驚いて――これ、なんだ?」
テルテュフトが投げて肩口に噛み付いたままの木箱を外し、ぱかぱかと開閉してみる。
「ご安心を。ただの玩具、『箱入りジャック』の一種です。鹿獲り用の罠を元に考案されたものですよ」
歩み寄ってきたトララードが説明する。
「ほう」
「北州では一般によく流通しているものです。大将殿と中将殿はまだご存じないかと思って、不意打ちにでもなればと持ってきたのですが」
「私知ってたよー、ミンリオが持ってた!」
「俺は知らなかったよ。勉強になるな。すごい、どうやって噛み付くんだこれ」
ぱかぱかぱかぱか。
「……よ、よろしければ、差し上げますよ?」
熱心にぱかぱかしていたウォルンフォラドがその言葉に我に返って、
「い、いや、」
赤い顔をして木箱をトララードに返す。




