キホと一戦編
本編のその後。本編最終話でキホと約束した一戦の話です。
朝もやの中。
細長い葉の先に溜まっていた丸い雫が、突如として踏み込んできた足の振動でぽたりと土の上に落ちた。
クウナの背丈に合わせて低く腰を落として槍を構え、いつもの剣よりはるかに長い得物を慣れた手つきで巧みに操るキホ。その光景を前に、
「すっごーい……」
宿舎の前の段差に腰かけたエイナルファーデが、膝の上に頬肘をついてあごを乗せ、感心したように何度も呟く。
先日、ようやく修繕を終えた黒塗りの上等な槍の柄が、幾度も大きくしなる。その勢い込んだ数回の打撃をクウナは全て器用に打ち払い、いきなりぴょんとキホの懐に飛び込むと、
「はい、もう一回死んだー」
明るく言って、手にしていた演習用の棒でキホの無防備なみぞおちを軽く突いた。
あっさり負けたキホは、圧倒的な力の差にため息をついて肩を落とす。
そこで、ソイとオサムが連れ立って宿舎から出てきた。
「悪い、遅れた」
ソイの謝罪にクウナが振り返る。
「おはようございます。なにかトラブりました?」
「あぁ、めんどくせぇのに絡まれてな」
あくび交じりに大きく伸びをするソイ。
「とか言って、昨晩遅くまで落とし穴掘ってたとかじゃなくてですか?」
ふざけて聞くクウナに、
「さあ、どうだろうな」
と食えない青年は眼光鋭く不敵に微笑む。それから、寒空の下でうっすら汗ばむキホの額を見咎めて、その腹部に軽い肘打ちを入れる。
「先走りやがって。勝手に情報与えてんじゃねーよ」
キホは黙って頭を下げる。少し離れたところに座っていたイグヤが、キホを弁護するように口を挟む。
「班長、前にも一度やってますよ、ソイツとクウナ」
「ああそう。で、どうせ懲りずにまた同じような手で向かってったんだろ」
ソイの横柄だが図星すぎる指摘に、キホは情けない顔をして、
「……はい」
一番得意な打突のフォームはしばらく封印しよう、と心に決める。
「さて。二人の準備ができたら、いつでもどうぞ」
棒の先端を揺らして、クウナがのんびりと言う。その手が構えている演習用の棒切れを見て、ソイが顔をしかめる。
「剣出すほどでもないってか」
「いいえー。キホのその槍、修理から返ってきたばっかりなので、今回はとりあえず様子見したいなって」
事情を理解して、それでも不満そうなソイはフンと鼻を鳴らす。
「俺らは剣でいいんだな」
「それはもちろん」
クウナの淀みない返答に面白くなさそうな顔をして、それでも、力量の差をきちんと理解している青年は何も反論せずに、黙って剣を抜いた。
そんなソイに向けてキホは恐縮の表情を浮かべてから、槍を持ち直す。
二人の間に挟まれるような中間の間合いにクウナが立った。
二人は武器の切っ先を少女に向けた。ソイの合図で同時に踏み込む。
キホの上段とソイの下段。ほぼ同時に両側から繰り出された攻撃を、クウナは踊りのステップのような軽やかな足取りでかわし、二人の隙間を縫うようにして広い場所に抜ける。ほぼ真後ろからのソイの追撃を振り返ることなく的確に弾き飛ばす。すぐさま、重心を乗せた左足を軸にして身体をひねり、脇腹を狙うキホの突きをかわす。その左足を狙うソイの剣が届く直前に後方へと跳躍して、片手で全身を支えてバク転を数回。瞬く間に大きく距離をとり、涼しい顔ですとんと直立する。
舌打ちをひとつ鳴らしたソイが、全速力でそこに駆け寄る。クウナが身体の正面で垂直に立てた棒がソイの剣をかすめて、剣の軌道をわずかに変える。その空いた隙間に上手く一歩を踏み出した少女は、瞬きの間に身体を反転させて。
ソイの手元で鋭い銀光が走り、一瞬遅れて、上等な槍の柄が大きくしなる。
「遅い!」
ソイの鋭い叱責が、一歩詰め遅れたキホに飛ぶ。ソイの動きに懸命についていこうとするキホが奥歯を噛み締め――がり、という音がクウナの耳にまで届いた。
めまぐるしい攻防を少し離れた位置で眺めながら、
「なんだあの動き。身体柔らかいな、大将」
とオサムが呟く。
「そうすね……」
隣のイグヤも呆然とうなずく。
おおよそ人間の動きではない。野生動物のような動きだ、とイグヤは思う。複数の鋭利な刃物と、脆い鈍器だけで渡り合おうとすればこういう戦い方になるのか。珍しい光景に、何度か無意識にうなずく。
「お、連撃」
ついに出たソイの十八番に、オサムが期待の笑みを浮かべる。
何度目かのソイの刃先がついに少女の右腕を捉えた――かに見えたが、少女は身軽に身体をひねり、薙ぎ払われた一撃を難なくかわす。一歩踏み込んだ追撃も同様。騎士団の正規の型から大きく外れた、予想外の動きでかわされる。
ソイの額にびしりと青筋が浮かび、
「だからっ、そこからどーしてそうなるんだよ?!」
とうとう唾を飛ばして、大声でキレた。
少女は答えず、挑発するように、いたずらっこのような笑顔を向けるだけ。ソイの眉間のしわがぐっと深くなる。
それを眺めて、オサムが腕組みをしたままぼそりと言う。
「ソイが翻弄されてるのを見るのは楽しいな」
「俺に同意を求めないでください殺されます」
隣のイグヤは早口で言って顔をそむける。
ソイは目を細め、キホに手早くサインを送る。その間、クウナはにこにこと待っていてくれる。
「……胸糞悪い」
ソイがくぐもった声で小さくぼやく。
わかっている。少女に苛立つのは間違っている。これは、不甲斐ない自分の、実力不足への苛立ちだ。
キホがうなずいたことを確認して、ソイは気持ちを振り払うように息を吸って剣を構え直す。
目の前の少女が、ここにいる誰よりも圧倒的に強いのは、事実として間違いない。だが、全てが劣っているわけでもない。これなら勝てるだろうと思えるもの。わずかにでもあるとしたら、勝機はそこだ。
ここ数日、ねてもさめてもこのことばかり考えていた。その上での、唯一の結論は――
――打撃の重さ。
不意に傍らの時計塔から、時報を告げる鐘の音が響く。そんなものに気をとられる大将ではないが、聴覚は一瞬鈍る。
その瞬間、鐘の音と同時に――間合いを詰めて上段から槍を振り下ろすキホ。クウナが右にかわす直前、キホの背後から、いきなりソイが顔と剣を出す。
「おわ」
踏み出しかけた足を止めて、クウナが焦ったような声を出す。渾身の力で振り下ろされたキホの槍を棒きれで受け、
(――よしきた)
そこにソイの剣が迫る。
(まずい、斬る――)
キホとソイがそう確信する寸前。
体勢を崩し重力に抗うことのないまま傾いていくクウナの、片腕と片足がいきなり跳ね上がる。キホの槍を左手の棒で弾き、ソイの剣を側面からブーツで蹴り飛ばす。ソイの汗ばんだ手から剣が滑り、近くの草の上にどさりと落ちた。
同時に尻餅をつくクウナ。
しかし、その左手の棒はしっかりとソイの喉元につきつけられている。
ソイの顔からは血の気が失せていた。ぎりぎりで寸止めされた急所への攻撃におののいたからではなく――棒の動きは全く目で追えなかったので恐怖すら感じる暇もなかった――その前の、鋭利な刃物に躊躇うことなくふるわれた、鮮やかな回し蹴りに圧倒されて。
斬る気で振るったのだ。そこへ足を突き出すとは。
「……お、お前……脚、切れるぞ」
「大丈夫、ちゃんと見えてますよ」
棒を下ろして笑顔で応じるクウナに、ああそう、とぼやいて、ソイはようやく安堵の息を吐く。
「ありがとうございました」
肩で息をしながら、キホが頭を下げる。クウナが笑顔で応じ、ソイも悔しそうに頭を下げた。
食堂のほうから駆けてきた従順そうな小柄な少年騎士が、汲みたての水が入った瓶をソイにうやうやしく差し出す。一気に八割ほど飲み干したソイが残り少ないそれをキホに投げ渡した。礼を言ったキホが瓶を揺らしてクウナを振り向き、クウナが既に別の大柄な騎士からカップを受け取っているのを見て、瓶を口に運んで傾ける。額から流れた汗が足元の草に落ちる。
顔をしかめたオサムが、こめかみをもみながらソイに歩み寄る。
「お前、またそういう……せっかくの機会なんだ、小細工なんかせず、普通に打ち合ったらどうなんだ」
「あ゛ぁ? バカ正直にやって、負けて、何になるってんだ」
「それを言うなら、一回きりの手でやって負けて何になるってんだ」
にらみ合う二人のところに、クウナが笑顔で寄ってきて人差し指を立てる。
「一回きりの手だとしても10人相手にすれば10回使えますし、どんな状況でどんな作戦が使えるか分かりません。どんな作戦でも、たくさん持っているほうが有利ですよ」
妙に実感のこもった口調でそんなことを言う。北州潜入時代に一番痛感したことだ。特に深夜の徘徊で。
「……そんなものか?」
実感のないオサムが不可解そうに呟く横で、クウナはソイに向き直る。
「良い策でしたよ。ちょっと焦りました」
「嘘つけ」
こちらは二人がかりで、武器にも差があった。猛烈なハンデの上で、ようやく尻餅ひとつ。
ふてくされた顔のソイはその場にどっかりと座り込んで、砂地に棒で線を引き始める。クウナもその隣にしゃがみこんで空をあおぐ。
「私にも課題が見つかったし。視覚と聴覚に頼りすぎてたんだなぁー」
「……それ以外の何を使うつもりなんだ?」
ソイは棒を持つ手を止めて、不気味そうに少女を見る。少女はへらりと笑うだけ。
「で、班長。大将からのコメント、いります?」
「世辞と気休め以外ならな」
あっさりとした回答にクウナはひとつうなずいて、居住まいを正して。
「一気にたたみかけると思ってましたが……追い込んだ後の決め手に欠けましたね」
「ああ。それが思いつかなかった。お前ならどうする?」
「私自身が班長の役をやるんなら、キホと武器とっかえてキホの後ろから槍で突きますけど」
確かにそれは有効だろう。キホの背後からでは、剣では短すぎた。それが、クウナに、わずかではあるが思考して対処するだけの時間的余裕を与えた。
そうなのだが、とソイは顔をしかめて額を押さえる。
「普通の軍曹以下は槍術できねぇんだよ」
「はい。今の班長がやるんなら、そうだなぁ、飛び道具かな」
「それもやったことない。いきなりやっても当たらねぇぞ」
「目くらましくらいにはなるかと」
「……決め手はどこいったんだ」
「そりゃ、班長なら剣でしょう。キホの背中で直前まで自分の視野もふさがれているとなると、どうしても単調な攻撃になっちゃいますよね。いつも通りの十八番を決め手にするための奇襲、と考えてみては?」
不意打ちや勝っている部分を生かす攻撃を無闇やたらに続けていくのではなく、用意した決め手にまで導くための構成までを筋道立てて考える――そういうことか、とソイは納得して珍しく素直にうなずく。
「考えておく」
服の砂を払って立ち上がったところで。
「ああああのっ、大将殿!」
背後からかけられた聞き覚えのない声にクウナが振り向けば、真っ赤な顔をした若い騎士が敬礼をして立っている。先ほどの打ち合いを少し離れたところで観戦していた群衆の一人だ。
「大変失礼とは存じますが、あの、できれば、私とも、」
後ろ手で指を組んだクウナは、彼の体格をじろじろ眺めてから、ぽつりと言う。
「所属と名前を」
誤解した騎士がざっと青ざめるのに、違うよーと手を振って。
「悪いんだけど、私、来月しか時間とれないんだ。都合ついたら私のほうから声かけるよ。それでもいい?」
「は、はいっ、ああありがとうございますっ」
約束をとりつけて意気揚々と去っていく浮かれた背中を、ソイが忌々しげに睨み付けて呟く。
「不相応な相手の時間を使わせる図々しさはちゃーんとお持ちのくせに、その無謀な時間の前に少しでも追い付けるよう順当な相手と組む、っつう頭はねーのかね」
オサムが片眉を上げた。
「自分のこと棚に上げすぎだぞ」
「はあ? 元々の知り合いは例外だろうが」
「……お前の独自ルールはよく分からん」
食ってかかってきた少し低いところにあるソイの頭部を、オサムは面倒くさそうに押しのける。
「先輩がた、イグヤ、キホー! 朝飯、早く食べてくださいよ!」
配膳・片付け係のヤサルタが業を煮やして呼びに来たところで、本日の早朝打ち合いは解散となった。




