36.合流
揺れ続けるソリの中で目を覚ましたキューナは、そっと伸びをして、近くにあった幌の端を少し持ち上げた。途端にうっすらとした日差しと冷たい風が吹き込む。顔面に冷気が吹き付けたヤサルタが大きなくしゃみをした。
「あ、ごめん」
「……ん?」
寝返りを打って薄目を開けたイグヤが身を起こして、キューナが下げたばかりの幌布を掴む。そのまままくりあげてさっさと外に出ていった。
「来てみろよ」
すぐに呼ぶ声。キューナとヤサルタは「寒い」と言いながら顔だけを突き出す。早くも鼻を赤くしたイグヤが、風になびく白髪を一本にくくりなおしながら、「東」と言った。言われたとおりに東を見る。凍りついた常緑樹の林がまばらに広がる斜面の先、広大な雪原を抜けた向こうに――
「ま、街だ!」
ヤサルタの歓声。吹雪の向こうに、建物らしき黒の点々が垣間見える。
「あそこに向かってると思う?」
「迂回路だけど、そうだと思う」
「遠ざかるようならその時点で抜け出そうぜ」
イグヤの提案にうなずいて、日の方角を見て現在時刻を思い出す。そうだ、真昼間だったが、せまいそりのなかではすることもできることもなくて、寝ていたのだった。
迂回路を抜けたそりは思惑通り街に入った。通りの途中で停車して、男たちが荷下ろしを始めた。それを手伝うそぶりを見せながら、三人は周囲の様子をうかがう。急かすヤサルタを制して、イグヤが言った。
「まさかここが定住用の街とかじゃあないよな? もし全員遊牧民だったら、この街で逃げ出しても意味ないぞ」
ヤサルタが顔をひきつらせたところで、商店らしき建物から出てきたヒゲの男が、首長を見つけて言った。
「あぁ、あんたらか」
聞こえたのはスカラコット国の公用語。三人はほっと息をついた。
「よし、行こうぜキューナ」
持っていた荷物を置いて逃げ出そうとする二人に、
「ちょっと待ってて」
と言って、キューナは店に入った。
「おい!」
二人も追ってくる。店の奥のカウンターまで歩き、価格交渉もなしに納品しようとしている二人の間に割って入る。遊牧民が差し出した小袋の中身を確認していた商人の男が、キューナの格好をじろじろ見て、警戒するように帯剣を見て。
「……騎士様がなぜ、遊牧民側の味方をするのです」
遊牧民の男は何も言わずにじっとキューナを見ている。キューナは首を振った。
「彼らの肩を持つわけじゃないですよ。これがもし対等でない取引だとしたら、立場上、見過ごすわけには行かないのでね」
ことさら尊大に言ってのける。思惑通り、渋い顔をした商人は、思うところがあったのか、黙って食材を追加した。
首長がはっとなってキューナを見た。キューナは綺麗に微笑んで一礼し、店を出た。
入口近くで待っていた二人に「お待たせ」と声をかけて――外套の裾が下方に引かれる。見下ろせば、テントから助け出した子の一人だった。しゃがみこんで目線をあわせると、可愛らしい声とともに、腕に抱えていたトナカイらしき茶色のぬいぐるみをキューナに差し出してくる。
「くれるの? でも、返せないよ?」
キューナがどうしようかと悩んで、一度受け取ってから返そうとすると、慌てたように押し付けてくる。
「もらっていいんじゃねぇの?」
「たぶん、分かってんだろ」
「そっか。――ありがとう」
確かに、ここでいきなりぬいぐるみ遊びをするのは変か。受け取り、頭をなでてやって、
「じゃあね」
と手を振って、大通りを歩き出した。
「この街に駐屯してる部隊って、いねぇのかな」
道行く人を眺めて呟くヤサルタを追い抜かすように、キューナが手近な店に入った。
「すみませーん、あの、」
用件を述べると、干し肉を麻紐でくくっていた店主が作業の手を止めて顔を上げ、
「あぁそれなら、北西の門の近くに詰め所がある」
「ありがとうございます」
「よっしゃあ!」
丁寧に一礼した女騎士の後ろで、両手離しに喜ぶ若い騎士の姿に、事情を知らない店主の男はきょとんとした。
店を出るなり、
「ぐ」
ちいさくうめいたイグヤがふらついて、その場にしゃがみこんだ。
「どーした?!」
「なんでもない、コケただけだっ」
青ざめて駆け寄ったヤサルタを乱暴に払いのけて、どんどん先を歩いていく。
「な、なぁキューナ、あれさ」
「うん……」
意地っ張りで頼もしい仲間の背中を追いかけながら、フゥと息をつく。
ああやってキレたイグヤは、ヤサルタやキューナがなにを言ったところで聞き入れないと分かっている。医者に診せられるわけもない。無一文のこの状況では、一晩で凍死する可能性のほうがよほど高い。
「今ここで揉めても何も解決しないし、本人が大丈夫なところまで行くしかないかな。このまま班に合流できないと、三人とも路頭に迷うし」
ヤサルタが唇をかんで小さく悪態をついた。
***
木造の小屋の前に同じ隊服を着た騎士の姿を見つけて、イグヤが真っ先に近寄った。男の体格と年齢に中堅の騎士だと判断して、気後れしたが、意を決して胸を張って言った。
「北州騎士団本部G班の者です。駐屯中に班長とはぐれてしまって。今どこにいるか知りたいんですけど、調べてもらえませんか」
「は?」
不審そうにじろじろ見られる。今にも追い返されそうなところで、追いついたキューナが割って入った。
まずは、敬礼。
「お仕事お疲れさまです。北限基地所属、ミトラ=カクリア少尉が駐留している場所を知りたいのですが」
「あ、あぁ、カクリア少尉の盗賊討伐の小隊か」
「はい」
ミトラの名を出すと、衛兵の男はすんなりうなずいた。いや、うなずかざるをえないのだろう。衛兵は一人を奥に行かせると、もう一人が入口近くの簡素な応接セットに座った。対面に腰かけるよう促す仕草にキューナとヤサルタが従う。開け放たれた戸口に寄りかかったままのイグヤは動こうとせずに二人を中に入れて、
「任せる」
キューナとすれ違いざま、少し掠れた声で、イグヤが小さく言った。
足か、腹部かな。
不自然にひねられた下半身を、気づかれないように一瞬だけ盗み見て、けれど分厚いコートの下のことだ、それくらいの見当しか付かない。
対面に座った騎士は、突然やってきた3人の騎士を興味本位で眺め回した。
「それにしても……はぐれる奴は多いが、戻ってきた奴は初めて見たな」
「あ、それは、偶然遊牧民に遭遇して、助けてもらって」
嬉しそうにヤサルタが語るのを、目を丸くして聞いていた青年は、いきなり弾かれたように大笑いし始めた。小屋の中で他の仕事をしていた騎士たちが突然の大声に何事かと振り返る。ヤサルタも驚いて言葉を止めた。
青年は笑いすぎてあふれた目尻の涙を、太い指で乱暴にぬぐった。
「お前ら本部の人間っつったな、部隊に戻る前に街医者にでも診てもらったほうがいいぞ。死にかけたから、揃いも揃って頭オカシクなってんだろ」
「……は?」
「遊牧民に襲われた、の間違いだろ?」
「いや、最初はそんな感じだったけど、でも手当てしてくれて、メシ食わしてくれて、ここまで送ってくれて!」
「いいな! どこの託児所だそりゃあ!」
しまいにはブーツをがんがん鳴らして盛大に笑い始めた。同僚らしき別の騎士を呼んで「今日の酒場のネタには事欠かないな」などと言っている。
「……遊牧民は、そういうことはしない民族ですか?」
深刻に取り合わない騎士に、キューナが聞いた。
青年の後ろに立っていた、文官らしき細身の青年がうなずいた。
「しないだろうな。聞いたことがない。街以外の場所で会って、生きて返ってきた奴を見たことがない。第一、言葉が違うんだ」
「あ、そうでした! なんか全然聞き取れなくて大変だったよな!」
神妙にうなずくヤサルタの、対面の二人はちょっとあっけにとられて。
「こりゃあ深刻だな」
「ここらではよくある病気だよ。吹雪の期間はどうしても家にこもるからな。安心しな、人の居るところでしばらく暮らして、日の光を浴びてれば治る」
ヤサルタが顔を真っ赤にして反論する。
「でもオレたち本当に!!」
キチガイ扱いに溜飲の下がらないヤサルタの背中を、キューナは宥めるように叩いた。
奥の棚の前にしゃがみこんでいた騎士が戻ってきた。
「ラッキーだなお前ら。カクリア少尉は隣の町に駐留中だ」
「おおっ隣! ――ん? あんまし喜んでねぇのな、キューナ」
「うーん、と……」
往路に見ていた地図から、北限地域に点在する集落や村は多いが、これだけ大きな街の数はそう多くはないことは把握できていたから、街に着いた時点である程度予測できていた。それと、懸念点がまだ残っているからで、問題は――
「そこへ行くのはどのくらいかかりますか?」
安堵の笑みを浮かべていた二人もはっとなった。
「近いぞ。犬ぞりで2時間、人の足でも四半日ってとこか」
「ち……」
その距離を、北州首都や中央では『近い』とは決して形容しない。
キューナは遠征の全体日程を思い出す。
「明日の朝には、本部に戻るために出発する予定だったよね」
小屋の窓から、少し夕焼けの色を滲ませ始めた白い空を見る。
おそらくキューナたちが遭難したくらいでは当初の日程は変わらないだろう。つまり、追いつくまでの時間的な猶予は、あと一晩とちょっと。
先ほど人の足で四半日と聞いたのは、おそらく目の前の彼のような、屈強で積雪に慣れた騎士が昼間に歩いて四半日、という意味だろう。延々とそりに引かれていたせいで全身が軋むように痛むし、緊張続きで寝不足で、イグヤはどこか分からないけど負傷していて、おまけに豪雪に対する知識も経験も浅い。
「……あの、ここ、通信設備とか」
頓狂なことを言い出す若い騎士に、
「あ? あるわけないだろう、そんなもの。ここは資源の中継地点として置かれているだけだから、この一部屋しかないし、上官は常駐しない」
「そうですか……」
さっさと去れといわんばかりの態度。こちらの身分はばれているようだし、伝令を頼むことも難しいだろう。
「さっさといくぞ」
入口の柱に寄りかかっていたイグヤが踵を返す。
「い、行くって」
ヤサルタが慌てた声をだす。
「歩くに決まってるだろ、暗くなる前に」
キューナはもう一度、応対してくれた騎士を振り向いた。
「隣町までの道は、夜に通っても大丈夫ですか?」
「行ったことはないが、まぁ平気だろう。夜でも荷そりの行き来は多いらしいし、踏み固められるから歩きやすい」
「ありがとうございます」
方角を確認して、礼を言って小屋を出た。ところどころ端の欠けた古い石畳の道をしばらく進むと、街と外との境界を示す簡素な木の柵が姿を現す。背の高い常緑針葉樹が鬱蒼と茂る森の中を突っ切るように、一本の細い道が伸びている。
犬ぞりが一台、滑らかな動きで横を通り過ぎて道の先に進んでいく。空っぽの荷台を未練がましく見つめて、ヤサルタが唇を尖らせる。
「乗せてってくれる親切な人とか、いねぇかなー」
「ムリだろ、金があるわけでなし」
ぐう、と正直に鳴った腹部を押さえるイグヤ。
歩き出して数十分で日が沈んだ。夜風に揺さぶられた枝葉が不気味な音を立て、月明かりに照らされておぼろげに影を落す。
雪深い道を、膝下まで雪に埋もれながら進む。雪から足を出し入れする重労働を繰り返しながら進む。足元から背筋を這い上がってくる冷えに、
「うー寒い」
ヤサルタが低くうめく。
「走るか?」
二人の一歩先をゆくイグヤが振り向きもせずぼそりと呟く。ヤサルタがぶるぶると首を振った。
それから無言でひたすら歩き続けること数時間。行列をなした犬ぞりの集団が一気に去ってすぐ、獣のうめき声がした。
「……う、うわっ」
ヤサルタが肩をすくめた。
「近いね」
キューナはそう呟いて足を止めた。
「イグヤをお願い」とヤサルタに言い置いて剣を抜く。
「は? ちょ、待て、危――」
キューナは踵を返して、すたすたと元来た道を少し戻り、焦ったような声を出すヤサルタから遠ざかる。揺れる草木の間から、月明かりを反射して不気味に光る双眸が見えた。
がさがさ、と枝葉のこすれる音が一瞬にして近づき――キューナは重心を落とした。飛び出してきた影を、剣の腹でなぎ払う。
ぎゃん、とすぐ耳元で狼の悲鳴。鈍い、重い感触が両手に伝わる。
「キ……キューナ?」
ヤサルタの涙声が聞こえてきたのにふっと笑い声を漏らして、キューナは剣を収めた。
「大丈夫、勝ったよ」
「なにに?!」
ヤサルタが大騒ぎしながら駆け寄ってくる。キューナは背負っていた荷物からロープを取り出し、まだ暖かい獣の両手足と顎をきつく縛って、「よっと」と担ぎ上げた。
「よし、行こう」
「大丈夫か? オレが持とうか」
「ううん、ヤサルタはイグヤをよろしく」
「おう、そうか」
元通り歩き出して、先に進んでいたイグヤにすぐに追いつく。ヤサルタがキューナの背をこわごわ眺める。
「それ、どうすんの」
「売れなかったら食べるけど……あ、ヤスラ、あのそり止めて」
「おう」
ちょうど後方から走ってきた犬ぞりを、進路に飛び出したヤサルタが両手を振って止めた。不思議そうに顔をだした御者の男に、キューナは背を向けてかついだものを見せた。御者の近くに吊り下げられていたランプの明かりに照らし出されたのは、つややかな銀の毛並みと黄色い牙。
「いま仕留めた狼です。買い取ってもらえませんか?」
少女の声にぎょっとする御者は、二人の隊服を見て「ああ」と納得したような声をあげた。御者が幌の中に呼びかけると、すぐに商人らしき恰幅のよい男が下りてくる。
「狼だそうです。騎士が買い取ってくれと」
「なに?」
顔を輝かせた男は、キューナの背中を見るなりいそいそと近寄ってきた。御者が開けたスペースに、キューナは獲物を下ろした。商人の手が狼の腹に触れ、まだあたたかいことに驚いて、二人の若い騎士の顔を交互に見た。
「いい腕だな。明日の朝まで、この積み荷の護衛を頼めないか?」
降って沸いた朗報に、キューナは目を輝かせて行き先を確認する。目的地が同じことを確認すると、ヤサルタがイグヤを呼びに走る。
「街に着くまで乗せていってもらえますか。三人なんですけど、一人、怪我してて」
「構わない」
商人が皮袋から取り出した銀貨と銅貨をキューナの手に乗せる。その後ろで、御者が狼を荷物の間に運び込んでいる。キューナはその様子をひょいとのぞきこんで。
「そこのパンと水、売ってくれませんか」
「ああ、いいよ」
もらったばかりの銅貨を男の手に戻す。
「なんだ、食料がないのか?」
「ええ、先を急いでいて――狼をさばいて焼く時間も惜しかったので、助かりました」
「それなら、双方に利のある取引だったな。肉が美味いだけじゃない、あの毛皮と牙は高く売れる」
商人の男は満足そうな声を出して、幌の梁から吊り下げた狼がそりの振動で揺れるのを、脂肪たっぷりの自身のあごを撫でながら、目を細めて眺める。隅に座り込んでパンに噛り付くキューナの隣に、商人の男がクッションを置いてどっかりと腰を下ろす。キューナは他の荷物をひととおり眺めて、他に人が乗っていないのを見てから男を見た。
「こんなに商品を積んでいるのに、護衛は雇っていなかったんですか?」
「ううん、いや」男は歯切れ悪く答える。「買い付け額が思っていたよりも高くついてね、雇う金がなくなってしまったんだ」
へー、とヤサルタが食べかすの付いた指を舐めてから、向かいの木箱の山を指さす。
「そんなに高いもの扱ってんの? この中のはなんすか?」
「ああそれは酒の一種で……」
饒舌に話し始めた商人の声を聞きつつ、キューナは揺れる荷台の中で立ち上がって御者の元に向かった。少し積もっていた雪を払って、隣の空席に座る。御者が言う。
「あんなこと言ってるけど、本当は盗賊に襲われたときに見捨てて逃げたんだ。荷物が守れればそれでいいってね」
「……そうですか」
「まぁね、今年はなんもかんも不作だからね。旦那も元々は酒商人だったらしいが、それだけじゃ食べていけなくなったらしいよ。だからって、あんなことしていいわけじゃないが」
癇癪を起こしたように頭を掻く。
キューナは黙って、ちらちらと雪を降らし続ける暗い空を見上げる。
「生活、厳しいですか」
「まぁねえ、食べていくだけでやっとさ。それでも、こうして仕事があるだけ恵まれてるほうだと思うよ」
「そうですね」
「騎士さんが羨ましいよ。私も狼くらい仕留められたらなぁ。犬の扱いは得意なんだがね」
おどけて騎士を誉めそやす御者に、キューナは苦笑した。
「そんなに誇れる仕事でもないですよ」
今は。今だけは、だけど。
悪路に荷台が揺れてガタガタと音を立てる。
雪空の見方や犬の扱い方を教わっているうちに、やがて空が白んでいく。
ようやく三人が隣の街に着いたときには、朝とは言えない時間になっていた。日の高く昇った空の下、荒れた石畳をひたすら進む。
もう出発してしまったんじゃないか、とは、3人とも言い出せずに、言葉を飲み込む。
「い、いた!」
ヤサルタの声が、しゃっくりのように裏返る。
街角で、荷物を背負って地図を広げ、なにやら話し込んでいる見覚えのある顔ぶれ。
ヤサルタが転がるように駆け寄って、
「班長ー!!」
班長を横殴りにするように、勢いそのままに飛びついた。突然の衝撃に驚いてひっくり返りそうになった班長はなんとか踏ん張って、
「……お、お前ら?!」
足元にずるずるとしゃがみこみ、しがみついたまま号泣するヤサルタを見て、仰天した。
キューナとイグヤも駆け寄る。
建物から副班長が足を止め、信じられないものを見るように3人を眺めて呟く。
「……死んだと、思ってたぞ」
イグヤが息を吐いて頭を掻く。
「俺らもそう思ってましたよ」
班長は切り替えるように首を振って、言った。
「――すぐに出発するぞ」




