35.遊牧民
「遭難、だな」
イグヤとヤサルタとキューナの三人が雪原にしゃがみこんでから数分。吹雪が収まり再び視界を確保できたころには、見渡す限りの白い大地が広がっていた。
追っていたはずの姿は一人たりとも見えなかった。
分厚い曇り空に目を凝らして方角を推測し、少し進んだが――すぐに、沈みかけの太陽と、強さを増した北風に行く手を阻まれる。否応なしに近くにあった洞窟に逃げ込んだ。
ごうごう、と不気味な風の音が岩場に反響する。
立てた膝の間に顔を埋めて、ヤサルタがぼそっと呟いた。
「……まさかさ、班長たち、埋まっちゃったかな」
「先にしゃがみこんだ俺らがあの程度だったんだ、それはねーだろ」
「こんなふうにどこかで避難してると思うよ」
イグヤとキューナの回答に、ほっと息をつく。
「しっかし寒いな……」
白い息を吐いて、イグヤが腕をさする。
「ここで一晩?」
「それしかねーだろ。夜は間違いなく吹雪く。出て行くなら止めねーけど」
「いやムリ。あー、どうにかしてくれよキューナー」
すでに半泣きのヤサルタ。
「朝になったら……班長たちに会えるかな」
「最悪、どうにかして北限基地まで戻る。方角はわかってるんだ」
「ど、どうやって?」
「知るかよ、お前もちょっとは考えろよ!」
「……ご、ごめん」
気まずい静寂が満ちる。
火種は、今点いているこれしかない。この氷点下、どう考えても朝までもたない。
キューナはそれを正直に告げた。
心もとなく揺れ続ける赤い炎を前に、再び沈黙が満ちる。
ヤサルタがうつむく。寒気で荒れた下唇に、犬歯が食い込むのが見える。
「お前なら、なんとかしてくれるんじゃないかと、――勝手だけど、わかってんだけど――思ったんだ」
期待が素直に嬉しくて、キューナは微笑んだ。だけど、
「買いかぶりすぎ」
肯定はできない。
「はーあ。死んだな。どうせこうなるとは思ってたけど、くそ、たった一ヶ月かよ」
やけくそになったらしいイグヤがぶっちゃけ始めた。
キューナをじろりと見て半笑いを浮かべる。
「お前もこんなとこで死ぬとは思わなかったろ。とっとと南に帰っとくべきだったな」
「南?」
ヤケクソになっているのは分かったから、返事はしないでおく。
「この班の班員でなければ良かったのにな」
「そんなこと言うなよ」
「うるせー。どうせ、班長かアサトさんかジュオか、あのあたりが上官に目ぇつけられたんだろ、とばっちりだ」
「そんなん、わかんないじゃんかよ!」
「わかんねーよ、どうせ俺たちはわかんねーまま死ぬんだよ!」
「……イグヤは、どうして」
今なら、教えてくれるだろうか。
途中で言葉を途切れさせたキューナを、じろりとイグヤが睨む。
「なんだよ、言えよ」
「どうして、騎士になったの?」
イグヤの、長いため息が聞こえた。
「なんだよ、お前らも上流階級の冷やかしだって言うのかよ。ああそうかもな、何にもしなくても家督相続が待ってて、飢えやしない家に生まれた俺なんかが騎士目指そうなんて、お前らにしてみたらふざけんなって感じかもな。そんなん知るかよ、俺は――俺は俺のやりたいようにやる。あんな家で、陰険な奴等に媚びへつらって見下しあって、金の無心ばかりして一生を終えるくらいなら、途中で死ぬ確率がいくら高くても騎士になると決めた――それだけだ」
独白のように、当り散らすようにわめいた。
たぶんこれがイグヤの本音だろう。まじりっけなしの本音だ。
「『最初からきちんと決められた人生』ねぇ。あいにく俺は、そんなもんに何の魅力も感じねぇっての。やりたいことやらなくて、ただ生きてて何になるよ? 俺はずっと、あの家に飼われてて……生きてる心地がしなかった」
ごろりと横になって、顔を背けるように寝返りをうつ。
「どうせ俺は馬鹿だよ」
小さく呟いたその背をキューナはじっと見つめた。
死ぬ確率の低い場所が用意されているのに、あえてその逃げ道を選ばずに、死ぬ確率の高い状況に身を置くというのは――むしろ、選択肢のない人間よりもよほど、強い意志が必要なことだろう。
純粋に、すごいと思った。
キューナがここ北州で単身、無茶をしていられるのは、自分の腕で生き残れる、という自負が多少なりともあるからだ。謙遜でもおごりでもなく、事実として把握していたからだ。
だけど、イグヤほどの情報と剣技だったら、果たしてどうしていただろうか。たぶん、数日中に、そのまま汽車に乗ってとんぼ返りした。
置かれた立場が全然違うけれど――と意味のない比較を打ち消すように首を振る。
「……もし、ここでこうなることが最初からわかっていたとしても、イグヤが騎士を選んだ、でしょ?」
キューナの問いかけは断言のようで。それを、少年は何かをごまかすように、は、と一笑に付した。それからようやくキューナたちのほうに寝返りをうって、呆れた表情を浮かべた。力なく言う。
「お前らも、俺も……大概バカだよなぁ」
「案外、みんな、そんなもんかもよ」
金や権力や見得にこだわって好き勝手やらかしてる、大人気ない上官たちも。
いきなり休暇をとったクウナの帰りをただずっと待ってくれている、中央のみんなも。
「お前は? なんで騎士になった」
イグヤがヤサルタに聞いた。
「オレ? えっとー」
ヤサルタは頭を掻く。
「メシ屋で働いてたって話はしただろ? そこで一番金持ってた客が騎士だったんだよ。で、オレ、皿割りまくってて店長に毎日怒鳴られまくってたんだけど、騎士の奴らはオレより割ってんのに全然怒られてなくて」
イグヤの顔がだんだん呆れたものに変わっていく。
「こんだけ不器用な奴にもできる仕事なんだったら、オレにもできるかなって思ってさ!」
満面の笑みでしめくくったヤサルタは、想像していたリアクションが返って来ないことに首を傾げて。
「あれ? つまんなかった?」
白い目をしたイグヤが断言した。
「……お前の話は、気が抜ける」
「そうか? イグヤが難しく考えすぎなんだろ」
さっきよりもずっとすっきりしたイグヤはすんなりうなずいた。
「自覚してる」
二人の目がキューナに向く。
「で、お前は?」
どのへんを話そうかな、とキューナが思考を整理しながら口を開いたところで――
「な、なんか見えた!」
すっかり怯えたヤサルタが悲鳴をあげて洞窟の入口を指さし、キューナの腕にしがみついた。
「おーなんだ、クマか雪ヒョウか、盗賊かー?」
投げやりになったイグヤが間延びした声で応じ、だらしなく寝転んだまま左右に転がる。
「こ、怖いこと言うなよ」
「もうどーでもいいだろ。それとも唯一神かも知んねぇぜ」
勝手に言って笑い出すイグヤ。
「適当だなお前ー」
入口をじっと見ていたキューナが呟いた。
「遊牧民じゃないかな」
「お前まで……この極寒の地にー?」
ヤサルタがげらげら笑い出した。
「テルテュフトが言ってたよね、イグヤ。えっと、」
キューナは何度か指を組み替えて、
――甲高い指笛が、岩場に反響して高く鳴り響く。
「やめろよ雪崩でも起こす気かよ」
次第に大きくなる、犬の吼える声。
「とりあえず、生きたまま野犬とかに食われんのだけはカンベン」
イグヤの呟きに、ヤサルタが震え始めた。
「うわわわ逃げよーぜもー」
じたばたし始めたヤサルタの腕をキューナが掴んだ。
「助かるかもしれない、今のところ唯一の可能性だよ」
こちらが身動きできない以上、外部からの何らかの動きを待つしかない。これ以上冷え込む前に。
はっきりと断言したキューナの言葉に答えるように、白い大型犬が吼えて、銀世界からぴょこんと顔を出した。
「ありがとう助かった!」
と叫んで、キューナは二人が止める間もなくその犬に飛びついた。
「あーあったかいー」
吹雪の中を走ってきたらしい犬は、心臓の音を鳴らし汗ばむほどだ。その体温を分けてもらう。牙をむき出したままされるがままの犬の、あごの下やら腹やらを礼代わりに全力で撫でてやる。皮が厚いのか温厚な性格なのか、リアクションは薄い。
「お前食われるって」
「大丈夫大丈夫」
青い顔の二人がその様子をしばらく眺め、黙って顔を見合わせ、大人しくしている犬にそろりと手を伸ばしたところで、
「――!」
「うわあああ」
大声を上げて、大きな体格の男たちが顔を出し飛び込んできた。犬とキューナを見て、うーうーと鼻にかかる声で何事か言った。
「な、なんつった?!」
ヤサルタが飛び上がる。
「さぁ……」
遊牧民がまさか異国語の民だったとは。考えもしなかった事態に、キューナは犬に乗っかりながら頬を掻く。
男たちは何事か話し合ったあと、
「――!」
いきなり腰の剣を抜いた。
反射的に応戦しようと剣に手を伸ばしたヤサルタの腕を、イグヤが掴んで止めた。
「やめとけ、ムリだ」
「なん」
「遊牧民の剣は、有名なんだよ」
使い古された大剣があっという間に喉元につきつけられる。キューナの耳に、ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。
***
男たちと犬は、視界の悪い吹雪の中を、全く躊躇うことなく突き進んでいく。
引きずられるようにして連れて行かれた先には、
「集落だ」
「すっげ、毛皮のテント……」
雪原のど真ん中に、ずらりと並ぶ無数の円形のテントだった。その一つにぐいぐいと押し込められながら、おお、とイグヤが感嘆の声をあげる。
「何の動物だろうな、これ」
テントの入口の幕をつまみながら、すっかり警戒心を忘れたヤサルタが好奇心に顔を輝かせる。
調度品が所狭しと並ぶ室内は生活感にあふれていて、珍しく緊張していたキューナもちょっと落ち着いた。
雪にまみれた毛皮の外套を落とすように脱いだ男たちは、手袋を外しながら歩み寄ってきて、キューナの髪を払って耳を見る。
「ああ、ルタじゃないですよーっと」
言っても通じないことは分かっているが、つい口に出してしまう。
それから、輪になって話し込む男たちを尻目に、三人は彼らを真似て上着を脱ぎ、それを暖炉の近くに放って、手袋を外す。その物音に振り返った一人が、キューナたちの腰の辺りを見て顔をしかめた。丈の長いコートに隠れて見えなかった剣を見咎め、有無を言わさず没収される。木彫りのついたてで仕切られた奥の部屋にそれを持っていこうとした一人が、何の気なしに、よりによってヤサルタの鞘を払う。でてきた刃の鋭利さに一同がびびる。
「物騒な想像に拍車かけたね」
「カンベンしてくれよー」
頭を抱えるヤサルタをイグヤがどつく。
「お前がやったんじゃねーか」
男の一人が身振り手振りで誘導するのしたがってブーツを脱ぎ、民族調の文様があしらわれた豪華な絨毯の上に座る。
「これどういう状況? 喜んでいいの?」
「さぁな。犬泥棒とでも思われてんじゃねぇの」
「げ」
「勝算は?」
「居住地にルタがいれば話が通じるかもしれない」
そういったキューナを、二人は顔をしかめた。
「なに?」
「ルタってそうそういるもんじゃねぇぞ。腕っ節が強いから騎士団には集まってるけど」
「そうなの?」
話し込む三人の頭にいきなり布が乗っかった。放り投げられたそれは、手織りの、目の粗い布。三人は男たちを真似てそれを使って濡れた髪を拭いた。
「思ったよりマシな待遇だな」
イグヤが呟くのに、二人もうなずく。
そこで突然――
テントの外で大きな、鈍い物音がした。
キューナたちのそばにいた全員が飛び出していき、にわかに騒がしくなる。
「な、何だ?」
ヤサルタが落ち着きなく周囲を見回すが、隙間のないよう徹底的に密閉されたテントの中からでは、外の様子は分からない。
女性の悲鳴が上がった。
どよめきと重なるようにして、何かが壊れるような音がした。
イグヤが寄ってきてキューナに素早くささやく。
「なぁ、この隙に逃げれると思うか?」
「どうだろう。ひとまず見てこよう」
キューナは傍らの上着を拾い上げた。
***
入口の布を捲り上げた途端、全身に吹き付ける冷気と吹雪。室内の空気との差に一瞬たじろいで、閉じた目をゆっくりと開いた。
「うわ、テントが……」
さっきまで向かいに建っていた大型のテントが跡形もなく潰れていた。雪の上に広がった布の下から、命からがら、数人が這い出してきた。折れた支柱が布を突き破って転がっている。その下敷きになった人間の周囲で、掘り起こそうと道具を取りに行くものたちが走り回る。
「て、手伝います!」
青ざめたヤサルタが、動転して、通じるはずもない言葉を叫んで、彼らに駆け寄った。呼び止め損ねたイグヤが小さく舌打ちをもらす。
泣きじゃくる子ども。血まみれの老人。
一向に進まない作業を尻目に、雪は刻々と降り積もる。積雪の重さに負けて、懸命に掴んでいたた布の端が彼らの手から落ちた。すぐさま埋まり、あっという間に見えなくなる。
その作業をじっと眺めているキューナの腕を、イグヤが掴んだ。
「……おい、行こうぜ。今なら余裕だろ」
キューナはイグヤを見ることなくテントに引き返して、すぐさま自分の剣を持って戻ってきた。ほっとした顔のイグヤの横を抜けて、剣を抜き、潰れたテントに駆け寄る。
「バカ! 暴れる必要な――」
イグヤの叫びに、振り向いた男たちが事態に気づいた。鋭利な剣を構えて全速力で駆けてくる少女。取り押さえようと向かってくる腕を少女は巧みにすり抜けてかわし――
女の悲鳴が、また上がった。
分厚い皮を一気に切り裂く、鈍い音がした。
「……は」
男の一人が、息混じりの声を出した。
北東からの突風によろめきつつ剣を収めたキューナは、すぐさましゃがみこんで、雪の中に両手をつっこんだ。奥歯を噛み締めて、息を止め――切ったばかりの布の端を掴んで、引きずり上げる。
呆然とする背後の男たちにキューナが怒鳴る。
「早く! また埋まる!!」
通じずとも意味を理解した男たち数人が、俊敏に駆け寄り、キューナの手元の布を掴んだ。切り裂いて面積も重みも半分になった布を、総力を挙げて一気に引き上げる。キューナはその下に、いち早く、もぐりこむように飛び込んで、雪を掻き出す。
ようやく見えた白い腕を掴む。温度のない腕を、肩の脱臼する感触がしたが、気にせず力づくで引き上げる。それから、意識のない彼の腕の中で泣いていた二人の子どもを助け出す。足元の雪を払ってやるなり、先ほどから悲鳴をあげていた母親らしき女性に飛びついて、大声で泣き出した。
テントから顔だけを出した状態で歓声をあげる老婆たち。
……それから、首長らしき男が止めに入るまで、キューナは一心不乱に雪を掘り続けた。
肩に置かれたしわだらけの手に、はっとなって見上げる。
「ん? 全員見つかった? よかったー」
真っ赤に染まった凍傷寸前の顔で、にっこり微笑んで――
キューナは力つきて、雪原に倒れこんだ。
母親らしき女性が助け出された子どもを抱いたまま、キューナに駆け寄り、なにか言いながら抱きしめた。
「あー? あはは……」
くすぐったそうに笑ったキューナが抱きしめ返そうとして、感触がない腕を不思議そうに揺らし、それに気づいた者たちがすぐさまキューナをテントに運び入れた。
***
出された茶のような茶色い液体の水面に、イグヤの苦渋の顔が映る。逃げ損ねた上に、キューナが両腕を真っ赤に腫らしたことを怒っているらしい。
「どうすんだよそれ」
「さっき処置してくれたし、動くし、まぁ治るでしょ」
キューナの簡単な答えに、イグヤはため息とともにテントの中を見回する。
左肩の脱臼と捻挫で済んだ父親らしき男性と、目を腫らした母親らしき女性の間でそわそわとしている二人の子どもは、擦り傷程度で済んだ。そのあとに救助された人たちも、まぁ、似たようなものだ。キューナの腕ほどではない。
「人手は足りてたろ、何もお前がそこまでしなくたって」
ぼやくイグヤ。
湯気を立てる飲料を早速美味しそうに飲み干して、盛大におかわりを要求してから、ヤサルタがキューナに「そいえばさ、」と向き直る。
「お前さぁ、下にいる人間切っちゃうかもとか考えなかったの」
「考えたけど。あれだけ分厚いし、生き埋めよりは切り傷のほうがマシじゃない?」
「……そうかもだけど」
キューナの思い切りの良さに唖然とする若き騎士二人の前で、キューナは『テント出る前に厚み確かめたし』という答えを飲み込んだ。中央州騎士団の中将が、触った布切れの厚みも計れないほどの剣技で務まるはずもない。
「あ、ヤスラ、あとで私の剣、見てくれる?」
「おう。このテントって毛皮だろ? あのペラい剣でムチャしたよなー。――あ、ありがとー!」
椀を持って戻ってきた女性から満面の笑みで受け取って、よく分からない液体をまた飲み干すヤサルタに、お前はもっと警戒心ってものをさぁ、とイグヤがこぼして、諦めたように首を振った。
ヤサルタがようやくまじまじと液面を見る。
「なぁ、コレ何だろ、酒かな?」
「知るかよ」
「あー確かにあったまってきた」
ほんのり赤らんだ顔を手であおいで風を送るキューナにイグヤが顔をしかめる。
「お前は薬が効いてるんだろ。ちょっと寝ろって」
「んー」
毛の長いふかふかの絨毯の上に寝転んで丸くなる。意識はそこで途切れた。
***
きゃはは、と子どもの声が寝覚めを促す。
「……ん?」
至近距離から覗き込んできていた、まん丸の両目と目が合った。
起きぬけの頭が、慌てて現在地を思い出す。
「あー」
なにやら話しかけてくれるその子の頭をなでてから、キューナは身を起こした。
「あ、大丈夫そう」
腕の包帯をとって、赤みがひいているのに、ほっと息をついた。その様子を見ていた子どもたちが、責めるような声をわあわあ出して走り回ってから、テントの外に駆け出していく。すぐに洗濯中の母親を引っぱって戻ってくる。キューナの腕を見るなり、外した包帯を手早く片付けると、
「あいててて」
キューナの腕をひっつかんで処置しなおす。
と、そこに、げっそりした顔の少年二人が戻ってくる。
「お帰りー」
答えられないほど疲れ果てた二人が、頭と肩に積もった雪を払う暇も、外套を脱ぐ暇も惜しんで、キューナの横まで来ると同時に寝転がった。
「っはー……」
「あー……」
小さくうめいたきり、動かなくなった。じっと見ていたキューナは、首を傾げる。
「なにしてたの」
「トナカイの解体」
イグヤの答えに、
「やめろぉー思い出させるな……」
ヤサルタが頭を抱えて、ごろごろと左右に転がった。そしてイグヤにぶつかる。
「ぐあっ、てめぇっ」
「あはは」
笑いながら部屋の周囲を見回す。窓がないので時間が分からない。
「私もしかして一晩寝てた?」
「いや? さっき日ぃ暮れたとこだよ」
女性が一人、桶のようなものを持ってテントに入ってきた。漂う香ばしい香り。
「もうできたのか、早ぇな」
「手際いいな、見習わないとねー」
騎士団での食事の用意を指して、キューナが笑う。陶器の丸皿にたっぷり盛られた赤茶色のスープから湯気がたちのぼる。
「いただきます!」
「トナカイ肉の煮込み、って感じかね?」
「……ええっとー」
キューナの戸惑った声に二人が振り向いて、ヤサルタが聞いた。
「それ、何してんの?」
苦笑顔のキューナの前に、女性がスープの乗ったスプーンを突き出している。キューナの両腕の包帯を心配そうに見つめながら。
身振り手振りののち、なんとか皿とスプーンを受け取らせてもらうことに成功したキューナも夕食を口に運ぶ。
「スパイスみたいな匂いがする」
「肉でけぇ」
駆け寄ってきた女の子がキューナの隣に座ろうとする。母親らしき人が叱るような声を出す。
キューナは一度皿を脇に置いて、あぐらを組むと、女の子を抱き上げて足の上に乗せた。きゃっきゃとはしゃいでキューナにひっつく子を腕の中に閉じ込めて、スープをすくって食べさせる。
「お前、行儀悪いんじゃね?」
イグヤが指した対面で母親があわあわしている。
「止められないし大丈夫じゃない? はい、もう一口」
「面倒見いいなぁ」
食べ終えた皿にスプーンを放り込み、イグヤが背を伸ばしてはしゃぐ二人を眺める。
***
翌朝。
雪原をきらきらと光らせる日差しに目を細めて、キューナは大きく伸びをした。
それから、白む空に向かって大あくびをした。白い息が広がる。
「あったかくないのに、まぶしいって不思議だなぁ……」
イグヤとヤサルタは今日も狩猟に行った。何も考えずキューナも付いて行こうとしたら、遊牧民たちに止められた。怪我は治ったので、どうやら男女で役目が違うらしい。
しっかりとなじんでしまった雪のにおいを鼻一杯に入れたところで、
「うわ!」
背後から連続して小さいものがド突いてきて、前につんのめった。雪を前に蹴り飛ばして踏ん張って振り返ると、テントから飛び出してきた子どもたちがきゃっきゃとはしゃいでいる。すっかり遊び相手だと認識されたらしく、背中に乗るわ腕やら足やらにしがみつくわで、遠慮なくもみくちゃにされる。
「げ、元気だなぁ……そりゃそうか」
狭いテントの中ではあれだけ大人しかった子どもたちも、別にそういう気性だったというわけではないらしい。鬱憤を晴らすかのように思う存分跳ね回るその様子を見ているうちに触発されて、キューナもなんだかうずうずしてきた。
「よーし」
にんまり笑う顔はいたずらっこそのもの。
凝った腕と肩をぐるぐる回してから。
「いーれて!!」
テントの集落の外周を走り回っていた子たちの中に飛びこんだ。大人げなく全力疾走であっという間に全員を追い抜く。背後から伸ばされる手や、ぎゃいぎゃいと不満そうな声を無視して、随分と差を引き離してから振り返って、挑発するように両手を振った。
目を輝かせた子どもたちから、甲高いリアクションが返ってくる。
それを今度はいきなり逆走して、両手を広げて追いかけ回して、逃げ遅れた一人を掴みあげた。悲鳴が上がる。構わず両腕で持ち上げ、ぐるぐる回して、積もったばかりのやわらかい雪の上に放り投げた。パウダースノーが綺麗に飛び散る。
その子はすぐに雪山のてっぺんから頭を突き出して、けらけら笑った。
逃げ回っていた子たちが、今度はうらやましそうな声をあげて我先にとキューナの元に集まる。
「はいはい、順番ねー」
それを全員放り投げてやって、さすがに疲れて雪の上に座り込む。とことこと寄って来た、赤いポンチョの女の子を抱き上げて抱きしめる。
「あーあったかい。うん、うん?」
懸命に話しかけてくれるその子の言葉を、なんとか聞き取れないものかと耳を寄せてみるけど、一言も分からない。早々に諦めて、雪の上にねっころがった。すかさず飛び乗ってくるやんちゃな子たちを、寝たまま遠くにぶん投げて――それから思わず苦笑した。
「あぁもう、どおりで大人たちが一人もこっち来ないわけだよ」
さっきから少し離れたところで作業している姿はちらほら目に入るが、休憩している様子でしゃがみこんではいてもこちらには寄ってこない。
そりゃそうだ。こんなの相手にしてたら、家事も集落の管理も狩猟も何もかも、手が回らなくなる。
「よし、休憩終わり!」
そう言って立ち上がってぽんと手を叩いたキューナの横で、赤いポンチョの女の子も何事か叫んで、同じように手を叩いた。
***
胸板の厚みが二倍くらいある男たちに連れられて狩猟を終えたイグヤとヤサルタは、集落への帰り道、林の中を歩いていた。
「なんか俺、もうどこでも生きていける気がする」
「んだそれ」
大して役に立たなかったじゃねぇか俺ら、と自嘲するイグヤの横でふてくされるヤサルタ。
「なんだあれ」
ヤサルタが指さした先に、イグヤも目を向ける。
集落のはずれの平地に小さい影がいくつか。楽しそうに舞い続けるキューナの周囲で、息を切らしてへたばっている子どもたち。
イグヤは目を見開いた。
「お前、それ」
「お帰りー、って、うわあ!」
イグヤの声に振り返ろうとしたキューナが、重心を崩して雪に足をとられた。
「わはは、だっせぇ!」
ヤサルタが笑いながら助けに行く。
イグヤは足を止めていた。一瞬だけ見えた動きは、ぎこちないし不完全だったけれど、いつかの夜に見た少年のきれいな舞いとよく似ていた。
結局、イグヤがそれについて言及する前に、集落の男たちが食事だと呼びに来て、聞く機会を逃した。




