30.誕生日(前編)
「お待たせー」
毛先からしたたる水滴を適当に拭いながら、キューナは他の一年目よりも一足早く蒸気のこもる浴室を出て、自室に戻った。室内では、少し前に入浴を済ませたエイナルファーデが一人、窓辺で髪を整えている。キューナの声に振り返って苦笑を見せた。
「相変わらず、びっくりするほどカラスの行水だよね。ちゃんと洗えてるの」
「もちろん。最近、更に時間短縮する方法思いついたんだよねー。ていうか、先輩たちは?」
「知らない先輩が呼びに来て、出てったー」
「ふーん」
キューナは、吸水性の悪い、使い古された綿の布で頭をがしがし拭きつつ、エイナルファーデの隣に座る。
隙間から吹き込んできた夜風が、甲高い音を鳴らしてカーテンを小さく揺らす。
「……ねぇ、キューナー」
ぽつり、とエイナルファーデが言う。
「んー?」
「あのさぁ……アトロシェチェに一瞬で行って帰ってこれる方法ってないかなぁ……」
尻すぼみな呟きが夜の静寂に飲まれて、
「なんてね! あはは!」
明らかな空元気の笑い声。キューナはきょとんとして、至近距離のエイナルファーデを見つめた。
「往復で一時間くらい? 窓、開けとくよ?」
「……エートロッシェと間違えてない?」
ん? とキューナが首を傾げる。生乾きの頭から布が落ちた。
「……あ、うん」
「アトロシェチェは山脈越えた、北州東部の街だよ」
「山脈、東部……この時期だと、行くだけで一週間くらい?」
エイナルファーデが首を振る。
「雪山なんて、相応の装備がないと越えらんないよ。騎士団の装備には、そりゃあるだろうけど借りられないし……」
「装備私有化と、数日間の脱走か。誰にバレても即死ルートだねぇ」
「ていうかまず塀越えらんないしね、ムリムリ」
あはは、とエイナルファーデが笑う。
二人並んで、窓から星空を見上げる。ガラス越しに伝わる冷気で顔面が冷えていく。キューナは窓を向いたまま口を開いた。
「で、その街に何があるの?」
エイナルファーデは少し口ごもって、うなだれて。
「はー。そうだなー、言うだけ言ってすっきりしちゃうかー」
「キューナ、聞いてくれる?」
「もちろん」
「ありがと。――あのね、アトロシェチェってね、あたしが住んでた街。大通りの外れにある質屋に、母親の形見を預けてあるんだけど、返却期限が一週間後の私の誕生日なの」
何と言っていいか分からず、キューナは目をしばたたかせる。
「……お、おめでとう?」
「あはは、ありがとう。まぁ後悔はしてないけどね、質屋に預けたのも騎士団に入ったのも私の意志だし、そうしないと弟妹たちを食べさせていけなかったから」
「あ、その弟妹に、質屋から引き取ってきてって頼むのは?」
「弟は養子に入ったから今はこの近くにいるし、上の妹はおととし家を飛び出したっきり行方不明。真ん中の妹は去年の冬に流行り病で。下の妹は盗賊に入ったとかいう噂を聞いたから当てになんない」
机の上に置いてある木箱を見て、エイナルファーデはためいきをついた。
「あーあ。せっかく頑張って貯めたんだけど、間に合わなかったなぁ」
二人揃って、演習で酷使した足を左右に揺らして筋肉をほぐす。それだけでは足りなくて、強張りきった硬い脚を両手でもみこむ。睡眠前の毎日の習慣だ。
「お母さんの形見って、何?」
「練り香油。ファエネッタって言ってね、」
「あ、知ってる。老舗の高級品だよね」
中央にもあった有名な店の名前にキューナがうなずくと、すっかりいつもの調子を取り戻したエイナルファーデは頬をふくらませてキューナをつついた。
「なんでそんなこと知ってるのに、雪山越えがどれだけ危ないかも知らないのよー」
キューナはごまかすように笑うしかない。
***
翌日の明朝。空が白んで少し経った頃。
帽子をかぶって付け襟をつけたキューナは、丁寧に艶出しされた重い扉をそっと押し開けた。上官か通信士にしか入室を許されていない通信室にするりと忍び込む。無人の受付を通り抜け機械の裏に回りこむと、宿直の通信士と思われる文官の格好をした青年が一人、受話器の前にうつぶせて眠っているのを見つけた。傍らの機材にかかっていた遮音用の布を広げ、目と耳を覆うようにかけておく。
「……よし、と」
少し離れた扉を開けて、中の席に座り、機材一式を引き寄せる。鍵盤の根元を留めている赤い紐を外し、かわりに遮音用の布を挟み込む。所属基地の離れた通信士や上官カップルが業務外通信によく使う手だ。
スイッチを下ろし、点いたランプに指をかざして、指定する通信先は、北州騎士団サロト基地。――年初の計画通りなら東州騎士団の遊撃部隊が駐在しているはずの、北州東部最大の基地だ。
これであとは、向こうにちゃんと起きている通信士がいればいいんだけど、と白い息を吐きつつ小さく呟いて、冷え切った指先を鍵盤に乗せた。トントン、と本来打鍵音が鳴るはずの木片はかすかにくぐもった音を立てるだけ。
それでも、必要な信号は届いたようで。
ダイヤルを回して調整していると、簡潔明瞭な応答が来た。キューナはちょっと悩んでから、形式どおりにしたがって所属と氏名を名乗る。
「――中央州騎士団、中将クウナ=アルコクト」
今度の応答はしばらくかかった。
『休暇のはずじゃ?』
一気に砕けた口調に、キューナの口元が緩む。
北州騎士団本部に中央州騎士団から視察が来ることや、それが延期になったことは、北州騎士団の全ての基地に文書で通達が出されているが、その正式な書類にクウナ一個人の休暇がどうとか書くわけもない。クウナが休暇中だと知っている人間は、北州騎士団には数人もいないはずで。
「やっぱりキミか。久しぶり、フエフ」
東州騎士団遊撃部隊と銘打ってはいるが、実際は中央州騎士団本部の指令下にあり、東州全域と、北南州の東部地域に駐在する役目を担う特殊部隊。その一員で、他所の基地の通信室で宿直を名乗り出ちゃうような熱心な通信オタクは、一人しか思い当たらない。
『挨拶とか、どうでもいい。答えろし』
「隠密行動中。終わったら直接、話すよ」
事情は簡潔な説明で伝わったらしく、
『用件は?』
いつもの頼もしい一言。
「……ありがと」
届かない言葉を呟いて、返事を打った。
「そこからアトロシェチェまで何日かかる? ――」
***
翌日の早朝。キューナはまた通信室にいた。
「うん、そうか。どうもありがとう」
寄りかかっていた壁から、ずるずると冷たい床に座り込む。机上から追って聞こえてくるフォローじみた返答に、右手だけを伸ばして気丈な言葉を打ち返す。
「……そうだよね。……ごめんね、エイファ」
俯いて小さく苦笑するキューナの背後で、本日の居眠り通信士がわずかに身じろぎする。頭上の小窓から見える白い空に気づき、そろそろ切り上げようと腰を上げ、再三の礼と別れの挨拶を叩こうとした指先に、
「……え?」
『お詫びになるか分かんないけど』と称して、思いも寄らぬ情報が入ってきた。
『てゆうか、ファエネッタの練り香油、新品で良いなら、お前の今いる街に売ってるぜ?』




