2.一次試験(後編)
小さな岩や砂が、足を置いた弾みでばらばらと落ちていく。一歩間違えれば砂利と一緒にどこまでも転がり落ちかねない。勢いに任せて登ってきた傾斜のついた岩場を、重心を低くしながら三人の若者は慎重に降りている。
それぞれ自分の足元を見ながら名乗った二人に、長身の青年はこう言った。
「トードキルホ=フェクラーベ。キホでいい」
「おっけ」
軽く答えたキューナに対し、その下で比較的広い岩の上に着地したばかりのイグヤが顔をしかめて、頭上の長身を見上げた。
「お前あれか、全北部高等学舎槍術大会で……」
「有名な人?」
イグヤの右側にキューナが下りてきて、そう聞いた。
「知らないのか? どこの学舎でも掲示されるんじゃ」
顔を見合わせたキューナとイグヤの間に、すとんとキホが降り立って、
「学舎時代の話はいいだろ」
少将の去っていった崖の方角へと歩き出す。二人も続いた。
大地が途切れたところで、先頭のキホがまず立ち止まった。斜め前上方の岩壁に見える小さな金属片を指さす。イグヤが顔をしかめた。
「なんであんな微妙なところに……」
ハーケンは、対崖からおよそ2、3m手前、イグヤの目線の高さから2、3mほど上の断崖絶壁に突き刺さっている。手を伸ばしても届かないが、あそこまでいくことができれば、対岸は近い。
「その窪み、つたって、いけると思うか?」
そう言ってキホが指さした岩壁には、ハーケンの抜けた跡のような小さな窪みがあった。刺さっている唯一のハーケンのところまで、小さな窪みが等間隔に点々と続いている。が――
イグヤはしばらく検分したあと、首を振った。
「これじゃ、靴先も入らないだろ。そうだな、ブーツかついで、はだしになって爪先だけつっこむか、指だけつっこんで懸垂で進むか、だな」
明らかに無謀な選択肢に、
「……だよな」
キホもすぐ諦めたように頷いた。
キューナが前を見たまま、ぽつりと言った。
「そこの枝、しならせれば、いけると思う」
イグヤが不審そうにキューナを見る。
「枝ぁ?」
対岸には小さな茂みが見えるが、こちら岸には、溶け残った雪のかたまりとその間に露出する岩しか見当たらない。
イグヤに答えないまま、キューナはかたわらの雪の中に左手を無造作につっこんだ。横薙ぎにざっと払いのけると、表れたのはごつごつとした樹皮だった。
キホがおお、と声をあげる。
「これ、木か」
そうと判れば、とキホは雪の中に飛び込むようにしてかきわけはじめた。
「おい、」
キホが立てる雪の音にまぎれて、近寄ってきたイグヤが険しい顔でキューナに言った。
「……なんで、木だと分かった?」
さっきまでの道のりを観察していて、緯度と地質と標高と方角と季節と時刻から考えて、ここにある雪が地面に接していたら、こんなに溶け残っているはずないもの――という言葉を飲み込んで、キューナはイグヤの足元を指差した。
「根っこ」
イグヤは虚をつかれた顔をした。先を急ぐキホが、雪を周囲にばらまくような乱暴な動きで除雪しているせいで、イグヤが今立っているその場所が元々雪に埋もれていたところだということに気づかないまま――イグヤは気まずそうに「そうかよ」と小さく呟いて、キホと同じように手を動かし始めた。
「カヤシナラの木か」
幹が完全に姿を現すと、イグヤが懐かしそうに呟いた。
「ガキの頃よく登ったなー。背ぇ伸びてからは、これだけ枝が入り組んでる木は登れなくなったけど」
「じゃ、私が登るのが適任かなぁ」
隣で同じように木を見上げながら、キューナがのんびりと言う。まっすぐに伸びた太い幹の上で、絡まりあうように伸びる無数の細い枝。一番下の枝さえもキューナの身長でははるか頭上にある。それでものんきなキューナの様子に、イグヤが「お前が? 大丈夫かよ?」と、ちっとも信用していないふうに問いかける。
手をひらひらを振って、キューナは木に近づいた。
「大丈夫大丈夫。キホ、踏み台代わりに肩借りていい?」
三人の中で一番の長身が、キューナの言葉に頷いて、しゃがみこむ。
「失礼」と言って、キューナがその肩に足を置いた。両手はキホの少しくせっ毛な頭に載せる。
「立つぞ」
「どうぞー」
キューナの両足首を掴んで、キホがゆっくりと立ち上がる。急に高くなった見慣れない視界に思わず微笑んで、キューナは一番手前にある枝に手を伸ばした。目の鼻の先にある木肌をじっと見つめながら、キホが頭上の少女に聞いた。
「届いたか?」
肩の上で身じろぐ気配。それから声。
「うーん、ちょっと右。……うん、そこ」
キホの真横で雪の落ちる音がした。同時に、両肩に乗っていた荷重がなくなる。右手だけで枝を掴んだキューナは軽々と自身の身体を樹上に引き上げた。そのまま雪を払いながらするすると木を登ってゆく。水を得た魚のような動きに、心配していたイグヤが一転して呆れた顔をした。
「あいつの前世は曲芸師か何かか? そんなおてんばには見えなかったんだが」
隣でキホが薄く笑う。イグヤが目を向けると、そのままうなずいた。
「ねー、この枝かなー?」
樹上からキューナが言うのに、キホが示された枝の先端と、その先のハーケンを見比べる。
「もう少し低い枝のほうがいいんじゃないか、その手前のとか。女の軽さだとそんなに下がってこないだろ」
イグヤの指示どおりに枝を移ろうとしたキューナを、キホが止めた。
「いや、その枝でとりあえず進んでみたほうがいい。――カヤシナラの枝は固いけど、あるところで急によくしなるんだ」
「おっけ」
ぎし、と枝が音を立てて下がる。入り組んだ枝同士がぶつかって、雪がまたひとかたまり落下した。枝をまたぐように座って、キューナが目を輝かせた。
「ほんとだ。さすがキホ。ねぇ、これで届く?」
キューナの座る枝に押されて目の前まで下りてきた別の枝の先端に、キホが抱きつくようにしがみついた。イグヤは腕組みをしてその様子を眺めている。
「後ろに下がるねー」
そう断りを入れてからキューナが幹のほうに近寄ると、軋んだ音をたてて枝は上がり、キホの両足が宙に浮く。すぐさまキホの左足が岩壁をすべって、一個目のハーケン跡の窪みを探し当てる。ブーツのかかとで数回蹴り飛ばして穴を広げ、靴先を無理やりねじこんで足場にしてから、枝から離した右手を伸ばしてハーケンを掴んだ。そのまま力をこめる。キホの口角が上がった。
「かなり頑丈そうだ」
「やばかったらすぐ戻れよ!」
イグヤが叫ぶのにうなずきを返してから、キホは時間をかけて体重を左から右へと徐々に移していく。イグヤが気の遠くなるような焦燥感をこらえ、キューナが枝の上で足を揺らしながらにこにこと見守っている中、キホがぽつりと言った。
「――いけるな」
ハーケンをつかむ手にいっそう力がこもる。キホの右足が岩肌を力強く蹴った。数mの距離を飛んで、キホは難なく対岸へと着地した。
イグヤが歓声を上げる。キューナは樹上から拍手を送った。
満面の笑みを浮かべて、振り返ったキホが手招き。
「よし、」
イグヤが服の袖をまくる。深く屈伸。その目線の先に、ゆっくり、枝とキューナが降りてくる。イグヤが枝に手を伸ばす。
「右腕が上のほうがいい」
「分かってるよ」
対岸からの親切なアドバイスをうっとうしそうに聞き流し、イグヤは頭上のキューナを急かした。
キホと全く同じ手順を踏襲して、イグヤが難なく対岸に辿りつく。
着地したイグヤの足が小石を踏みつける音と、キホの「あ」が重なった。
「しまった。ルコックドはどうするんだ」
振り返ったイグヤが、困った様子もなくキューナに言う。
「無理そうなら棄権しておけ。女子どもが北の騎士に、なんて、荷が重――」
がさ、と音がした。枝の上でキューナがまっすぐ立ち上がっていた。他の枝とからまっていない一本に飛び移ったかと思うと――
地面にいるときと何ら変わらない動きで、枝先に向かって駆け出した。イグヤが顔色を失う。
「バ……!」
太い幹をも揺らす衝撃に、背後で雪がぼとぼとと落ちる。ひときわ大きく枝が軋む。枝の先端までたどり着いたキューナの靴底が枝を離れ、すぐ脇にそびえ立つ岩壁を斜め上方向へと同じ勢いのまま駆け上がる。目を見張る二人の前で、キューナの体がルーレットの玉のような上向きの弧を描いて、ほぼ垂直に近い傾斜を突き進み――
「キホ! キャッチ!」
キャッチボールでもしているかのトーンで、走るキューナが叫ぶ。反射的に両手を広げたキホの胸に、キューナが飛び込む。
キホがゆるめた膝くらいでは衝撃を吸収しきれず、二人まとめて茂みへとつっこむことになった。小枝が次々と折れる音に、絶句していたイグヤが我に返って茂みに叫ぶ。
「馬鹿かお前! 一歩間違えたら死んでたぞ!」
茂みから顔を上げたキューナは笑っていた。
「えー、それはイグヤたちも一緒じゃん」
「なわけないだろ!」
イグヤの怒りを受け流して、
「あ、キホごめんね怪我ない?」
キューナは立ち上がった。キホは茂みに倒れこんだ姿勢のまま、ゆっくりと首を動かし、目の前の黒髪の少女を見上げた。
「……サーカスの出身か?」
「あはは、まさか」
「前世、アビジヤーナだろ」
断言したキホに、イグヤが顔をしかめた。
「知るかよ」
「アビジヤーナって何?」
キューナが聞くのに、イグヤが呆れた顔を向ける。
「何、って……そこらへんにいるじゃん」
「雪の多い山に住むサルの一種だ。……そういえば、ルコックドは訛りがないよな。北の人間じゃないのか」
「えーっと……」
キホから疑問の視線を向けられたキューナは頭を掻きながら、汽車で見かけた、中央寄りの北の駅名を数個挙げた。
「――とか、そのあたり」
「なるほどな」
納得したらしいキホがうなずく。キューナは内心で胸をなでおろした。
――と、頭上から、ざわめき。
急に騒がしくなった上空を三人が見上げると、対岸の崖の上に立つ何人かが、何事か喚きながらこちらを指さしていた。
かろうじて舌打ちをこらえたイグヤが、慌てて二人の背を押す。
「急ぐぞ!」
「え、なんで」キューナがきょとんとした。「みんな来るの待ってからでも……」
イグヤが一瞬泡を食ったような顔をする。それから、少し口ごもって、それから、
「えぇと、ほら! 少将見失っちまうだろ! 行くぞ!」
そう言って駆け出す。キューナとキホが顔を見合わせ、キホが「行くか」と言ってあとを追ったので、キューナも続いた。
走るキホを追い越しざま、キューナは人差し指を立てて口元にあてる。不思議そうな顔をするキホに微笑んでから、イグヤとキホの間に入る。しばらく走ってから、不意にキューナの手が伸び、かたわらの大樹の脇に生えていた、濁った色の木の葉をちぎりとった。手の中でしばらく揉みこむと、やがて握り締めた手の中から鮮やかな青緑色の液体があふれだす。最後尾のキホは、真横にまっすぐ突き出されたキューナのこぶしから、顔料のような青色が足元に点々と印を付けていく様子を、感心したように眺めながら山道を走り続けた。
2015/2/22 タイトル変更
2015/5/24 誤記修正