28.Black or White
深い夜闇の中。寝台に腰かけた人影がカタカタと小刻みに震えている。
鍵をかけていたはずの窓が開く。人影――トララードはいつもの侵入者に血走った目を向け、震える声で言った。
「今日は帰ってもらえませんか」
「……どうしたんです、それ」
トララードは隠すように俯いたが、キューナにはお見通しだ。
あざの位置と角度から相手の身長を推測して、気性の粗い数人の名を並べる。トララードは答えず、首を振った。
「貴方が思っているより、私は弱者です。事を荒立てる気はありません」
「そんなつもりはないけれど」
ふと机上に置かれた招待状に気づく。封緘の蝋には、見覚えのある名家の紋章が印されている。開封済みの封筒から金色のカードを取り出して開く。
「行くの?」
読み終えたそのカードを、ひらりと持ち主に振ってみせる。
トララードは暗い顔でうなずく。
「私に、そのようなものを断る権限などありませんよ」
「行きたくないの? ここにいるより、人目があるほうが幾分か安心じゃない?」
「酒が入ると面倒が増えますから」
ああ、と納得したようにうなずいた。
天井裏の雨漏りの音が、ぽたり、と静かに聞こえる。キューナはしばらく天井の板張りを見つめて立ち尽くしていた。ふと生まれた静寂をいぶかしんで顔を上げたトララードにたずねる。
「あの賑やかな足音の男はいないの? 遠出?」
「……ええ」
「なるほど、それで危機というわけだね。その頬の人は、この会には来るの?」
トララードはかたくなに口を閉ざす。
「まぁ別にいいか。どうせあとで伝わるだろうし」
不穏な呟きにトララードが顔を上げて人影を睨む。
「……一体、何を企てて」
悠然と足を組み変えて、人影はトララードの名を呼んだ。
「あなたはもう少し、胸を張って表舞台に立つべきだ。筋肉バカどもに、迂闊な手出しをさせないくらいにはね」
人影は肩をすくめて、くすくすと笑った。
「そんな方法あるわけ」
「そうだな……隠れた天才に憑く死神――というのはどうかな」
芝居がかった仕草で両手を広げ、演出家のように言った。
***
――「あなたは一つだけ覚えておけばいい、」
行きの馬車の中で、人知れず勝手に同乗してきた覆面姿の人影は、正装のトララードにこう説明した。
「何が起きても私はあなたの言うことを聞く。絶対にだ。だから、私に対しては、できるだけ偉そうに、尊大に、命令してくれ」
その意図はトララードにも分かっていた。分かっていたが、まさかと侮っていたのだ。
その小さな若い覆面一人で、一体なにができる、と。
絢爛豪華な豪邸がきらびやかに飾られている。その中央ホールで、良家の晩餐会が催されていた。しとやかに談笑し合う上品なざわめきが、広いホールに反響する。広間の隅に座る楽団が上品なクラシックを奏でる。弦楽器の音が鳴り響く。
貧困にあえぐ街の中心とは思えないな、と批判的な考えを隠すように、トララードは目を伏せる。
「トララード!」
「はい」
顔馴染みの大佐に乱暴に呼びつけられ、青年はタイを整え大股で駆け寄る。
「ご無沙汰しております、伯爵」
大佐の前にたたずんでいた小柄な老人に向けて、貴族顔負けの優美な一礼。老人は満足そうに葉巻をくゆらせた。
「アカデミーの卒業式典ぶりだね、トララードくん」
「はい、伯爵もお元気そうで」
「まさか君が騎士道に興味があったなんてなあ。てっきりキミは一生、あの箱庭にこもるタイプの人間だと思っていたよ」
「あの時は理事会にお口添えいただき、本当に助かりました」
「なに、私は面白がって便乗しただけのクチさ。――そちらは?」
青年の横から、大佐が「申し遅れました」と一歩進み出る。トララードは数日前から言い含められていたとおりの口上で、大佐を伯爵に紹介した。熱心に話し始めた大佐から少し離れたトララードは、ついと袖を引かれて振り返る。綺麗に着飾った若い少女が数名、目を輝かせてすぐ後ろに立っていた。
「騎士団のトララード殿ですよね?」
「お目にかかれて光栄ですっ」
「あの、よろしければお食事などお持ちしましょうか?」
「お酒は飲まれますか?」
「ああいや……」
彼女たちの剣幕に押され、曖昧な返事をして視線をさまよわせたトララードは、彼女たちの背後からの熱心な視線を注ぐ壮年の男たちに気づく。おそらく彼女たちを焚きつけた、彼女たちの父親だろう。
トララードは眉をぐっと下げた。
「……あ、あの、お嬢様方。申し訳ありませんが、私は貴族ではありませんので……」
物腰柔らかに(本当はただ恐る恐る)丁寧な話し方をする青年に、少女たちはすっかり陶酔したようで、きゃーと黄色い声で舞い上がる。目一杯着飾った桃色の肌の少女たちは、なぜだか更に嬉しそうな顔をして、
「噂どおりの飾らないお方ね」
などと口々にささやきあう。
「みな、それは存じておりますわ」
「爵位の授与を辞退されたというお話は本当ですか?」
「私、中央州のお話が聞きたいです!」
「ええと……」
「――失礼、お嬢様方、仕事の話があるのでこれで」
突然割り込んできた武骨な大男を見上げ、少女たちは怯えた顔で黙った。別の貴族に伯爵との話を中断され、機嫌の急降下した大佐がトララードを壁際までひっぱっていく。
壁に肩甲骨を打ち付けて、トララードがむせこんで背を丸める。大佐が聞いた。
「おい、それで、役人は?」
「……いえ、いらしていないようです」
トララードが小さく答えると、大佐は舌打ちを鳴らし、ねめつけめるように役立たずの青年を見下ろす。
「話が違ぇだろ、直轄地区の地主を紹介しろっつったんだが?」
青い顔でうつむくトララード。
「馬車業の権益を聞き出せと、命じただろうが」
質素な正装の胸倉を掴んで、大佐はトララードを乱暴に引き寄せる。
「こっちは仕事だっつうから飲まずに我慢してんだ、お前も働け」
既に答えることもできなくなっている青年に、大佐はここぞとばかりに言い募る。
「お前、知ってるぞ、大尉にも媚売ってんだってな。俺が気づいてないとでも思ったか」
押されて数歩後退した彼の腰が、壁際のテーブルにぶちあたる。所狭しと並べられていた食器がぶつかりあって鳴る。近くで談笑していた貴族の男女が、怯えたような顔をしてそそくさと遠ざかる。
「なんとか言ったらどうだ!」
大佐の手が、テーブルの上からバターナイフを掴みあげる。逆手で握ったその銀色が飛んだ。ナイフが青年の頬をかすめ、鈍い音を立てて壁に突き立つ。どす、という音が、トララードのすぐ耳元で聞こえた。
その様子は、幸か不幸か大柄なその男の影になり、ほとんどの人からは見えなかった。青年の、青ざめきった顔が、磨きぬかれた銀色のカトラリーにはっきりと映り込む。
「お前は、どこまで俺をバカにすれば気が済むんだ?」
低い声が、身動きできないトララードの耳を打つ。男の手が腰の剣に伸びるのを、浅い息を繰り返しながらただひたすら見つめることしかできない。
剣が鞘から引き抜かれる寸前――
「――主に、手を触れるな!!」
激昂の声がホールにとどろいた。和やかな喧騒と音楽が止む。
同時に、大佐の手が何かに横から殴打され、剣から離れる。
「な……!」
軽い音を立てて大佐の足元に転がったのは、二つに割れたナプキンホルダー。どのテーブルにも置かれていたものだ。大佐は赤く腫れた手を押さえて振り返った。動揺しきった人々はみな天井を見上げている。
ホール中央の天井から吊るされたシャンデリアが大きく揺れた。カットされたガラス玉が激しくぶつかりあって細かな破片をきらきらと散らす。
ドレス姿の娘たちが悲鳴をあげる。
軽やかな着地音と共に、小柄な黒い影がトララードのすぐ近くに降ってきた。
「――トララード様、こちらへ」
突然の事態に固まっていたトララードは、そっとかけられた温度のある声に我に返る。覆面をつけた、小柄な黒衣の人影が立っている。誘導の言葉にしたがって、大佐から離れるようにしてホールの中央寄りに、覆面のほうに数歩下がる。
真っ赤な顔の大佐が、覆面を睨みつけて吠えた。
「無礼者!なんだ貴様は!」
大佐は、今しがた阻まれた剣をもう一度掴んで一気に引き抜き、肩をいからせて構える。ぎらりと光る物騒な金属の登場に、群集から更に大きな悲鳴が上がった。屋敷の外に逃げようとする人の波が生まれ、その中で失神者が出たらしく、人垣が大きく揺れて騒ぎたてる。
剣を振り上げた大佐は、覆面めがけて一目散に駆け込んでくる。
覆面の、黒衣の裾が大きくひるがえる。
軽やかな音を立てて地を蹴り、覆面はためらうことなく大佐の懐に飛び込んだ。覆面が何をしたのか、誰にも見えなかったが、
「ぐ……?!」
次の瞬間、苦悶の声をあげた大佐の巨体が宙に浮き、目にも留まらぬ速さで左方向へと吹っ飛ぶ。テーブルを巻き込み、派手に転倒した。皿が割れ、ソースが飛び散る。
あまりの威力に、折れたテーブルの足がクロスを突き抜けて飛び出している。
「何事だ?! 大人しくしろ!」
四方から衛兵が駆けてきた。
振り返った覆面が、先駆けで飛び込んできた二人の男を紙切れのように吹っ飛ばす。先駆けの手を離れた黒塗りの槍が料理を載せたワゴンに当たり、激しい音を立てて転倒した。飛ばされた二人は一撃で意識を刈り取られたらしく、少し離れたところに伏せたまま微動だにしない。
覆面が、後追いの衛兵たちにものすごい剣幕で叫ぶ。
「動くな!」
即座に状況を見回した衛兵のリーダーが、慌てて制止の声を上げた。
場がしんと鎮まった。
衆人環視の中央には、覆面、大佐、そしてトララード。
三人の周囲をぐるりと取り囲む、本来なら充分すぎるはずの人数の警備兵。これまでこの屋敷で起きた幾多のトラブルを仲裁し盗人をひっとらえてきた手練れの男たちだが、その存在には、迂闊に近寄ることは憚られた。
衛兵が止まったことを確認して、小柄な覆面は大佐に歩み寄り、その首に寸分の狂いもなく、持っていたナイフの剣先を突きつけた。
座り込んだままの男は頭から血を流し、腹部を押さえて荒い息を吐く。霞む意識の中、大佐は本能的な恐怖から辛うじて意識を保ち、血走った目を開けていた。
腹の底から沸き上がる不気味な震えに全身が支配されている。自分自身を虫けらのように感じる。謝罪の言葉すら、降参の言葉すら、口にできないほどの圧倒的な――圧倒的な力の差。恐怖。
まさか、もしや、
――ここにいる警備兵が全員、全滅するのではないか。
なんて、馬鹿馬鹿しい考えがよぎるほど。
一方。
別の騎士が人垣の中から、その様子を眺めて眉間にしわを寄せていた。大佐の用件が終わったら、次にトララードを利用しようと狙っていた人間の一人だった。
覆面の正体を掴もうと、懸命に凝視する。
「フォワルデ……か? いや……」
よくよく見知った元帥小飼いの暗殺者とは、あまりにも体格が違いすぎる。
覆面が手の中で回しているのは、独特の形状をした暗殺用のナイフ。北州では名の知れた武器商の銘が入っている。あれを持てるということは、それだけで相当な人物に雇われているか、もしくはそれくらいのものを強奪できるほどの、相当な腕前だと分かる。
だが、この人垣の中にいる誰もが、北州のほとんど全てをほしいままにできる富裕層の彼らが、誰もその存在を知らない。
「なんなんだ……」
先ほどまでの浮かれた雰囲気はどこへやら、混乱しきったように呟く。
衛兵のリーダーは槍を構えたまま、状況を理解するべく三人を観察していた。
覆面を着けた、小柄な、見るからに不審な侵入者。片手で持った、小型のナイフ一本。複数の大剣と槍を相手に、怯む様子も見せず、傷ひとつないその姿。
その影が、屈強そうな騎士から細身の青年を庇うように立ちはだかっている状況を見て、
「護衛か?」
覆面に向けて、固い声で問いかけた。
貴族や金持ちが護衛のために私兵を連れるのはよくあることで、この会場へ入れることも禁止されてはいない。そういった小競り合いも珍しくはない。
覆面はうなずいた。そのタイミングで、
「――なんの騒ぎかね」
「伯爵」
中央の大きな螺旋階段を下りてきた正装の老人が、白い欄干に手を置いた。
覆面はひとしれず目を細める。
あれが――主賓。過税徴収によりこの周囲の街の財政を圧迫する、北州上層部の役人。
「何をしている」
「正当防衛です」
老人の問いかけに覆面は平然と答え、同意を求めるように、大佐の目と鼻の先で鋭利なナイフを揺らす。その武器の威力と小柄な覆面の実力を十二分に理解した男は、たちまち顔をひきつらせ、絞りだすような声で答える。
「………あ、ああ、失礼した」
覆面はダメだしするように首を振った。かたわらの青年に目線を向けて、肩で促した。意味を理解した大佐は、額の血を震える腕でぬぐうと、奥歯を噛みしめ――青ざめたまま立ち尽くす青年に向けて、頭を下げた。
「た、大変、失礼した、トララード中佐」
「……ああ、いえ」
茫然自失のトララードは間抜けな返答しかできない。
大佐の、伏せた顔が苦虫を噛み潰したような表情をしていたことに、もちろん覆面は気づいていたが、それくらいは見逃すことにする。
覆面は納得したようにうなずいてみせて、それからナイフをしまった。先頭の男が手を上げ、衛兵たちが構えていた槍を下ろす。人ごみの何人かが安堵の声を出した。
大佐から興味を失ったように視線をはずした覆面に、トララードはほっと息をつく。
しかし、その顔はくるりと回って螺旋階段に向き、
「あ」
背を向けた伯爵の、ジャケットに描かれた金刺繍の家紋を見つけて声をあげた。
「あれが噂の、鉄屑伯爵?」
すぐ隣に立っていたトララードだけに聞こえる小声で、覆面はこっそりと尋ねた。
鉄屑伯爵――粗悪な金をせっせと集める、伯爵の蔑称だ。
トララードが小さく肯定すると、覆面の下で、その人がゆっくりと笑んだ気配がする。しまわれたはずのナイフが音を立てて引き抜かれる。トララードはざっと血の気が引いた。
「な、何を……」
覆面は伯爵のいる階段のほうに向かって、その前にいる群衆に向かって、すたすたと歩いていく。両腕をだらりと下げたままの平然とした足取りだが、先程の騒動のあとでは気休めにもならない。覆面の動きに気付いた近くの者たちが騒ぎ始め、軽い恐慌状態に陥る。
去ろうとしていた衛兵が慌てたように戻ってくる。
トララードは焦る。このままでは先程以上の騒ぎになる。
(……まずい、これは非常にまずい)
トララードは一歩も動けないまま、覆面の、今にも一足飛びに駆け出していきそうな背中を、穴が開くほど見つめていた。焦燥と冷や汗。頭は恐怖と混乱で回る。
――『私はあなたの言うことを聞く。絶対にだ』
馬車で告げられた言葉がよぎる。
(止めなければ、そうだ、私が止めなければ)
事態に気づいた伯爵が焦った顔で、衛兵に指示を出している。
「……や、やめないか」
意を決して――かすれた、消え入りそうなトララードの声。
何の効力もないはずのそれに、だが覆面はぴたりと動きを止めた。
「はい」
振り向き、丁寧な返答を返し、肩の力をぬいて、手にもった武器を服の下に納める。
驚くほどすんなりと構えを解いた覆面は、まるで何事もなかったかのような足取りでトララードの元に戻る。青ざめたままの青年に優雅な一礼をして、その背後にそっと控えた。
場がざわめく。
衆人環視の中央で、誰よりも気弱な青年は、
「……大変、大変申し訳ありません、お騒がせしました。出直して――しばらく、控え室に戻らせていただきます」
屋敷の主に向けて頭を垂れ、そう言うのがやっとだった。
***
やってきたメイドから食事の載せられたワゴンを受け取り、トララードは部屋の扉を閉めた。
「食べるかい」
いそいそと近寄ってくる小柄な覆面に、先ほどすっかり食べ損ねた豪華な料理を適当に取り分けてやる。黒い外套の隙間から手袋を着けた手が生えて、メインディッシュの牛肉を執拗に指さす。
「……お好きなだけ、どうぞ」
トララードが盛り付け途中で手渡した皿の上に、他の料理を潰すようにでんと肉の塊が乗った。逆さまに引っかけられていたグラスがくるりと回り、見事なガラス細工のカラフェからなみなみと酒を注ぐ。
それらを持った覆面は窓際のカウチに陣取った。組んだ足の上に皿を載せ、一口飲んだグラスを肘掛けに置き、ナイフを手に取る。肉を切り分けてはせっせと口に運びながら、覆面はゆったりとした口調でトララードに言う。
「大成功だ、なぜそんなに浮かない顔をしている?」
「あれは、命じたとは言いがたいでしょう。不審すぎる。大根役者でももう少しマシな立ち回りをしますよ」
椅子を引いて腰掛け、深くうなだれるトララードを眺めつつ、覆面は気泡のたちのぼる透明なグラスをうまそうに飲んでから答えた。
「問題ない。あなたが急に強くなったわけではないのだから、自身では制御できない力にびびっていても、もて余していても、不自然ではない」
「……そういう、ものでしょうか」
「それに、真相はどうあれ、『トララード中佐に楯突くとコイツが現れる』のは事実」
「いつも現れるわけではないですから」
「いいや? 有名な先例がいるから、危険を冒してまでムチャするやつは少ないと思うよ。ほら、元帥殿の小飼いの彼のようだと思われれば儲けもの」
フォワルデがトゥイジの側にいつもぴったり付き従っていることは、上官たちの間では常識だ。数人係でも太刀打ちできる者がいないのではないか、と噂されるほど強いことも。
トララードは押し黙る。ためらうように顎を引き、押し殺したような声で問う。
「……それで、貴方は何がしたいんです」
「必要な時に手と頭を貸してくれればいいと、最初に言ったはずだけど」
「その必要なときというのは」
揚げたての香草をぱりぱりと噛みながら、覆面はさあねと肩をすくめた。
「まだ判らないよ。状況によりけり。とりあえず、そのときまで、あなたが生きていてくれさえすれば良い」
「……貴方には、笑われるかもしれませんが、」
いつになく固いトララードの言葉に覆面は顔をあげる。見据える目と、覆面の下の目が合う。
「騎士団に所属している以上、どれだけ武力がなくとも――私は騎士です。騎士としての自負がある。だからもし、生き抜くためだからといって、それを根底からくつがえすような行為には、協力しかね――」
覆面の下で、少女の口元がクイと笑んだ。
「いいね」
簡潔な肯定。
そこまで言ってくれるのであれば、こちらも話してもいいか、と窓を押し開ける。夜風にコートがなびく。月明かりを背にして、覆面が告げた。
「私の目的はただひとつ。騎士団の『正義』の復活だ」
「……な」
「あ、これ内密に」
覆面があまりに軽く言うものだから、トララードは思わず耳を疑った。
「……ほ、本当に?」
「まぁ、今のこの状態じゃ、冗談にしか聞こえないだろうけど」
「からかうのは……」
そろそろいいか、と息をつく。
「私があなたに危害を加える者ではない、というのは分かってくれた?」
「……え、ええ」
本腰入れて真面目な話をしよう、覆面はそう言って。
「ちょうどいいや、都合よく基地外にいることだし」
周囲をじっくりと見回してから、ひとつうなずく。
「紙とペン持ってる?」
唐突に言い出す覆面に、首を振って窓際の書机を指さす。
「そちらのものをお借りしては?」
「そうしよう」
椅子を引いて座ると、ペンをインクつぼにつけた。
「アカデミーにいたのなら知ってるよね」
そうぽつりと言い置いて、棚から取り出したのは丸い、曲げ板の器。蓋を開けてその中からテーブルへと転がしたのは――白黒混ざり合った、角細工のチェスの駒。
「王朝時代の国立銀行の、預金証書の表記法、知ってる?」
「……ええ」
アカデミーの敷地内に併設されている博物館の名物展示だ。
確か……とトララードは顎に指を置いて記憶をたぐりよせる。
確か、アルファベット全36文字を縦6字×横6字の正方形に並べたものを仮定し、表記の際には前後左右いずれかに一文字分ずらす。どの方向にずらすかは、その文字の終筆方向にしたがう――
羊皮紙の上にびっしりと書き綴られていく文字に目をやる。ややあって、しっかりとうなずいた。
「……なるほど」
北州騎士団本部の組織構成図だ。文字は上官諸氏のイニシャル。
「――白か黒か」
覆面が謳ったのは、有名な古典悲劇の一節。終章冒頭、断罪の句。
覆面は左手のペンを置き、右手の上で転がしていた黒の王像を紙の上端、『U』の位置に立てた。トララードはゆっくりと目を細めた。
『U』――すなわち、『T』の位置。
覆面は鼻歌交じりに次々と駒を置いていき、急に手を止めたかと思うと、ちらりと青年を見上げた。
「手伝ってくれるかい」
駒をいくつか、トララードのほうに転がした。
「武力はなくとも、情報戦ならば、期待してもいいのだろう?」
そう言ってにやにや微笑む覆面を前に――トララードは、黒の歩兵に手を伸ばした。
「私は貴方を……侮っていたようです」
トララードがそう言えば、肘掛けに頬杖をついて、だらしなく姿勢を崩していた覆面が、顔を上げて問いかける。
「怖い?」
「いえ……はい」
言葉を濁す正直な青年に、「ふふ」と覆面が笑う。
「ですが、頼もしい」
慌てて言い添える。




