26.階段事故
引き続き、下劣な描写があります。
螺旋状の階段の中央を下りてくるトゥイジ元帥を見つけ、若い騎士は上りかけていた足を止めて壁際に寄った。緊張気味に敬礼し、一礼して、すれ違う――
「おい」
低い声。
「……は、い」
若い騎士の顔からざっと血の気が引いた。蒼白な顔で立ち止まる。かたかたと膝が鳴っている。
トゥイジは前を向いたまま問うた。
「なぜフズルが死んだか知っているか」
「……」
緊張が極度に達した騎士は、答えられない。
その態度で、元帥は確信を深めた。
――この騎士は知っていると。見ていたと。
だから、元帥はことさら優しく、不気味なほどに穏やかな声で告げる。
「ああそうだ。――これも、事故だよな?」
ゆっくりと腕を伸ばして、動けない騎士を軽く、後方へを押し出した。
無力な体はされるがまま落下し――
ひどい着地音と、耳をつんざく悲鳴が、廊下に響き渡った。
近くにいたらしい騎士たちが廊下の先から現れて、慌てて駆け寄ろうとして――階段の上に元帥の姿を見つけて固まる。
軋んだ音を立てる欄干に腕を置いて、ピクリとも動かない階下の身体をしばらく満足そうに眺めていた元帥は、手元の懐中時計を見てから口を開く。
「フォワルデ」
「はい」
元帥の背後に控えていた刺青だらけの青年は、返事をするなり、足音ひとつ立てることなく階段を下りた。倒れ伏す体を素通りして、青い顔で立ち尽くす騎士たちにさっと剣をつきつける。
「……ひ」
その動きは滑らかすぎて、誰も警戒できなかった。突きつけられた当人でさえ。
階段の上から、欄干に頬杖をついた元帥が言った。
「何を見たか答えろ」
不遜な問いかけに、がたがたと若い騎士は震えだす。
元帥が急かすように靴音を鳴らした。刺青の青年が剣先を傾け、ぴたりと頬に貼り付ける。ひっと騎士の悲鳴が漏れる。
「……か、階段から」
「から?」
「足を……踏み外して、落ちました」
「上出来だ」
元帥は不気味に笑うと、悠然と歩き去っていった。剣を下ろした側近の青年は、顔色一つ変えないまま、落ち着いた足取りでそれを追っていく。
二人の姿が消えたところで、階段下はにわかに動き出し、騒々しくなる。解放された騎士は呆然としたまま両方の膝をつく。その頬をつうと涙が落ちた。左右の仲間が慌てて声をかける。
「……殺人容疑、脅迫、および証言隠蔽」
近くの物置の扉が音もなく開いて――出てきたキューナが、人知れず呟く。
手早く止血を始めた仲間たちの背後から、生死に影響がないことを把握してそっと歩き去ろうして、足を止めた。
そこに――
オオリが真っ青な顔でしゃがみこんでいた。聞き取りにくいうわごとを、ぶつぶつと呪文のように呟いている。
「今だけだよな、ここだけだよな、この先ずっとこうじゃないよな、もっと……ほら……なあ……」
両腕で頭を押さえてうつむいている。ぱさぱさの頭髪はひどく乱れ、かきむしりすぎて頭皮から出血したのか、鮮血の細い筋が手の甲を流れている。
キューナは声をかけようとして、上げた手をそっと下ろした。
気休めの言葉で助けられるようなレベルではとうにない。前線からの帰投後すぐに隔離病棟に直行する騎士の様子に、とてもよく似ている。
騒ぎに気づいて集まり始めた騎士たちの中を、すり抜けるように、その場を離れる。怒りに脳が煮え立っているのを、決して誰にも悟られないように。噛み締めすぎた奥歯から小さな破片が口腔内に散らばって、その不愉快さにそっと眉をしかめた。
北州はスカラコット国の中でもとりわけ広大で、未開拓の土地や貧しい地域だってまだまだ多い。実際は、国王が把握している人民の数の、ゆうに三倍がこの国で生活しているという話もある。未記録の村や集落も、数え切れないほど残されているという。
ううん、そんな大きな話じゃない。
この基地だけでも、充分に広大な敷地だ。そこに閉じ込められた、おびただしい数の、血気さかんな集団。
そりゃ、まとめきれないのはわかる。きちんと統括するのには、統一した意思と時間と資材と知識と、とにかく色んなものが足りていない。
だけど。
「――あああああああ!!!」
思考をぶち破る、突然の絶叫。
振り返った先には、うつろな目と青い顔で不気味に笑うオオリがいた。何事か叫ぶなり、俊敏に剣を抜いて手首を返し――剣先は自身の腹部に向く。
キューナは脊髄反射的に駆け戻り、手を伸ばしていた。手の甲の付け根でなぎ払った剣がキューナの後方に飛ぶ。それが床に落下した金属音と同時に、それよりも重く鈍い音が、だぁん、とホール中に響き渡る。半狂乱で暴れようと跳ね上がる薄い両肩を、膝と肘で押さえつけて、全体重でのしかかる。それでもキューナの重さでは何度か体が浮いて振り落とされそうになる。
「ソイさん縄持ってきて!」
視界の端に捉えた見知った顔に叫べば、班長は弾かれたように駆け出していく。舌を出したまま閉じそうになる口を、瞬間的に抜いた剣の柄を突っ込んでこじ開けて、むせこんで大きく開いたその口にすかさずコートの裾をまとめて押し込む。途端、オオリは糸が切れたように動かなくなった。ゆっくりと細い息を吐いたキューナの、額からこめかみに、つうと汗の筋が伝う。
間一髪。
間に合いますように、と祈ることしかできない現状をただ嘆いていても意味はない。
***
気配はなかった。
まったく唐突に、執務室にいたソニカの首筋に、
「動くな」
ひたりと押し当てられる、冷たい感触。そしてすぐ耳元からくぐもった声が告げた。
「暗殺計画、中止にしろ」
「……な」
とっさに振り向きそうになるソニカを、首筋の刃が諌めた。わずかな痛みとともに、鎖骨を血液の流れが撫でて流れていく。鋭利な刃物は的確な位置にぴたりと固定されている。
ソニカは唇を噛み、浅くなる呼吸の合間に問うた。
「……誰に雇われた」
背後の存在は答えない。どころか一切の物音を立てない。足音だけじゃない、呼吸音すら聞こえない。それに気づいて――
(こいつは、何だ)
ぞわり、と――遅まきながらそこでようやく、女は自分のおかれた立場を正確に理解した。
そもそも、この計画が騎士の誰かに知られていること事態がソニカの想定外である。とある貴族から、金品と交換に請け負った依頼だ。全てのやりとりは基地外で行っている。
それなのに、どうして。
「……わかった、中止する」
ようやく口にした言葉はみっともなくひきつっていた。
首筋の感触が消える。少し離れたところで、かちんと刃を鞘に収める音がした。
「全て見ているぞ」
最後にそんな脅しの言葉を残して、背後の気配は霧散するようにいなくなった。それが分かったのに――それから数分間、ソニカはしばらくその場から動けなかった。
窓の隙間から入ってきた夜風が、執務室のカーテンを不気味に揺らす。




