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Hard Days' Knights  作者: 里崎
二週目編
26/73

25.牢屋番と死体処理

残酷な描写、下劣な描写があります。人が死にます。

無理だと思われた時点で閲覧を控えるようお願いします。


翌朝。

ログネルは、首のうしろ辺りを執拗にさするオオリに目ざとく気づいた。

「……ねぇオオリ、まさか、昨日あのあと……」

宴のあと、数年上の先輩がたに絡まれているところまでは見た。オオリは首に当てていた手を止め、顔をしかめてログネルを睨んだ。

「昨日、寝違えて」

「なんだ、心配したじゃないか」

肩をなでおろすログネルに、オオリは乾いた笑いで応じた。

「はは、相変わらず嘘くせぇな」

「僕は本気で言ってるのに」

へらへら笑いながらオオリはさっさと去っていく。

「ああもう可愛くない」

拗ねるログネル。宿舎から出てきたジュオが不機嫌そうにログネルを呼んだ。

「あんま弱ぇ奴ら構ってっと、お前も死ぬぞ――ヘルゲルみてぇに」

「そ、そんなこと言っちゃだめだよ!」

アサトが慌てる。ログネルは寂しそうに苦笑しただけだった。


***


「お前ら、今日は牢屋番だ」

畑仕事の道具を農具庫から取り出していたキューナたちの元に、班長がやってきてそう言った。班長の言葉に三人は顔を見合わせて、イグヤが聞いた。

「あのー、畑は?」

「なくなるわけないだろが。それが終わってから来い」

ひひっとオオリが下卑た笑みをうかべた。

「気をつけろよー? 若い女が行くとうるせぇぜ、あいつら」

「あいつら?」

首を傾げる三人を置いて、

「いくぞ」

班長がさっさと畑のほうに向かおうとするのを、副班長が止めた。

「待て、ローグがいない」

「え、あれ、さっきまでいたのに」

アサトがおろおろと周囲を見回す。班長が大げさに嘆息し。

「めんどくせぇ。先行ってっから、一年、牢屋番の前にアイツ見つけて畑まで来るように言っとけ」

そう言って、三人をおいて去っていた。

「っつったって、どこ探せばいいんだよ」とヤサルタ。

「適当に歩き回るか」とイグヤ。

三人でばらばらに探すことにして歩き出す。先ほどログネルがそっと班から離れて歩き去るところを見ていたキューナは、彼が去った方角に向かい、ほどなくその後ろ姿を見つけた。

「ログネルさん、班長が畑で呼んでます」

返事はない。彼は振り返らない。

キューナは横まで歩いていって、ログネルの横に並んだ。表情のない横顔が見つめる先に建っているのは、朽ちかけた板材と欠けた石を積んでできた、酷く簡素な小屋だ。風が吹くたび、こもったような腐臭が周囲にじわりと広がる。

(ここは……)

口をつぐんで小屋を見上げる。キューナには察しがついたけど、ログネルはわざわざ言葉にして教えてくれた。

「俺たちが行き着くかもしれない……ところだよ」

戦場で何度もかいだ覚えのある、乾ききった血肉のにおい。閉ざされた木戸を、キューナとログネルはしばらく無言で眺めた。キューナの黒い瞳が、隣に立つ青年の真剣な横顔を見上げる。

「ご兄弟、でしたっけ」

小さな問いに、ログネルがゆっくりと息を吸った。隊服のジャケットの下で、胸郭が広がるのが見える。

「命日、なんだ」

泣きそうなか細い声で――なぜだか、懺悔のようにそう呟いた。

「……ほとんど、俺自身の」

その沈痛な呟きにどんな意味があるのか、キューナには分からなかったが。

「……エル」

掠れた声でそう呟いたログネルは目を閉じて、一筋の涙をこぼした。

朝の、冷気と湿り気を含んだ風が流れていく。ログネルが鼻をすする音と、くりかえされる深呼吸の音を、キューナはしばらく黙って聞いていた。


しばらくそうしていたあと。

「やば、何時? 行かないとね」

再び顔を上げたログネルはいつもの調子で言った。

「ああ、これを忘れるところだった」

立ち去ろうとして足を止め、青年は地面に片膝を付いて、手に持っていた二輪の花を小屋の前に置いた。黄色の小さい花と、ガクから切り取られた青い花弁の花。

それから、キューナにいつもの笑顔を向ける。

「呼びにきてくれてありがとう。さ、行こう」


畑に向かうログネルを見送り、イグヤとヤサルタと合流してから、キューナはログネルに位置を教えてもらった牢屋に向かっていた。その途中で、別の班の一年目たちとすれ違う。

「あの班、今日死体処理らしーぜ」

今朝ウルが言ってた、とヤサルタがなぜか得意げに言う。

「ふーん……」

先ほどの小屋のほうに向かっていく彼らに、キューナは不安そうな目を向けた。

「おお、ここか」

三人は立ち止まって、石造りの堅牢そうな建物を見上げる。

「来たか。牢屋番の説明をするから――」

建物の影から顔をだした長身の衛兵は、言いかけて固まった。微動だにしない大柄の騎士をイグヤとヤサルタが気味悪そうに見上げる。表情の乏しい彼の驚きは、何度か会話したキューナにしかわからなかったらしい。

その呆けた間抜けで腑抜けた顔に、キューナはつい吹き出してしまいそうになって、すんでのところでかろうじて堪えた。けれど反射的に顔を背けてしまったのと唇の先が震えてしまったので、それを見て何事かを察知したらしい門番は、恨みがましいジト目でキューナを見た。一方のキューナは、新人ではないと言ったこともないし、嘘の階級を教えたわけでもないので、ちっとも悪びれない。まさかこんなところでバレるとは思わなかったけど、これだってキューナのせいじゃない、偶然だ。……と思うことにする。

「あの?」

耐えかねたイグヤが門番に声をかけると、門番はああと我に返り、

「ついてこい」

と短く言って、目の前の扉を大きく開けた。


門番が手に持つランプの明かりが揺らめく中、薄暗い廊下をゆっくりと進む。左右から発される下劣な笑いが石壁にわんわんと反響する。鉄格子の間から伸ばされる、無数の腕、腕、腕。キューナの頬に生臭い息がかかる。異様な湿度に汗がにじむ。

「お、女だ」

「女だ」

ざわめきは伝染してどんどん大きくなる。オオリさんが言ってたのはこれか、とキューナは小さく息を吐いた。

(髪切っといてよかった)

あのままの長さだったら、引っぱられたらかなり痛かった。ちらと見れば、代わりにイグヤが、ひとつにくくった白髪を遠慮なく引っぱられていた。

「ちっ、なんだ、こいつは男か」

鉄格子まで引き寄せられてべたべたと胸板を触られ、顔を真っ赤にしてもがいている。

「このっ、てめ、離せ!」

門番に指示されて、ようやく事態に気づいたヤサルタが慌ててイグヤの救助に向かう。キューナも向かおうとして門番に止められた。その背後から、

「な、なぁ聞いてくれよ、俺ほんとになにもしてないんだ、信じてくれよおお」

笑って騒ぐ男の間に、必死な訴えをして泣きつく声が混じっていることに気づく。キューナは周囲を見回して、聞こえる言葉を可能な限り聞き取ることに努めた。

半狂乱の、死に者狂いの悲鳴に混じり、冤罪を主張する言葉が多数。理不尽な徴税や搾取への不平不満。

キューナは黙って門番を見上げる。門番の表情は変わらない。

これが、この空間の日常なのだと、理解した。


再び外に出てきた三人に、扉を閉めながら門番が聞いた。

「どうだった」

「じ、地獄っす……」

うずくまるヤサルタが息も絶え絶えに答えた。門番がうなずく。

「だから交代制になった。発狂者が出るから」

三人は青い顔を見合わせた。

「さて、やることは――」

ひときわ大きな悲鳴と物音に、いち早く反応したのは門番だった。

キューナに向かって大きな手が伸びてくる。肩を掴んで持ち上げられたキューナの両足が、ぶらんと宙に浮く。

「何す……!」

ヤサルタが駆け寄ってくるのを簡単に制して、門番はキューナを、脇に設えてある石蔵の小部屋に放り込んだ。重い扉を閉め、手早く鍵を下ろす。キューナの視界はすぐに暗闇に包まれた。中で暴れてみても音はあまり響かない。外の音も一切聞こえない。

ごごん、と左隣から鈍い大きな音が響く。それと同じ方向から、ヤサルタとイグヤのわめき声がくぐもって聞こえる。どうやら二人も、隣にあった少し大きめな部屋に同じように閉じ込められたらしい。

キューナは、カフスの金具を外してシャツの袖を折り返しを伸ばし、素手を覆った。その手で扉の蝶番に触れて形状を確かめる。

体を丸めて、狭いせいで天井についていた片足を正面の扉に当てる。扉を右に押して位置をずらし、かろうじてできた細い隙間から外を覗き見る。

「……」

嫌そうな顔をした門番と目が合ったので、笑っておいた。眉間のしわが更に深まるが何か言ってくることもないので、問題はないのだろうと勝手に解釈する。

「おい、見張りの騎士はどうした?」

隙間から、門番ではない声がして、門番がこちらに背を向けた。敬礼のポーズをとった肘の先が見える。

「帰しました。作業は終わっています」

「んだよ。まあいい。ここを開けろ」

大尉、と門番が呼ぶ。名前は分からないが階級は分かった。彼の後ろに続く数人の顔が見えて、キューナはあっと声をあげそうになった。ヤスラいわく、『死体処理』に向かった面々のはずだ。

「なんだ、俺の言うことが聞けないのか?!」

激昂した大尉に、門番の返答の代わりに、牢に通じる扉が開く音がした。視界にいた全員が扉のほうに向かっていき、見えなくなる。

キューナは首をひねり隙間のほうに右耳を向けて、今度は聞き耳を立てた。大尉の足音が牢の中にかつかつと響く。身分のあるものが入ってきたことに気づいてか、先ほどよりも大声で収容者たちがわめき始めた。

「出して欲しいか?」

大尉の、からかうような、見下したような提案。鉄格子が激しく鳴って、男たちが一斉に喚き始めた。

「出してくれ!」

「俺が先だ俺が!」

瞬く間に乱闘騒ぎに発展した牢内で、大尉が笑い声を上げて指示を出す。

「いいだろう、出してやれ。牢を開けろ!」

大尉が近くにいた若い騎士を呼び、鍵束が揺れる金属音が響いた。さび付いた蝶番が軋んでけたたましい音を立てる。

「はっはー、悪いなお前」

どうやら先陣を切って牢を出たらしい、得意げな男の声は不自然に途切れ――


ごとん、と鈍い音がした。


少し遅れて、濃密な血液のにおいがキューナの元にまで届く。

あれだけうるさかった喧騒が、不気味なほど一気に静まる。大量の荒い息遣い。

殺したのだ、とキューナはすぐに悟った。

大尉の値踏みするような声。

「さて、次はどいつが出てくる?」

返答のない牢内に焦れてか、がん、と鉄格子を蹴る音。

「おら、早くしないか! 俺は忙しいんだ!」

なにか重いものを蹴り飛ばす、鈍い音。

「お前らの仕事はなんだ、『片付け』だと、『死体処理』だと言ったろう?! アァ、とっとと剣を抜け! 明日にはまた次の収容者が来るからな!」

ようやく意味を理解した若い騎士たちから、短い悲鳴がいくつか上がった。

「何してんだ! 人を斬れない人間が、騎士になどなれるわけがなかろう」

―-違う!! ふざけるな!

叫びだしそうになる。尿と吐瀉物のにおい。見えなくても分かる恐慌状態が、壁一枚隔てた先で起きている。

キューナの両腕は、目に見えるほどにがたがたと震えていた。

恐怖からではない。これは、怒りだ。ここは騎士団の基地内のはずなのに。

冷たい壁に額を当てて俯き、掠れた声で呟く。

「どうして、こんな理不尽が……まかりとおるの……!」

「――何の騒ぎだ」

聞き覚えのある声に、キューナは更に背を丸めて隙間に目を近づけさっきよりも視野を広げた。

門番が牢の出入り口から出てきた。草を踏みしめて近づいてくる足音の方角に、ぱっと体を向けて敬礼の姿勢をとる。同じように牢から飛び出してきた大尉は、相手を見て、ああ、と気のない返事をした。

「お疲れさまですリュデ少将。ご心配なく、特に問題はありませんよ」

「……そうか」

ただの通りすがりだったらしいリュデは、その返答を聞くなりすぐに歩き去っていく。大尉は牢の中に戻っていく。門だけがその場に残る。

リュデが遠ざかる足音を聞きながら、キューナが考えをまとめたのは、そのわずか数十秒後。

脱臼寸前まで身をよじってコートの前あわせを開き、内ポケットにしまっていためがねを取り出す。ペヘルが予備として大量に持っていたものを一個、買い取っておいたものだ。手早く身につけて、後ろ髪をひもでくくり、コートの前あわせを入れ替える。

それから、腰の剣に手を伸ばし――

「抜けない、か」

この部屋の狭さでは抜刀できない。諦めてナイフを取り出す。

目の前の隙間にナイフの刃先を突っ込んで、外側にあるかんぬきを持ち上げた。両足で扉を押し開ける。錆びた金属の軋む音に門番が振り向いたが、開いた扉と変装姿のキューナを見ても何も言わない。

キューナは彼に駆け寄って敬礼し、ごく私的な用件で今日はこっそり本部を留守にしている少佐の名を告げる。

「少佐より伝令です。こちらに大尉はいらっしゃいますか」

「……」

突然伝令のふりを始めた知り合いの武官に、衛兵は一瞬あっけにとられてキューナを見下ろす。

「うわあああ!」

牢の中から聞こえてきた、ひときわ大きな悲鳴にはっとなった衛兵は、焦りをにじませながら、小さな声で「なにかする気か」とキューナに聞いた。

「うん。アテが外れなければね」

キューナは冷静そうな声を作って、小さく答える。

決意を固めた衛兵は、素早く牢入口の扉に寄り、握りこぶしで叩く。

「大尉! 伝令です!」

「なんだ、いいときに」

「少佐がお呼びです」

大尉は舌打ちをして扉を開けさせ、衛兵とキューナを押しのけるようにして本棟に向かう。それを見送りつつ、キューナはブーツの紐を結びなおす。

「手伝うことは」

頭上から門番の声。キューナの階級を知ったせいか、幾分か不安の混じる声に、キューナは立ち上がって門番の胸を軽く叩く。

「ここの現状維持。見張っといて」

大尉の姿が完全に見えなくなったところで、キューナは別の方向に駆け出した。


急がば回れ、だ。


一度、宿舎の自室に寄ってから、馬屋の裏手に向かう。倉庫の角を曲がり、なにやら壁に向かって作業中の騎士たちの後ろを駆け抜けて――

「いたいた」

今まさに、簡素な演習用の的めがけて振るわれようとしていた剣を、横から剣を割り込ませて軽く弾いた。

キン、と打ち鳴らされた高めの金属音。

リュデは目の前に飛び込んできた少女を見た。少女は黒い瞳を楽しげに細め、髪をくくっていたひもを解いた。


挿絵(By みてみん)


途端に、少女の矢継ぎ早な攻撃が始まる。少女の勝ち気な太刀筋に圧されて、自然と守備を徹底せざるをえなくなったリュデの足が数歩下がる。

がちん。

飾り気のない鍔同士がぶつかり合って、動きが止まった。拮抗状態で――再び目が合う。

キューナは笑いかけた。リュデは平然と見返す。

「もったいないですよね、こんな人気(ひとけ)のないところで。一人二人、貴方の剣を見て盗もうと考える子が出てきたっていいと思いません?」

返事はない。

まぁ今日は好都合だけど、と言い置いて、リュデの剣を弾く。踏み込んできたリュデの一閃をかわし、足払いをかけ――しかし既にリュデの重心はもう一方の足に移っていて、

「おっと」

上段から振り下ろされる剣を、片手で身体を後転させて()ける。腹筋の力でバネ仕掛けのように立ち上がり、突きのような一撃をいなす。

獣のようにぐっと屈んで懐に飛び込もうとすると、横からの中段の剣に阻まれる。その刃の側面を滑らせるように剣を流し――キューナの剣が一瞬で青年の喉元に肉薄する。リュデの青い髪が数本飛んだ。かろうじて避けた青年が、定石にない太刀筋に目を見開いていた。

青年の剣が反撃に向かおうとするのを察知して、キューナはそのまま数歩大きく飛びのいて立ち止まり、広げた手のひらをリュデに向けた。

「終わり終わり」

リュデが剣を下ろしたのと同時に、キューナは剣を収めた。

「ふー疲れたー」

リュデも剣を収め、それから簡潔に問うた。

「用件は」

「査定書類、もう書きました? よかったら手伝いましょうか」

唐突な訪問と不自然な申し出に、リュデは眉を寄せる。

「……何か、聞いたか」

「昨日は、私の班がごみ処理だったので」

キューナはコートの下から汚れた紙束を取り出してリュデに手渡した。

「すみません、気づいたときには燃えちゃって、これだけしか持ち出せなかったんですけど」

昨日焼却炉からかすめとった紙束だ。……一枚目を自分で破り捨てたことは言わないでおく。

リュデはそれを受け取り、ぱらぱらとめくる。見間違えるはずもない自分の筆跡で、先日書いたばかりの文字が並ぶ。

先日、執務室から紛失した、八割がた書きあがっていた査定書類だ。

「……何の真似ですか」

リュデの小さな呟きに、キューナは笑顔を返す。

「意味がないと行動してくれないリュデくんに、恩を売っておこうと思って」

 表情の変わらないリュデの顔が、ちょっと不満の色を滲ませたようにキューナには見えた。

「……先日、上官宿舎への侵入および没収品窃盗、見逃したはずですが」

「あれはリュデくんが、処罰とか、面倒だっただけでしょう?」

 街に出ない上官なんて、衛兵を除けばリュデくんくらいものだ。

「お礼はあれでいいですよ。私、今日、牢屋番なんですけど……」

リュデの両目が横に滑って、キューナが飛び込んできた方角――牢屋の方角を向く。露骨に嫌そうな顔になったリュデに「あ、分かりました? 助かります」と目を輝かせてキューナは以降の説明を省いた。

「……面倒ごとはごめんです」

「私もです」

だから貴方の元に来たんですよ、と言外に含める。

「これきりですよ」

わざと返事をしないキューナに、リュデは諦め顔を浮かべ、一歩を踏み出した。


***


本棟から戻ってきた大尉に、待っていたリュデが声をかけた。

「大尉」

「おや、リュデ少将」

リュデが大尉に向かっていくのを見て、キューナは門番の横を駆け抜け、イグヤとヤサルタが閉じ込められている扉を開けた。さしこむ光に二人がまぶしそうに目を細める。キューナは二人に手を差し伸べて引っ張り出した。

「お前は無事なのか?」

「うん。このとおり」

「で、何が起きたんだ?」

ヤサルタの質問に、

「うん、今、あれ」

キューナが指さした先で、リュデが大尉と向かい合った。

リュデが言う。

「そろそろ、やめておいたらどうだ。中央の視察官にでも見られたら面倒なことになる」

 大尉は小馬鹿にしたように笑うだけ。

「貴方が心配とは珍しい」

 リュデが傍観主義なことを知っている大尉は、身分差を忘れて尊大に告げた。

「中央が、お飾りの成り上がり騎士を、たった一人でよこしてくる。魂胆は貴方も分かっているでしょう? それなりの平和を見せてやって、そいつが北州騎士団を統括しましたっつう、輝かしい功績をつくってやりゃあいい。あちらさんだって余計なことは言わないさ」

 絶望的な顔をする若手たち。得意げな顔をする大尉に、表情を変えないリュデとキューナ。

リュデは剣呑な目を向け、再度、念押しのように繰り返した。

「面倒ごとはごめんだ、と言っている」

リュデの手が剣の柄に伸びたのを見て、ようやく大尉は焦りをにじませて早口で言った。

「いえ、だからと言って貴方に反抗するつもりはないですがね?」

軽薄な愛想笑いを浮かべ、ぱっと両手を挙げて降参のポーズを作ってみせると、「仕事に戻ります」とそそくさと去っていった。

数秒間、その場に立ち尽くしていたリュデは、何も言うことなく本棟に戻っていった。


大尉についていた騎士たちが青い顔をして壁際にしゃがみこんでいるのを、通りすがりの荷運びの騎士が不審そうな顔で、ちらちらと見た。

「今日、あいつら死体処理」

隣の騎士が言うと、ああ、と納得したような声をあげて通り過ぎた。

胃の中のものを全て吐いた少年が、つうと涙を流しながら青い顔で呟いた。

「……中央の人間が来さえすれば、何かが変わるって、信じてた」

見えたはずの光明はすぐに絶たれた。

うずくまって泣き出す者。浅い呼吸で呆然と天をあおぐもの。

キューナは励ますように微笑んで、皆に言った。

「大丈夫。中央は決して、北を見捨てない」

全員がうさんくさそうにキューナを見た。

イグヤが諦めのため息をつく。

「お前ね、今のこの状況がなによりの証拠だろうよ」

「まぁまぁ。ルコックドは俺たちを励ましてくれてるんだからさ」

とりなすように別の騎士が間に入る。

しれっと笑うキューナ。


***


その夜遅く。場所は本棟、リュデの執務室。

開けっ放しの扉の横を、軽くノックして音を鳴らす。リュデはペンを止めて書類から顔を上げた。暗い廊下の前に、戸口に寄りかかった黒髪の少女が笑顔でたたずんでいる。

「午後の予定が変わったって聞きました。それ、明日までですっけ?」

からかうような響きの問いかけを無視して、リュデは手元の作業に意識を戻す。少女は入室の挨拶をすると、返事を待たずに部屋の中に入ってくる。

「今できてる分は?」

キューナの手元で、ぱちん、とペンのキャップを開ける音が鳴る。持参したらしいそれをくるりと回し、壁際の椅子を引き寄せるとリュデの対面に座った。

「貸して」

既に書きあがった分をかすめとると、ぱらぱらとめくって目を通す。リュデは少女を睨んだ。

「邪魔だ。出て行け」

「手伝います。間に合わせます」

有無を言わさない断言の返答。明らかに明朝までに終わりそうもない白紙の山から一枚を引き抜いたリュデは、不服そうな目をして口をわずかに開いたが、何も言うことなくすぐに閉ざした。

「延長申請は? まだか。じゃあこれは私が書きますね」

キューナはそう言って白紙を一枚抜き出すなり、傍らに置かれている分厚い目録を開きもせずにものすごい速さでペンを走らせる。本来、目録と照らし合わせながら書く書類がぶっとんだペースで埋められていく。それを不安そうに見たリュデはペンを置いた。キューナの書いている書類の一番上に記載された項目を見ながら目録を繰った。三つめまで調べ終えて、全てきちんと書かれていることを確認したところで目録を閉じて、自分の作業に戻る。

キューナが言った。

「私、図録いらないから、資料だけこっちに置いといて」

そう言ってキューナが次の紙に手を伸ばしたところで、ドン、と机が揺れた。顔を上げたキューナの前に、押し寄せるように積み上げられた書類と文献の山。驚きに、おもわずキューナの手が止まった。

「……そんなになくても通りますよ?」

答えるリュデの表情は変わらない。

「万全を期した」

「なるほど」

ペンを置いたキューナはその山を手早く二つに仕分けて、高い山の頂上をぽんと叩いた。

「こっちは片付けていいです」

動こうとしないリュデに、少女が綺麗に微笑みかける。

「大丈夫ですよ、今の査定士は全員知り合いなので、仕事のやり方も把握してます。個人の好き嫌いはありますけど、略式だからって通過させない人はいないですし。正常句で間に合わないのと、略式で最後まで書き上げるのだったら……」

「何も言っていない」

キューナの説明を遮ったリュデが、高い山を一気に持ち上げ、書棚に向かう。

「はぁい」

キューナは再びペンをとった。


それから黙々と書くこと数十分。先ほどまでリュデが一人で作業していたペースの数倍で進んでいく。リュデが大体の進捗予定を立てたところで、

「でー、こっからここまでは中将に一筆書いてもらえば、いらないから」

浮かれた声をあげたキューナが、白紙の束の中腹をからごっそりと抜いて、脇にどかす。

「……」

「ん? 何?」

眉をしかめたままのリュデは、黙って首を振り席を立った。そこにキューナが一枚の紙を差し出す。キューナの指が末尾の枠を指さす。

「ここに中将のサインね。フルネームで。もう寝ちゃってない?」

「晩酌だろう」

部屋を去るリュデを見送り、大きく伸びをしたキューナは、「よし」と小さな気合いを入れてから新しい書類に手を伸ばした。

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