20.呼び出し(中編)
翌朝。
思っていたよりも早く、キューナは昨晩の顛末を聞くこととなった。
「なお、本日フズル少尉は体調不良により欠席だ」
隊列に紛れて指示を聞きつつ、キューナは人知れず呟く。
「……まぁ、あれだけやっとけば、かっこ悪いのと報復が怖いのとで、うかつに誰かに言えやしないでしょ」
見栄っ張りで高慢なフズル少尉の性格から判断して、少なくとも顔面の怪我が治るまでは出てこないはず。
他の上官にばれたら格好の踏み台に利用され、出世街道から外されるだけだ。なかなかに熾烈な競争社会。フズル少尉に、あんなことを相談できるような心を許せる仲間や部下がいないことは把握済み。
指示通りに移動を開始した群衆の中で、朝仕事のときには会えなかった二人が寄ってきて、キューナの頭部をじろじろと見た。
イグヤが言う。
「髪、どうした?」
「邪魔だから切った」
努めて軽い調子で答えれば、
「あそ」
不必要に心配されることもなく。
「昼は暑いもんな」
「お前はムダに動き回りすぎなんだよ」
昨晩の甲冑整備から筋肉痛が抜けないらしいイグヤが、不機嫌そうに低い声を出して横目でヤサルタを睨む。
***
演習中に上官たちが連れ立って歩いてくる。
何かの視察か外出かな、と横目で見ていると、同じく演習中の他の班の中から、数人がそちらに駆け寄っていく。キューナたちの近くまで進んできた集団の先頭で、
「G班、キューナ=ルコックド!」
見知らぬ上官に名前を呼ばれた。
「はい」
キューナは素振りをやめて駆け寄った。
ふむ、と上官たちがキューナをじろじろ眺めてからひとつうなずいて、
「仕事だ、ついてこい」
そう言ってまた歩き出した。
付いていくと、正門の前に馬車が数台止まっていた。「乗れ」といわれて、若手たちが感激したような声をあげる。キューナが見たところ、そんなに上等な馬車でもない。北州以外では市民がちょっとした遠出に使う一頭立ての軽量馬車だな、と一瞥して、タラップの用意すらされない客席に片手で飛び乗る。床板を軋ませて進み、一番隅の席を確保した。
全員が乗り込むと、馬車はすぐに動き出した。
本任務の隊長を務める者だ、と宣言した大佐が、馬の足音と砂利の音に混ざって説明を始める。
「――ドックラー=ファステルハインツ氏、知っているな。北州から中央への使節団副団長殿だ。本日は彼の邸宅の警護だ。失礼のないよう、班割りではなく特別編成で行う」
キューナは黙って周囲を見回した。どちらかと言えば、腕が立ちそうというよりも、従順そうな雰囲気の顔立ちが多い。なるほど、お偉い政治家の前でいつもの脅しじみた命令を出すわけにはいかないからだろう。
「ドックラー氏は川の上流にある田舎町の別荘に滞在される。専属の護衛が乗った中央からの汽車が遅れているから、それまでの護衛を担当する。本日の夕刻には到着するそうだ。それでは、割り振りだが――」
すし詰めの車内で、緊張に固まっている若い騎士たちの隅っこで最低限の指示を聞いた後、キューナは一人こっそり仮眠にいそしんだ。
***
延々と広がる緑を前に、数時間の直立不動。予定時刻はとっくに過ぎている。隊長が屋敷に引っ込んだタイミングで、数人がぼやき始める。
あの汽車が数時間単位でしょっちゅう遅延するものだと知っているのは、上官である隊長以下数名とキューナくらいだから、若者たちが不思議に思うのも仕方ない。
棒のようになった足をこっそり交互に伸ばし始めたころで、『警備』は唐突に終わった。
豪華な四頭立ての馬車が、三台連なって丘を登ってきた。列の中から、おお、と思わず声が漏れた。
敬礼のポーズでずらりと並ぶ騎士たちの列の間を通り過ぎた馬車は、砂塵を巻き上げて開いたばかりの門の中へと向かう。中央の一台がキューナの前を通り過ぎたとき――荷車の窓にかかる紫紺のカーテンが僅かに揺れて、鶯色の瞳と目が合ったような気がした。
「……」
敬礼の形にした手の下で黒い瞳を細める。
馬車の周囲を完全に包囲して進む、旅装の、見るからに屈強な男たちを、隊長さえもが顔をひきつらせて見送る。屋敷の奥からメイドが一人、入れ違いに駆けてきた。可愛らしい靴音を立てて、隊長の前できちんと立ち止まって、物怖じしない一礼。スカートのすそがふわりと広がった。
「だんな様がお呼びです。皆様、こちらへどうぞ」
***
騎士たちが通されたのは、吹き抜けのある、とんでもなく広い寝室。
「ご苦労だった」
カウチに腰かけ足を組んだドックラーは葉巻をくゆらせ、ちっともそう思っていないような、尊大な態度で労いの言葉を口にした。
「いえ、とんでもございません」
媚びる笑みを全面に浮かべる隊長の手に、じゃらりと法外な報酬を手渡し、
「帰っていいよ」
ひらりとこともなげに手を振る。
「は。失礼しま――」
「あぁそこのキミ、」
指輪を嵌めた太い指が隊列を指さす。帰ろうとしていた騎士たちが一斉に振り向く。即座に青ざめた隊長が低姿勢で歩み寄り、おずおずと言う。
「あの、何か……」
「キミじゃないよ、そこの子だ。そう、キミ」
言われるまま、キューナは一歩踏み出る。
男は、何かを検分するようにキューナの全身をゆっくりと見回して。
「うん、キミだけ残りなさい」
「はい」
同情の目を向けつつ、キューナ以外の騎士が退室していく。
隊長が寄ってくる。
「おい、くれぐれも失礼のないようにな」
「はい」
すれ違いざま、肩に手を置き耳打ちされる。
「いいか。逃げ帰ってきたって、お前の居場所はないからな」
「はい」
背後で扉が閉まった。
キューナは言った。
「……やっぱ、バレてた?」
ドックラーはキューナをじっと見ながら、手元の皿に葉巻を置いた。悪趣味な雰囲気作りに一役買っていた、似合わない指輪を全て外してサイドテーブルに転がす。
「当たり前でしょう。顔の広い貴女には向かない仕事ですね。ウォルンフォラドがついていながら……何をしてるんです」
「あ、ウォンちゃんには何も言ってないよ」
「でしょうね。あいつの策には見えない。ですが、北州騎士団行き自体は大将の指示でしょう?」
「うん、そう。なんか聞いてた?」
「視察担当の人選をしなきゃならん、という愚痴だけです。そうか、貴女になりましたか」
言いながら袖のカフスを外して乱雑に捲り上げる。椅子から立ち上がると、髪をくくる紐を解き、上等な革のベストを脱いで、襟元のフリルを外す。シャツのボタンを変な位置から外すと、腹部からクッションのようなものを取り出した。さっきまでどんと鎮座していた二段腹は見事に消えうせる。
「あれ、いいのそれ外しちゃって」
「貴女が居る部屋で着けている必要はないでしょう」
ふー、と長く息を吐き出して、ようやくくつろげる格好になったらしいドックラーはまた椅子に座り込んだ。
「でも、私いまこれしか持ってないし」
キューナは腰に下げた安物の剣の鞘をぽんとたたく。その薄汚れた状態の悪い剣に、ドックラーはちょっと顔をしかめて、近くの壁にかけられていた上等な大剣を持ち上げる。
「持っていきなさい。返さなくていいから」
差し出された、どう見ても一級品の剣を、キューナは笑って押し返した。
「北の物資不足、知ってるよね。こんな良いもの持ってると、上官に没収されちゃうな」
ドックラーはため息をついて剣を戻し、戸棚から取り出したものをキューナに放り投げた。
「これくらいならどこかに隠せるでしょう」
暗殺用の隠しナイフだった。
「珍しいもの持ってるね」
「護身用ですよ。屋敷中に仕込んであります」
「へー。じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう」
首都から持って来て入隊試験で活躍したナイフも、さすがに連日の酷使でダメになりつつあるところだったから、助かった。そそくさとジャケットの内側に仕舞う。
「さて、何を飲まれますか? 食事は?」
「あ、助かる。なんでもいいよ。実は朝から食べてないんだよね」
腹の辺りを撫でさするキューナに、ドックラーは不思議そうな顔をした。
「……食事は用意させたはずですが」
「日持ちのするものは持ち帰って転売。それ以外は上官の口の中、だよ」
北州騎士団の常識を告げれば、絶句のあとに、なるほど、と呟く。
「徹底してますね」
「ね。そういうことには頭が回るんだよね」
隠すことなく呆れ顔を浮かべたドックラーは、一度座り込んだ席からまた立ち上がった。
「うん、やはりここはどうにも落ち着かない。奥へ行きましょう」
「うん? ここが寝室じゃないの?」
「こんな趣味の悪い内装、どう見ても客間に決まってるじゃないですか。――どうぞ、こちらへ」
物置かと思われた簡素な木戸を押し開ける。キューナは返事をしてそちらへ向かい、出口で一度振り返る。天蓋付きの豪華なベッドと、壁一面の白木のクローゼットと、床を覆う伝統織りの絨毯。応接用のカウチとテーブルもあることはあるが、さっき別の部屋にあったもののほうが大きく、正式っぽい。考えても分からないので、キューナは前を歩くドックラーに聞くことにした。
「客間はあっちにもあったよね」
「こちらは『自宅の寝室に招くほどの親しい間柄』の方のためです。腹を割って話させるための」
「……なるほど」
話す、ではなく、話させる。ドックラーはさらっと言ってのけた。
つまり、ドックラー側は一切歩み寄るつもりはないということだ。交渉相手も可哀想に。
「あとは安全対策ですね、やはりどうにも北州の治安は悪い。今のところ、この屋敷内への侵入を許したことはありませんが」
通された部屋は、先ほどの豪華絢爛の部屋より随分狭く簡素な内装だった。実用的なものしか置かれていない。
「あー、確かにこっちのがドックラーさんっぽい」
「世間的なイメージではあちらの部屋でしょうけどね」
いいながら水差しからグラスに注ぎいれた水を、「どうぞ」とキューナに差し出す。
「ああ、やはりこちらの部屋のほうがいいですね。なにせ、久しぶりにゆっくり話ができそうですから」
感慨深そうに言う顔に、先ほどまでの演技の下品さは微塵もない。キューナは思い出して笑う。
「好色オヤジって誤解させてまでー?」
「今更、尾ひれ背ひれ付こうが気にしませんよ」
潔い。さすが北州を代表する使節団の補佐官だけはある。ま、彼にとっては本当にさしたる問題ではないのだけど。
「……中央に戻ったら、このこと報告しちゃう?」
悪さを見つかった子どものように見てくるキューナに、ドックラーはビジネスライクな一瞥を返し。
「名高き中将殿の計略を妨げるほどの理由など、私にはありませんよ。ただ、」
「ただ?」
「さっきも言いましたが……中央では貴女、顔広いんですから。北に来れる階級の人間とはほとんど顔見知りですよね。私がどうこうしなくても、志半ばで誰かしらにバラされると思います」
「うーん、そっかなぁ。とりあえず、こうして髪は短くしてみたんだけど。あとは何が足りないと思う?」
答えを待つキューナに、ドックラーは白い目を向けた。
「……それは、私に規律違反の片棒をかつげと?」
「あぁそっか、嘘、嘘」
ヒゲを撫でながらじっと考え、
「……貴女の身の安全の保証が、足りませんね」
あはは、とキューナは明るく笑った。
「そんなの騎士団に属してる時点で、みんな、ないようなものじゃない」
呆れ顔を向ける。
「ご存知ですか。同じリスクというくくりの中にも、甚大度の差というのがあってですね」
「何それ。上手く切り抜けられるかどうかの違いじゃない?」
「……北に来ても、相変わらずの自信家は健在ですか」
ふふ、と笑う。
「そんなんじゃないよー」
ノックの音が鳴る。
「失礼します」
メイドが、食事を乗せたワゴンをおして部屋に入ってきた。
「うわぁいありがとー」
次々と並べられていく皿に、キューナが歓声を挙げて礼を言えば、メイドも嬉しそうに微笑んだ。
キューナはいただきます、と言って、豊穣の女神に祈りを捧げてからスプーンを手に取る。
「中央の様子、聞いてもいい?」
手前の料理を一口ほおばってからドックラーにそう尋ねると、男はああ、とうなずく。
「あちらの画策はひとまず片付いたようです。いつものとおり、ウォルンフォラドが片をつけたと聞いています」
「本当? よかったぁ」
ちょっと心配してたんだよね、と中央にやり残してきた仕事に、ほっと息をつく。
「しばらくは水道卿も大人しくしているでしょう。次回の議長選はソスルストン陣営が優勢との噂です。それと、王子の生誕祭もつつがなく終了しました」
「うんうん。……他国の様子は?」
なんでもないふうに続けたつもりだったが、ドックラーは片眉を上げた。
「特段、変わった報告は流れていませんでしたが。なにか、気になることでも?」
「……うーんと」
ドックラーは悠然と足を組み替えた。
「何なりと」
言い渋るキューナを見透かしたような目。
頼もしいその態度に、じゃあ、とキューナは俄然励まされて、意気込んで。
「おじいに預けてある私の部隊から小隊いくつか借り受けて、ロワール国境警備部隊に、増援って言って、もぐりこませといてくれる? カロの隊と、あといくつか小隊……選定はウォンちゃんに任せていい」
あまりにぶっ飛んだ指示。
これには、さすがのドックラーも固まった。
「……私が、ですか?」
「うん。ウォンちゃんもおじいも今忙しい時期で、遠征準備なんてできっこないし、ちょっと小耳に挟んだだけの噂だからあんまり広めたくないんだよね」
この状態で、北州騎士団本部が本当に実行に移せるとは到底思えない。思えないが――無理にやればできないこともないかもしれない。少なくとも、国境にたどり着くことくらいは可能だ。
「北の使節も兼ねてるドックラーさんが、子飼いの密偵使って得た情報ってことにしておいてくれれば、おじいもNOは言わないと思うし」
「そりゃあ、立場上否やは言えないでしょうが……私が隊の指揮など、越権行為もいいところですよ」
「えー今更じゃん」
そんなこと気にする人じゃないでしょと笑い飛ばせば、眉間にぐっとしわが寄る。
「今までのアレコレとは規模もリスクも違うんですよ」
彼にしては珍しく正直に困惑顔を浮かべ、眉間をもんだ。
少し茶を飲んで、フゥと息を吐いて。
「……イオの傭兵隊を4隊雇います。ロワール市街の東西南北、各拠点に配備しましょう。国州騎士団の検問よりは情報も行動も遅いでしょうが、これくらいでよろしいですか」
「良い良い、充分、むしろそっちのが早……あ」
「……」
抜け目なくじろりと睨む、冷静な目。
まずい。失言だった。
一瞬で意味を理解した聡い政府高官は、顔色を変えて椅子から腰を浮かせる。
「――今すぐ中央本部へお戻りください。報告の上、自隊を率いて北州騎士団解体の」
キューナはのんびりと座ったままで、ぱたぱたと手を振った。
ドックラーはそれを信じられないものを見るような目で見下ろした。
「……なぜ」
キューナはゆっくりと首を回してドックラーから視線を外す。暖炉ではぜる火の赤色を楽しそうに眺めた。
「かばうわけじゃないよ。去年の東の別隊解体、おととしの教会占拠、忘れた? ――残党は、残しちゃいけないの」
「……それは、そうですが……貴女独りで、こんな」
「ドックラーさん、私の職業、知ってる? ――騎士だよ」
そのとき男の目の前に座っているのは、知人の少女ではない、一人の騎士だった。
ふふ、とキューナは肩をすくめて、囁くように笑った。
「すごいよね、これ上手くいったら私また大躍進?」
だから誰にも言っちゃダメだよ、と意地汚く牽制するように指を立てる。連日の訓練と雑務でぼろぼろになった指を。
「……」
キューナの意図を的確に把握した上で、必死に思索をめぐらせていたドックラーは、たっぷり数分経ったあとで、力なく座りなおして、噛み締めるような声で言った。
「……御武運を」
キューナは笑みを深くした。
「ありがとう。いやー、ドックラーさんでよかったよ」
「他に手はないか、考えておきます」
「うん、よろしくね」
実に空虚なやりとりだと、ドックラー自身も感じた。だから自嘲の笑みを浮かべて、投げやりな気分になった自分をごまかすように――目の前の空いた杯に「どうぞ」と茶を注いだ。たちのぼる白い湯気と香ばしいにおいに、キューナが嬉しそうな顔をする。
再び活発に動き出したフォークとナイフを何の気なしに眺めて。
「……中将殿、このあたりには良くいらっしゃいますか?」
「ううん、今日が初めて」
うなずいたドックラーは、部屋の隅にひっそりと控えていたメイドを近くに呼び寄せた。
「彼女は私の友人だ。顔は覚えたね」
「はい」
「今後、この方が屋敷にいらしたときには、私への確認は後回しで良いから、全て望むとおりに計らいなさい。寝食も金品も情報も、全て」
あっけにとられるキューナの前で、ちょっと驚いたような顔をしたメイドはすぐに、
「はい」
と笑顔で答えた。
あまりの飲み込みの早さに、そして今ドックラーが与えたその権限を普段はすべてこのメイド姿の彼女が担っているということに気づいて、思わずその綺麗な笑顔を、キューナは鹿肉を咀嚼しながらまじまじと見上げた。
「すごいねぇ、ただのメイドさんじゃないね?」
「お宅の執事殿と似たようなものです。行き場のないところから有望そうなのを引き取って、アカデミーまで通ってもらいました」
「おおう」
ドックラーはさらっと言ったが、それは軽く中央の役人レベルだったりする。アルコクト家の執事は元貴族だから例外として。
メイドが恥ずかしそうに微笑んだ。
「だんな様には感謝してもしきれません」
「そっかぁ、頼もしいね」
「お待ちしております」
一礼して空の皿を持ち、退席しようするメイドを、キューナが待ってと呼び止めた。
「さっき警備の騎士たちに出した銀食器の数と、ホールに飾ってあった彫刻の数、全部調べて不足分は書面にまとめておいてくれる?」
ドックラーが盛大に顔をしかめた。
「……それはつまり」
「ごめんねウチのバカどもが。ぜんぶ解決したら必ず補償させますので」
「まぁいいですよ、手に取れるところには安物しか出していませんし。そんなことで貴女がコトを急ぐ必要はありませんからね」
「はーい」
2、3、細かい指示を出してメイドが退室する。扉が閉まったことを確認したドックラーがまたキューナに向き直って。
「それと、このあたりは私の領地ですので、何かありましたら私の名をお使いください」
「そっか、領主でもあるんだっけ」
「ええ。ただ、例外なく不作と豪雪のあおりを受けて、最近治安が悪いのが難点ですが……」
「騎士団の管轄としては、本部だよね」
「はい。一番遠いせいか、あまり来たがらないようです」
「来たがらないって……」
管轄内の街の警備は衛兵が交代制で回っているはずで、通常、拒否権などはない。
「ですが、金のにおいは敏感に察知するようで」
皮肉のような意味深な言い回しはよく分からなかったが。
「要するに、ドックラーさんが中央から戻ってきてるときだけ、派遣されてるってこと?」
「ええ。様子をうかがうため、定期的に呼び寄せているのですが――今回は貴女が北にいらして、すぐ、突然の休暇という謎の行動をとったと聞いたので、何かあったのかと思って、少し多めに人をよこしてくれ、と言ったらあのとおりです」
やれやれと疲れたように肩をすくめる。
「みんな隙あらばドックラーくんに貢ぎたいんだねぇ」
心底不思議そうにキューナは言う。
ああ、とドックラーは気のない肯定の声をあげた。
「先ほどの隊長殿もしつこくちらつかせてきました」
「そのために来たようなものだしね」
昨晩も消灯までずっと準備してた、とあくび交じりに答えるキューナ。ドックラーが腰を浮かせて呼び鈴を鳴らす。
「そろそろお休みください」
「えっでも」
中央州でいつも泊まりにいくときは、もっと遅くまで雑談しているのに、と時計を見上げる。
「明日にしましょう。どうせ早く起きるのでしょう?」
「そうだねー」
カウチの上で伸びをする。
「ごゆっくりおやすみなさいませ。必要なものがあれば、明朝までに揃えておきますので」
「ありがとう甘える」
「光栄です」
誇らしげに答えて目を伏せるドックラーの気品ある所作を、キューナはにこにこと眺める。身内には打算抜きでことごとく甘い人だ。
「でもいいの、またヒデールさんがすねちゃうよ?」
「放っておけばいいんですよ、あんな大人げない老いぼれなど」
「あ、またそういうこと言うー」
軽口を叩いている間に、お部屋の用意ができましたとメイドが知らせに来た。
2015/6/21 設定変更




