1.一次試験(前編)
さかのぼること、一ヶ月――
灰色のコートと長い黒髪の少女。クウナ=アルコクトは北州騎士団発行の分厚い機密書類を片手に、首都発・北州着の汽車を下りた。
とたんに吹いてきた風に、晴れ空の下、コートの前をかきあわせる。
「うう、さすが北。ちょっと寒いなぁ」
かたわらに停車していた汽車が轟音と共に動き出した。三日間の長旅の寝床を提供してくれていた鉄のかたまりが、蒸気を上げて走り去る。地平線まで続く長い線路の先に颯爽と消えるまでその雄姿を何となく見送ってから、足元に置かれたボストンバッグを担ぎ上げ、クウナは改札へと歩き出した。
目的地は北州騎士団本部。
本日を以ってクウナ=アルコクト中将は、スカラコット国中央州騎士団本部から北州騎士団本部へと赴任。一年後に実施予定となっている北州騎士団本部の大規模な再編に備え、視察と整備に訪れたのだ。
越権行為の横行と弱体化が深刻化している北州騎士団は、東・西・南の各州に比べてあまりに遠方で未開拓のため、これまで独立した運営を行ってきた唯一の組織だが、今回初めて、中央州騎士団が大きく介入することとなった。首都まであまり情報は回ってきていないが、風の噂では、かなり非人道的な行いが内部で頻発しているという。
「って言っても、上からお偉いさん来たら、絶対悪事なんて隠すに決まってるのになぁ、どうしよ」
まぁ、だから、一番警戒されにくそうな外見のクウナが来たのだけれど。近年いくつもの輝かしい功績をあげている「アルコクト中将」の名は北州騎士団にも浸透しているだろうが、姿かたちだけでは、まさかこの小娘が名の知れた軍将だと、誰も気づきはしないだろうから。
中肉中背。肩を滑る長い黒髪。丸い瞳に利発そうな顔立ち。長袖長ズボンの今、見える範囲に刀疵はない。弱冠17歳。通常の騎士の入隊時期とほぼ同じ。
先のダ・ファーガ戦で、中央州騎士団本部元帥じきじきの指示で編成されたとある特別小隊が、最前線に躍り出るなり周辺国を完璧に制圧した、という報道は国民の記憶に新しい。その功績で、異例の大出世を遂げた数人のうちの一人だ。
硝子で光を操り、感光板に見たままの画像を投影し閉じ込める新技術――『写真』なるものが知られてきたが、まだ首都にも技師が少ない。今年からようやく本部の高官会議で試験的に導入されるようになってきたが、まだ北州に出回ってはいないだろう。中央州騎士団本部の最上層フロアでクウナが歩いていると必ず騎士たちが立ち止まり、すぐさま顔を引きしめ敬礼してくれるが、ここ北州の片田舎のなだらかな坂道を上っているだけでは、通りすがりの住民は皆、クウナなど視界に入っていないような顔をして通り過ぎていく。上官の騎士か貴族にしか使用権の与えられていない汽車の駅方面から歩いてきた小娘に、不思議そうな顔をする何人かがいるくらいだ。
それが久しぶりで新鮮で、クウナは広い空に向かって、大きな伸びをした。
***
内部の建造物の一切を覆い隠すように敷地の周囲にぐるりと建てられた、そびえたつ分厚い土壁。公式には唯一の切れ目である北州騎士団本部の正面正門に、緊張した面持ちの年若い青年たちが次々と入っていく。
「あ」
クウナは指折り曜日を数えて、思い出した。冬季偶数月の第1水曜。
「今日、入隊試験かー」
目の前に並ぶ緊張しきった若者たちの列を、懐かしいなぁと微笑ましげに眺めて歩く。
あとで観にいこうかなぁと呟いて、クウナは門番に近寄った。
「こんにちは」
目つきの悪い門番がじろりとクウナの鼻先を見る。
「身分証明証」
「はい」
差し出した身分証明証をひったくるように奪った門番は氏名欄を太い指でなぞり、目を眇めて読み上げた。
「|Quna=Rcoked《キューナ=ルコックド》」
ん?
「ん? 私?」
聞きなれない名前に周囲を見回すが、門番の前にはクウナ一人しかいない。
「……あ。北部訛りか」
独特の読みとリエゾンがあると聞いている。これか。
まるで別人みたいになるなぁ、なんてのんきに考えていたら、門番の横にいたバインダーを持った男が紙になにか書き付けながら言った。
「この先をまっすぐ行って、突き当たりを右だ」
「はい、どうもー」
放り投げるように返された身分証明証を受け取り、案内された道を行けば。
たどり着いたのは予想していたような応接間でも会議室でもなく、だだっぴろい草地――騎士団の敷地内ならばどこにでもよくある設備、演習場だった。手前の建物の前に、先ほど見たのとよく似た、若者の長蛇の列が伸びている。
……んん?
首をひねり、目の前の柱にかかっている看板を見上げる。
「……入隊試験場?」
「受付を済ませたら、指示があるまで控え室で待機」
看板の脇に立っていた騎士が、低く野太い声で言った。
クウナは自分の格好を見下ろした。コートの下には隊服を着ているが、本来羽織るべき支給品のコートはあまりに薄手だったから、今日は足首が隠れるくらい丈の長い、私服のコートを着てきた。裾からのぞく足元は支給のものとよく似たブーツだが、軍将専用の指定ブーツのサイズバリエーションは最小のものでもクウナにとって大きすぎるので、これは普段から私物で済ませている。階級章の付いた帽子は、強い風で落としそうだったからかぶらずにカバンにしまってある。
つまり、今のクウナは傍目には民間人そのもの、というわけだ。
「別人になってるのか」
もちろん、その独り言に返事はない。
クウナ=アルコクト中将、もとい新人兵志願者キューナ=ルコックドは能天気に顔を輝かせた。
「……内情を探るって意味では、いいかも」
「何をぶつぶつ言ってる、早く並ばないか」
「あ、はい。その前に着替えてきてもいいですか?」
キューナは脇にあった『更衣室』という扉を指さした。ボストンバッグの中には私服の着替えも入っている。
案内役の騎士は露骨に面倒くさそうな顔を浮かべて顎をしゃくる。
「早くしろ」
「はい」
騎士にのんびりと笑いかけ、後ろ手に扉を閉めるなり、一般人を装っていた動きをやめて迅速に行動開始。カバンの口を大きく開いてベンチの上にひっくり返す。詰め込まれていた服やら機密書類やらが乱雑に散らばる。空になったカバンを放り出し、端に置かれていた姿見を引き寄せて覆いの麻布を引き剥がす。
コートを脱げば、少し曇った鏡の前に隊服をまとったいつものクウナがいた。
迷彩柄の付け襟を外し、ジャケットとその下の鉄製のベストをまとめて脱ぐ。
「んー、動くと暑くなる気もする、けど……」
前に続いていた長蛇の列を思い出し、しばらくは順番が回ってこないだろうと予想して、コーデュロイのシャツを羽織った。ズボンもカジュアルな私服に取り替える。足元のジャケットを拾い上げ、一番下のボタンに口元を寄せる。金ボタンをくくっている糸を八重歯で引きちぎる。糸くずを払いのけ、金色に光るボタンをズボンのポケットに落とす。
それから、ベンチの上から紙とペンを取る。紙をくるりと丸めて、ペンについているクリップで留め、ズボンにはさむ。それをシャツのすそで隠して、軽く伸びをする。
「さて、と」
目の前に散らばるもののうち、騎士団の備品だけを拾い集めてジャケットでくるむ。そのジャケットを黒い袋に入れて圧縮して密閉して、カバンの隠し底に入れた。その上に残りの荷物を詰め込む。
屈伸を三回、ゆっくりとしながら息を整え、扉を開けた。
「お待たせしました」
騎士が指示した先の列は、先ほどよりも更に増えていた。
カバンとコートをあずけてから、列に並ぶ。前後の青年がじろじろとキューナを見る。キューナは微笑んで、年の近そうなその二人に軽く声をかけた。
「こんにちは。女性って少ないんですね」
「……何も好き好んでこんなとこに来なくても、女なら、他の選択肢があるだろ」
後ろの青年が陰鬱な声を出す。キューナがきょとんとするのを見て、前の青年が心配そうに言った。
「まさか、ここの噂、知らないってことはないよな」
「荒れてるって話ですか?」
「そんな生易しいもんじゃない。俺と同じ学舎の先輩で、ここから命からがら逃げ出してきた人がいるけど、一緒に脱走した10人のうち8人は連れ戻されて殺された。あとの一人は途中の街で力尽きた。その人も全身ぼろぼろで、ずっと寝たきりだ。『今の北州騎士団は地獄だ。囚人のほうがまだ良い待遇だよ。悪いことは言わない、憧れは捨てろ』ってな。入隊試験で死ぬ奴も多いらしい」
キューナが真顔のままちらりと見ると、後ろの青年が絶句していた。前の青年が意外そうにキューナの顔色を見る。
「案外、肝、すわってそうだな。後ろのお前は、もう帰ったら?」
後ろの青年はハッとなって首を振った。
「俺は剣の腕くらいしか。これ以外じゃ、まともに家族養える仕事なんてない」
「まぁ、俺もだけど。……お前もか?」
キューナは曖昧にうなずく。
話が途切れたところで、列が少し進んだ。演習場に足を踏み入れるなり、横に広がるようにと指示される。
「おい、あれ」
誰かの声に前を見れば、建物から足早に出てきた大柄な騎士が草地の中央で立ちどまった。列の案内をしていた騎士が、木製のバインダーを持ってその隣に並ぶ。
胸を張り息を吸って、声高に言い放った。
「本日ッ、入隊試験官を担当してくださるリュデ=ロースタス少将殿だ。敬礼ッ」
案内役の騎士はかかとを揃えて右手で敬礼。志願者たちも緊張しながら、見よう見まねでそれにならった。
全員の敬礼を向けられたリュデ少将と呼ばれた騎士は、黒味を帯びた青髪をきっちりとかため、筋肉で盛り上がった肩を広げて腕を組み、険しい表情を浮かべたまま微動だにしない。腰から下がる短剣は傷だらけで、彼の戦歴の長さとすさまじさが伺える。キューナの耳に、誰かが生唾を飲み込む音が届いた。
案内役が脅すような大声で続ける。
「リュデ少将殿は元・中央州騎士団の騎士として、先のダ・ファーガ戦では大変な功績を挙げられた有名な御方だ。本日、お前らの試験を見ていただけること、光栄に思うように!」
案内役に睨まれ、志願者たちは慌てて返事をした。リュデはつまらなそうにその様子を見る。
「どうでもいい。少し黙れ」
「はっ、はい。大変失礼いたしましたッ」
威圧感のある低い声に、案内役は顔色を失う。場が凍った。あまりの恐怖に圧され、全員が萎縮して動けなくなる。
ただ一人、平然とした様子のリュデが、年若い細身の男女が青い顔で並んでいるのを見回す。
「多いな」
「は、はい。例年の約1.25倍です。思うに、近年、まともな賃金が保証される仕事が減っているからかと」
騎士の解説を無視して、リュデは群集に向けて一歩を踏み出した。
「まずは数を減らす。お前はいつもの地点で待機」
「はい」
それで通じたようで、案内役の騎士は踵を返して建物に向かう。それを見てから、
「――全員、ついてこい」
少将はそう言って、突然駆け出した。
何も考えず少将の通り道を開けた若者たちは、あわてて少将の背中を追いかけて走り出した。キューナは集団のちょうど真ん中あたりになるまで待ってから、周囲の皆に歩調を合わせた。
集団は今しがた入ってきた正門を出て、外壁沿いに進む。門番と照合官が敬礼で見送る。
街の外れに向かう大通りを走りながら、キューナの近くの誰かが言った。
「何キロ走らせんのかな」
周囲がぞっとして押し黙った。
「距離というより――あれだろ」
少し前を走っていた一人の少年が小さく振り向いて、こともなげに前方を指さす。小高い丘が見えた。
「俺、ここ地元だけど、この道この先一本道で、ああいうのばっかだぜ。最終的には山道から砂利道になる。よく騎士が半日がかりで走ってるよ、死にそうな顔して」
半日……と誰かが呆然と復唱した。
別の一人が聞いた。
「なぁ、近道とかは?!」
「あったらとっくに使ってる。それより、道わかりにくいからはぐれないほうがいいぞ。――先に行く、じゃあな」
そう言って少年は歩調を速めた。体力を温存しようと減速を始めていた周辺の大勢が、それで焦ったようにペースを上げる。先頭集団に混じって行った白髪の少年の背中は、もう見えない。
「……翻弄すんの、上手いなぁ」
キューナは歩調を変えずに小さく呟いた。その声は、追い抜かしていくたくさんの足音にかき消される。
やがて石畳で舗装されていた道は途切れて、ぬかるむ土の道に踏み入った。何人かが木の根に足をとられて転ぶ。リュデはペースを落とさずに進んでいく。上りの道をしばらく進んで丘を越え、その道が砂利混じりの下りに変わり――
よく使い込まれた皮製の軍靴が、傾斜のきつい坂を砂利とともに駆け下りる。その勢いで助走をつけて、横切るように伸びている幅の広い濁流を飛び越えた。濃紺の外套がひるがえり、影とともに川面に映る。
少将はその川辺でようやく足を止めて、後方を振り返った。
「……少ないな」
呆れ顔で呟く。
飛び切れなかった者たちの着水音が次々と鳴る。下半身を冷たい川の水でぬらし、息を切らしてかきわけ何とか進んでくる青年たちを、リュデはしらけた目で見る。
「よ、っと!」
やや高めの掛け声とともに跳躍してきた一人が、濡れることなくリュデの真横に着地する。蹴り飛ばされた砂利が飛んだ。
顔を真っ赤にしたその少年は、満足そうに笑いながら呼吸困難でうずくまった。せわしなく肩が上下する。川から上がってきた数十人も、その近くに座って息を整え始めた。
そこから数秒、人が途切れる。
キューナを含む集団が追いついたのは、しばらく経ってからだった。
次々と現れた志願者たちを見て、ただひとり濡れていない少年が小さく舌打ちする。
「……はぐれさしたと思ったのに……」
その真横に音もなく着地したキューナは、座っていた少年を見つけて目を丸くする。
「あ。地元だ、って言ってた人だよね」
「ん? ああ」
キューナは彼に向けて、いそいそと右手を差し出した。
「私、えっと、キューナって言います。よろしくー」
「……は?」
汗をぬぐっていた少年はきょとんとした。しゃがみこんだキューナはえへへと笑う。
「有力候補に名前、売っておこうかと思って」
「なんだそれ。別に助けないぞ」
目を細めるように笑いながら、少年が手を握り返す。
「俺はイグヤだ。よろしく、お嬢さん」
周囲の息切れの音に混じり、「行くぞ」という少将の声が聞こえて、イグヤが立ち上がった。
集団は、川沿いの砂利道を上流に向かって走り出す。
「ねぇ、この先はどうなってるの?」
キューナは隣を走るイグヤに聞いた。皆が黙って走る中で、その声は周囲の感心を引いた。イグヤの茶色い瞳がキューナを見返す。
「……もう少し高い山を登る」
周囲が露骨にげんなりした顔をした。キューナは「へぇ、ありがと」と軽く言っただけで、顔を正面に戻した。
イグヤの言ったとおり、少将は間もなく脇にそびえていた岩山を登りはじめた。日陰になっている岩のところどころに溶け残った雪が残っている。キューナは物珍しそうにその白いかたまりを盗み見ながら走る。
道なりに登り続けて、更に数人が着いていけなくなったあと。正面に岩壁のそびえる位置で少将が一瞬、立ち止まった。またすぐに足を動かし、右側にあった丸い大岩に飛び乗る。
「……あれ? こっち……」
イグヤが不審そうな顔をする。本来なら左に曲がるところで、この先、右に道はない。道とは言いがたい岩場をよじ登って、少し開けたところに出る。
「もう少し、減らすぞ」
リュデはそう言うなり、腰の短剣を抜いた。剣先が日光を反射し、雪が照らされる。少将の剣が、はるか上方から伸びて足元の岩の隙間に食い込んでいた太い蔓を一本斬った。皮手袋の手がそれを掴み、下方へと数回引っぱって強度を確認すると――
「げ」
イグヤの声。
助走をつけた少将は蔓につかまり勢いよく地を蹴った。振り子のような動きで足場のない崖を越え、遠くの岩場へと身軽に飛び移る。少将が手を離した蔓は、何度か小さく揺れたあと、崖の真上、どちら岸からも手の届かないところで止まった。
岸の向こうで、少将が持っていた剣を収めるのが見える。
「ずりぃ」
思わず誰かが呟いて、すぐさま慌てたように口をつぐんだ。少将は気にしたふうもなくさっさと進み、その背が岩陰に消える。皆が慌てた声を出す。
イグヤが小さく言った。
「……くっそ、想定外だ」
荷物は指示通り、すべて最初に預けてしまった。スタート直後は武器を持っていた者もいたが、重さがネックになりほとんどが途中で投げ捨ててしまっていた。
何人かが素手で残りの蔓を引っぱってみたがびくともしない。一人が持っていた薄く軽いナイフは、蔓の強度に負けてあっけなく折れた。少し尖っている岩を探して蔓にこすりつけ、切れはしないかと奮闘している者もいたが、丈夫な蔓の減りは遅い。蔓が一本切れる頃には少将を完全に見失っているだろうな、とイグヤは思う。別の何人かは、蔓なしに飛び越えられないかと崖をうかがっているが、崖下のあまりの深さと対岸の遠さに躊躇するばかり。
誰か、何か突破口を見つけはしないかと、手詰まりのイグヤは冷静に周囲をうかがう。迷いない足音が一つだけ聞こえて振り返る。立ち尽くす者たちの向こうに、来た道を戻ろうとするキューナの姿があった。
自分以外では唯一川を飛び越えた志願者仲間もここで脱落か、と冷めた目でその背を見送ろうとしたとき――ふとこちらを振り返ったキューナと目が合う。
キューナはぱっと目を輝かせてイグヤを手招きした。その生き生きとした表情は、ここまで必死に走ってきて、今、入隊を諦めた者の顔には見えない。イグヤは眉を寄せて「何だよ?」とキューナに近寄った。
キューナが声を張り上げた。
「さっきの道まで戻ろう!」
「一本道だっただろが。それに、本来の道を使うと、少将からは遠ざかっちまうんだよ」
不審そうなイグヤ。キューナの黒い瞳がくるくると回る。それから、少将の消えた対岸を指さした。
「ええとさ、あの下のところと同じくらいの高さを登ってたときに、あっち側に、ハーケンみたいなものが刺さってたから」
キューナの言葉に、イグヤは立ち往生する集団を掻き分けて崖へと駆け寄り、腹ばいになって下をのぞきこんだ。
「……あれか?」
目を細めて下方の岩場を見ると、そこには確かに、岩壁に突き刺さる金属らしきものが小さく見えた。下を見たままイグヤが言う。
「なぁおい、ハーケンって何?」
「足場のない岩場を登るときに、岩に打ち込んで足場をつくる道具」
イグヤのすぐ後ろから、キューナのものではない男の声が答えた。
キューナはその顔を見て「あ」と言った。列に並んでいたとき、前に立っていた青年だ。
「また会ったねー」
イグヤが見上げてくるのに会釈した青年は、キューナに片手を挙げて応えた。
「悪い。今の話、聞いちまった。俺も一緒に行っていいか?」
キューナは嬉しそうに笑った。
「どうぞー」
青年とキューナの目線が動く。その先にいたイグヤも黙ってうなずいて、すぐに立ち上がった。
「行くぞ」
2015/5/24 誤記修正