18.苦悩
アサトが目線を落ち着きなくさまよわせる。あくび混じりの班長が怪訝な表情を浮かべてそれを指摘した。
「なんすか朝から、いつにも増して辛気臭い顔して」
「いや、僕の顔っていうか、その顔、ソイくんの顔は……聞いたほうがいいの、聞かないほうがいいの」
班長は、ああこれか、と頬を掻く――打ち身で青く腫れたみっともない頬を。
「別にいつものですよ。しょーもな」
「ええっ、大丈夫? 他のところは?」
両手両足をぶらぶらと振ってみせて、無事だと答える班長の後ろから、ログネルが顔を覗かせて二人に聞いた。
「なんですか、いつものって」
「あー、なんつーの、大げさに言うと、暗殺未遂っつーの。寝てたらぶん殴られた」
物騒な話に固まるログネルをよそに、班長はふてくされたような顔で背筋を丸めて、ぶつくさと続ける。
「まぁ返り討ちにしてやったけどな」
「かえりう」
「全治二ヶ月ってとこか」
こぶしを握り直す班長に、顔をひきつらせる二人。
「……それ、班長、ほんとに寝てました?」
「何言ってんだ」
「ううん、毎年この時期、増えるよね……もうじき昇進の時期だからね」
慣れきったアサトの様子に、一息ついたログネルは、ほーう、とふざけた笑みを浮かべ。
「ま、俺は安心ですね。そういうものとは無縁だし、アサトさんがいるし」
「ちっくしょ、去年はそれが俺だったんだよ。おい、ログネル、今からでも部屋変われ」
「嫌ですよ。いくら班長でもこれは譲れません」
「てめぇ」
「――あ、あのっ、ソイ軍曹ッ」
小柄な少年が二人駆け寄ってきて、従順な目で班長を見上げる。
「掃除、終わりましたッ」
「手袋の修繕もです、どうぞっ」
差し出された手袋を受け取った班長は、二人を見もせずに自身の頬を指さし「湿布かなんか探して来い」と小さく言う。二人は嬉しそうに敬礼をする。
「はい、失礼しますッ」
ばたばたと足音を立てて去っていく二人の少年を見送り、ログネルが眉を寄せて班長に聞いた。
「……なんです、あれ」
「知らね。去年の班員だが、未だに寄ってくるから使ってやってるだけだ。特殊性癖なんだろ」
「違うと思いますけど……」
***
ぎゃはは、と子どものような笑い声が聞こえてくる。
「暇そうだな」
斧の刺さった丸太を丸ごと塀に投げつけて薪を割る遊びに興じている同世代の騎士たちを冷めた目で見ていたソイに、オサムが歩み寄った。柔らかな草の上にあぐらをかいて座り込んでいたソイは、オサムの顔を一瞥するとすげなく返す。
「自分の分は終わってる」
ほら、とあごで示した先には、綺麗な切り口の薪が積まれている。
オサムは、ソイが足元に置いている剣を見て、周囲に斧がないことに気づいて、顔をしかめた。
「刃こぼれするぞ」
「そんな斬り方するほど下手じゃねーよ」
「……」
返答に窮するオサムの前で、ソイはごろりと寝そべって空を見上げた。
「あーあ。やっぱ、班長なんてやるんじゃなかった」
さわやかな風が鈍色の髪を舞い上げる。
***
人目につかないように宿舎内を歩き回ってい情報を集めていたキューナは、排煙口の中から聞こえた物音に足を止めた。鉄扉の向こうから、ごそごそと何かが動き回っているような音がする。
「……動物でも落ちたかな?」
呟いて、蓋を開けてのぞきこむ。
「うわっ、まっぶし!」
中から聞こえてきたのはそんな声。
とりあえず一言謝って、蓋を閉めてしばらく待つ。
やがて黒い小さな手がぬっと出てきて、蓋を全開にした。ころんと一度後転して出てきたのは、ススだらけの真っ黒な少年だった。見覚えのある子だ。よく大鍋や包帯を抱えて、宿舎の廊下を忙しそうに走り回っているのを目にする。
「ご用ですかお姉さん!」
男の子は廊下に転がったまま、元気な声で言った。
「ううん。何してたの」
「スス掻き!」
南州と中央には煙突文化がない。キューナは知らない言葉に、ふぅんと無難な相槌を打つだけにとどめた。閉じ込められてたわけじゃないなら別に問題はない。
と、思ったけれど。
男の子はススだらけの手で目の周りをごしごしとこすった。少し咳き込んだその口の中まで黒くなっているのが見える。
「……ススは毒が強いから、煙突に子どもをのぼらせちゃいけないって法令、なかったっけ」
どういう意味か分からず読んだ、うろ覚えの新聞記事を思い出す。
男の子はそれを聞くなり胸を抱えて反り返ったかと思うと、甲高い笑い声をあげた。
「お姉さん、政治家の人みたいなこと言うのな!」
それから、はっとなってキューナを見上げて。
「って、もしかして中央から転属でいらしゃった例の上官殿ですかっ、見覚えない顔だと思ったら……!」
慌てて立ち上がって頭を下げる。
鋭い――と思いながら、キューナはいつものへらりとした笑みを浮かべる。
「いやいや、どう見ても新人でしょ」
「そっか良かったーあせったー」
男の子は笑顔でへたりこんだ。片手に持っていた布が床に落ちて、黒い汚れが広がる。
キューナは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
「……私、そんなに老けて見える?」
男の子が首を振って答えた数字は、キューナの実年齢よりも3つほど低かった。満足そうなキューナの周りを、男の子が検分するようにくるりと回って。
「あ、分かった。髪型と髪の色だよ。黒のショートカットは若く見える!」
「黒は地毛だし、長さは……仕事だからねぇ」
中央では伸ばしてたけどね。
苦笑していると、男の子が不思議そうにキューナの顔を見上げる。
「うーん、確かに最近いないっすね、お姉さんくらいの年齢の上官。昔はいっぱいいたんだけどなー」
男の子の年齢はどう見てもキューナの半分くらいなのに、さも古株のような口ぶり。
「ほら、たとえば」
続いて男の子が口にした3人の名前は、どれも聞き覚えのある懐かしい名前ばかりだった。伍長時代に「見習え」とことあるごとにひきあいに出された名前。若くして上官になり、隊を率いていくつもの戦を勝ち抜け、北州騎士団本部の元帥職にまでのぼりつめた人物たちだ。だけど、
「ずいぶん古い名前を知ってるね」
たぶんここの新人は誰も知らないだろう。彼らが戦没あるいは退役して久しい。
男の子はにっこりと笑った。
「オレ、ここで生まれたから。母親がメイドで父親が騎士。どっちも死んだけどね」
「へえ」
よく聞く話だ。クウナの部下や中央州騎士団の使用人にも、何人かそういう子がいる。
「だからさ、オレさ、騎士団の話は詳しいよ! それと、何でもやるよ! 洗濯、掃除、水汲み、伝言、看病、いつでもどうぞ!」
「うん、どうもありがとう」
じゃあまず聞きたいことがあるんだけど、とキューナが聞こうとしたところで、頭上から威圧的な声がした。
「媚びてんじゃねーぞガキ」
「ひ」
見上げた男の子が青ざめる。新人からの評判がひどく悪い、5年目の先輩が、腕組みをして立っていた。
「すぐやりますっ」
言いつけられていた用事があったらしく、男の子は慌てて駆け出していく。
先輩はキューナをちらりと見て。
「あいつを逃がしてやろうとか、考えんなよ」
「……逃がしたって、行くところないですもんね」
わざと見当違いな返事をしたキューナを馬鹿にしたように笑って、先輩が去っていく。
厳密には騎士ではないから、脱走兵として罰せられることはないかもしれない。だけど、逃がしたって、外の暮らしを知らない、外に頼れる人もいない子どもが一人で生きていけるほど生ぬるい環境は、ここ北州にはない。
焦る気持ちを宥めるように、キューナは息を吐いた。
***
「――てめぇ、何勝手してる」
仁王立ちで凄みを利かせる班長に、フンと鼻を鳴らして反抗的に睨み返したジュオは、近くにあった樽を蹴り飛ばす。割れた樽から液体がこぼれ出る。
「あ……!」
中身をせっせと詰めていたキューナが声を上げた。
「俺に指図するな」
ジュオがそう言った途端、その巨体が吹っ飛んだ。備え付けの棚からほとんどのものが落ちる。
「加減してやってんのがわかんねぇとはな。――あー、めんどくせぇ。毎年しつけなおさなきゃならんこの頭悪い制度、早いとこどうかしてくんねぇかな」
蹴り飛ばした班長がぼやいて、副班長に同意を求める。副班長は壁に背を預けて黙ったまま腕を組みなおすだけ。
うめいて身を起こしたジュオのあごを、がつん、と衝撃が襲う。
「……うわ」
思わずヤサルタが呟いて顔をしかめた。班長のブーツがジュオの顎を持ち上げた。異様な方向に首を圧迫する。
「去年、片足でのしてやったろうが。もう忘れたか」
「……あれ、あんたか」
思い出したのか、痛そうな顔をする。しばらくにらみ合うこと数秒。
「わ、わかった、もうしない」
緩むことのない首柄への圧迫に、生理的な嫌悪感を覚えたジュオは脂汗を浮かせながら言って両手を挙げた。
「あ?」
「もうしません」
「ったく」
班長はだるそうに呟いて足を下ろす。ジュオがうめきながら身体を起こす。かたわらで一部始終を眺めていた副班長がうなずく。
「どんだけ鍛えても首は弱いよな。いい手だ、俺も使おう」
「てめ、マネすんなよ」
「俺の前でやったお前が悪い、だろ」
かつてその言葉を幾度となく副班長に言ってきた張本人は、不機嫌そうに舌打ちを鳴らした。
「お前は断りもしなかったじゃねぇか」
「ねちねちうるせぇなぁ、あー疲れた」
適当な悪態をつきながら、班長はさっさと宿舎に戻っていく。その背を見送る副班長のため息。
「都合が悪くなるとすぐに逃げ出す……」
「要領が良いんですよソイさんは」
ログネルはうらやましそうに微笑んだ。




