17.酔いどれ
寝静まった夜、キューナは本棟の通用口に向かう。
通用口のすぐ脇に体格の良い二人組が立っているのが見えた。月明かりに照らされて伸びる二つの長い影が揺らめく。
やや背の低いほうが、隆々とした筋肉に覆われた背中を丸め、くだを巻いている。
「中尉に聞いたんだからな、お前ェー、営舎費の金庫のカギ、持ってんだろォー?」
壁に押し付けるというより、ほとんどのしかかっているというか、寄りかかっているというか。
「……いえ」
「あんだぁ?! お前、オレが酔ってると思ってバカにしてんだろ。いいかぁ、オレは酔ってねぇ!」
ぞんざいに揺さぶられ、押し付けられている男の背中がどかどかと壁に当たる。
「……はい」
「いいからとっとと出せよ、ほら、ちょっとでいいんだ、酒が足りねぇんだよー」
脅迫していた男は涙声になり、ついにはおんおんと泣き出して。
「よぉーし。お前、覚えてろよ、今から書類直してくらぁ、明日真っ先に北限送りにしてやっからな!」
それまでされるがままだった男はぎょっとなる。
「そ、それだけは――」
すぐ近くまで寄っていたキューナは、目の前の騒がしい男の頚椎に手刀を差し込んだ。崩れ落ちる酒臭い巨体をなんとか支える。その向かいから、目を見開いた衛兵の顔が見えて。
「あんた……まさか、火種の」
「あ、顔、見せちゃった。ま、いいか。一人くらい、衛兵の味方が欲しかったし」
ぺたぺたと自分の頬を触って、緊張感なくへらりと笑う。
「味方?」
「うんまぁ、その話は追々ね。とりあえずこれ――この人の部屋分かる?」
よいしょ、とよろめきながら支えなおすと衛兵が手を伸ばし、すぐに代わりに持ち上げてくれる。ありがとう、とキューナが礼を言えば、男は変な表情を浮かべて曖昧な返事をした。その浮かない顔が、失神している上官に向けられていることに気づいて、キューナは説明を補足した。
「大丈夫、痛覚には触れてないから、痛みは残らない」
だらしなくひげの伸びたあごを掴んで鼻を寄せ、漂ってくる匂いから、度数の強い安酒の銘柄を二つ述べる。
「これだけ酔ってるし、朝、部屋で起きさえすれば何の疑問も持たないよ」
そう説明してキューナが宿舎の方角へ歩き出すと、逡巡していた衛兵も追って一歩を踏み出した。
「キミは通用口の担当? 次はいつ?」
キューナの他愛もない質問に、衛兵からの返事はない。まぁいいや、あとで当番表でも見よう、と衛兵の詰め所の所在地を思い出す。
「取り押さえるの手慣れてたよね、衛兵やって何年め?」
衛兵の目がゆっくりと動き、隣を歩く少女に向けられる。先ほどの話ではない――おとといの話だ。
「左腕は」
「あー、昨日は大変だったんだから」
何ともいえない表情で黙り込んだ青年の顔を見上げて、キューナは「真面目だね」と笑う。
「……ああいうときに剣を抜く奴はいても、まさかそれより先に、自分の肩を抜くとは」
「剣を抜いて二人とも怪我するかもしれない状況にするか、私一人が怪我するかなら、一人のほうがいいかと思って」
「……その考えはおかしいぞ」
「そう? だって別に敵じゃないし」
完全に敵と認識して捕縛しようとしていた衛兵は、ぐっと嫌そうな顔をした。
「そっちは? あのお姉さんは無事に逃がせた?」
「ああ」
「そ」
よかった、と呟くキューナの真意を探るように、男は横目でキューナを見た。
「毎晩こんなことしてるのか。目的は」
「色々と。だから穏便に通してくれると助かる。もちろん礼はする」
頭三つ分以上低いところにある帽子を、検分するように見る。
「……火種、とか」
「そう。火種とか。入手ルートは確保できたから、心配しなくていいよ」
「……」
衛兵は謎多き少女の言い分を理解することを早々に諦め、一つの扉の前で足を止めた。
「この部屋だが……」
キューナの手がノブを握る。鍵のかかっている扉に、衛兵は眉を寄せて責めるような目で少女を見やる。少女は扉のプレートを見て、
「ふーん、トキルト大尉ね」
と男の名を呟いてから、衛兵の前に回りこむ。
昏倒したままの男――トキルトの着衣を、少女の細い手が遠慮なくあさって、ベルトに繋がれた部屋の鍵を取り出す。鍵穴に差し込まれた鍵を目で追い、何か言いかけた衛兵は、少し考えて口をつぐんだ。それに気づいたキューナは、口元にゆるく笑みを浮かべながら部屋を開錠して、扉を開けた。少し身をかがめて入口を通り抜けた長身の衛兵が、トキルトの体を寝台に下ろす。
「ついでに見てこうっと」
部屋を出ようとしていた衛兵が、いつの間にか部屋の中央にいたキューナの能天気な声で立ち止まる。
「……何を」
「色々と」
机の上に散らばっている書き付けをぱらぱらとめくり、遠慮なく引き出しやら戸棚やらを開けては中身を引っ張り出す。部屋を物色し始めたキューナを、戸口に寄りかかった門番は呆れた目で見ている。
「あったあった」
真新しいインクで書かれた配備計画図を嬉しそうにデスクに広げて覗き込むキューナ。ごちゃごちゃと書き込まれた省略記号や数字を指で辿ってはしきりにうなずくその姿に、どうやら理解しているらしいと衛兵は内心で驚く。しばらく真剣な顔でそれを眺めていた少女は、やがて元通りに紙を丸めて、棚の脇に立てかける。
「次は、と」
奥のキャビネットまで歩いていって、戸を大きく開けた。頭をつっこんで何やらごそごそごやり始める。
不意に、寝台のトキルトがうめき声をあげて寝返りをうった。物音にキューナが頭を引き抜く。二人の心配をよそに、すぐにいびきをかき始める。上下する丸い腹を見てへらっと笑うキューナを、衛兵が眉を寄せて眺めた。
キューナは戸を閉めて、頭についた埃を払いながら衛兵の立っている戸口を通り抜けて廊下に出る。衛兵は扉を閉め――キューナには目もくれず、本棟の方角に去っていこうとする。
「あれ?」
驚いたようなキューナの声に、衛兵が振り返る。
「てっきりこの後、再戦になるかと」
「……さっきの後だとな」
「賢明だね」
明らかに年下の少女からの言葉に、軽く眉をひそめる。
泥酔していたとはいえ、正門と各棟一階の警備兵の配備を任されている一介の大尉の背後に忍び寄り、一発で意識を刈り取る動きを見せた少女だ。冷静な衛兵は自分の技量をよく分かっていて、自身に勝ち目がないことを早々に悟っていた。
それに、なぜか友好的な態度を見せてくる相手に、この敵ばかりの環境でわざわざ歯向かう理由も衛兵にはない。
再び歩き出した衛兵の横に、少女が並ぶ。同じ速度で進み、上官用の宿舎の入口まで連れだって歩いてくると、
「じゃあね!」
少女は満面の笑みとともに両手を振って夜の挨拶。その元気な様子に、衛兵はふと思い当たって尋ねる。
「宿舎に戻るんだよな」
「まさか。まだ寝るには早いよ」
二人の周囲に広がるのは、とっぷりと暮れた夜闇。規定の消灯時間は大幅に過ぎている。
「……昼間は演習に参加してるんだろう、いつ寝てるんだ」
「訳あって、三時間あれば充分に回復できる体質になっちゃってね」
頓狂なことを言う少女に、衛兵は顔をしかめる。
「……夜霊獣の類か」
「うわぁ懐かしい」
この国の有名なおとぎ話に出てくる架空の生物だ。昼間は大人しいが、夜な夜な星空を駆けずり回る、孤独で凶暴な獣。
「……あ、でも近いかも。黒毛だったよね?」
そうキューナが言いながら自分の黒髪の毛先をつまみ上げると、呆れたようなため息が返ってきた。衛兵はそれきり何も言わずに去っていく。
キューナは「またねー」と見送った。




