16.槍
薄暗い廊下を足早に歩いていたキホの前に、年季の入ったブーツのかかとが、目の前の壁にガツンと打ち付けられる。
キホは足を止めた。
同じ班の先輩が2人、キホの前に立ちふさがった。
「オイなあ新人、なんだよさっきの剣は」
「お前は目立ちたがり、ってんでもないと思ってたんだけどな?」
乱暴に胸倉を掴まれる。少し後ろを歩いていたエイナルファーデが事態に気づいて駆け寄ってくるのを、キホが片手で制した。
「これだろ?」
別の声が背後から聞こえて、振り返ったキホの目が見開かれる。同室の先輩が持っているのはよく見覚えのある――キホ愛用の槍だった。使い込まれた黒塗りの柄を、無遠慮に、見せつけるようになでる。
「はー、上等なもん持ってんな」
「さすが、優秀な奴は違うねー」
「――返せ!!!」
全く唐突に、キホが吼えた。
顔色を変えたキホは手近な一人に掴みかかって引き倒し、何の遠慮もなく蹴り飛ばす。一瞬ぎょっとした先輩たちは、すぐにこぶしを振り上げ、またたくまに乱闘になる。
エイナルファーデが悲鳴をあげた。
負傷しつつも槍を奪い返したキホが間合いをとって構え、剣を抜いた一人をその長い柄で弾き飛ばす。穂先が天井をかすめる。キホは廊下の狭さに顔をしかめた。この場所、槍では酷く不利だ。
いつの間にか集まってきていた野次馬が、槍だ剣だと好き勝手に歓声を上げる。
狭さに苦戦したキホはあっという間に槍を奪われ、廊下の床に押し付けられた。
「ここでの生き方を教えてやるよ。よく、見とけ」
槍を持った一人がにたりと口角を上げ、もったいぶった動きで腰の剣を抜く。
「騎士たるもの、純粋な剣の腕で勝負しなきゃな!」
別の一人が槍の柄を横にして剣の前にかざす。刃を柄に向けて、構え、振り上げて――
「やめ……」
キホの声を掻き消して、槍は中央から折れた。
「はーん、あっけねーな」
「あああ……」
涙目のエイナルファーデが、頭を抱えてしゃがみこむ。
それを、「邪魔だ」と蹴り飛ばし、3人は大笑いしながら去っていった。見世物が終わったとばかりに、野次馬たちも、蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
ふらりと立ち上がったキホは、槍の前まで歩いていき、そこからしばらく動かなかった。
通りすがりの何人かが、折れた武器の前に立ちつくす一人の姿に納得したような顔をして、気づかなかったふりで去っていく。
そこへ、荷物を持ったキューナが歩いてきた。槍の残骸を見て、次にキホを見て、それからエイナルファーデを見ると、廊下の脇に荷物を置いた。しゃがみこんだままのエイナルファーデを黙って抱き起こす。エイナルファーデが泣きはらした顔を上げてキューナを見るが、言葉は出ない。キホのほうを向いて、その名前を何度か呼んだ。
キホは黙ったまま、折れた槍の木片を丁寧に拾い上げ始めた。全てを集め終わると、
「捨ててくる」
と焼却炉のほうに向かおうとする。
エイナルファーデが、そんな、と叫んだ。
「修理すれば、まだ使えるかも……」
キホは静かな顔で首を振った。
「一度折れたところはどうしたって弱くなる。それこそ、一流の職人に任せない限り。槍はそういうものなんだ」
「そんな……」
「じゃ、私が捨ててくるよ。自分で捨てるよりはいいでしょ」
キューナは右手を差し出した。
キホは手の中の槍を見下ろす。それから、痛みを宥めるようにフゥと息を吐いて、小さく礼を言って、木片をキューナに託した。
***
「こんちは」
「あ、はい、こんにちはー」
キューナがその足で訪れたのはもちろん、武器整備士の青年の元。
先日扉が壊れたと聞いたとおり、間に合わせのカーテンがかけられている。その隙間からキューナが顔を出すなり、青年は「あ、おひさしぶりですー」と痣だらけの顔で笑んだ。
「あの、これ修理お願いしたいんですけど、直りますか?」
キホの槍を差し出すと青年は目を輝かせ、折れ目を見るなり険しい顔をした。
「あー槍かー。ばっきり折れちゃったんですか……こーれーは、ちょっとお時間かかりますねぇ」
キューナは驚いて青年の顔を見た。
てっきり「無理です」って言われると思ってたのに。それを拝み倒して、中央の有名な整備士のところに送らせようと思ってたのに。
「……直せるんですか?」
細身の青年は、キューナが手渡した片方の棒を持ち上げて、断面の凹凸をじっくり見ている。
「うーん、中継ぎ材とか、塗装とか、中央から取り寄せないといけないなぁ……これの応力計算式、どこやったっけ……」
しばらくブツブツ言っていた線の細い青年は、「よし」と棒を置くと、キューナに目線をあわせてにっこりした。
「半月弱かかりますがー、よろしいですか?」
「お願いします。――あ、あとこれ、他の人には見つからないようにしてもらっていいですか」
「そうですねー、上等な品ですもんね。久しぶりに修理しがいがありますよ。ねー師匠?」
奥の部屋にのんびりとした声をかければ。
「まだ見てない」
「あ、そでしたー」
現れた小柄な老人は、どれ、と折れた槍を受け取り。
「……もったいね、こんな良い木、北にはなかなか出回らねぇぞ。あー、無理やり割ったな。大した剣でもねぇくせに……」
「はい……」
別にキューナが悪いのでも、キューナの槍でも、キューナが切ったわけでもないのだけど、しばらく続く耳に痛いお説教を黙って受け取って。
「じゃあこれはお前に任せる」
老人が槍を青年に戻す。
「良いんですか? 面白そうなの師匠いっつも自分でとっちゃ……ぶっ」
立ち上がった老人に容赦なく蹴り飛ばされた青年は、あっけなく床に顔面をぶつけて、そのまま動かなくなった。
「……えーっと」
弟子を「貧弱」と罵った老人は、
「仕方ねぇんだよ、急に大佐どもから山のような依頼が入ったんだから」
と忌々しそうな顔で、傍らに立てかけてあった大振りの剣を手に取ろうとして、
「おっと、その前にアンタの剣が先か」
キューナの腰の剣に手を伸ばした。
「あ、いえ、私のは異常ないので、その槍だけ」
「何言ってんだ、この基地で異常のない武器なんてあるか」
それはそうなんだけど。
いいから整備させろ、と言い募る老人に根負けして、キューナは鞘ごと腰のベルトから外して差し出した。刀身を見るなり、満足そうな笑顔を浮かべた。
「へぇ、ちゃんと磨いであるじゃねぇか」
「それは、同じ班に得意な人がいて……」
テキパキと整備の手を動かしていた老人が全身の動きを止めた。刀身を傾けてじっと見てから、キューナを見上げて不思議そうな顔をしてから、柄のゆがみを直し始めた。
「お前、南のチビだろ。中央に栄転って話までは聞いたが、いつの間に北なんかに?」
「…………へ?」
作業の手を止めない老人のうつむいた額をキューナは呆然と眺める。短くざっくり切られた金髪が、槌を振るうたびにゆれている。
「5年ぶりくらいか? こっちは剣の磨り減り方ですぐに分かったわ」
「……ああ!」
その台詞、前にも聞いた。
「や、だって、前とはずいぶん印象が違う……」
「お知り合いでしたかー。師匠は毎日違うカッコするんですよー」
いつの間にか復活した弟子が顔を上げてにこにこ笑う。鼻の頭が真っ赤になっている。
「えーと、あの目立つ作業着じゃなくなってるし……あ、髪も染めましたね」
「3つ前の色に戻しただけだ」
いつものこと、と言わんばかりの言葉と一緒に、ほら、と剣を返される。
「ま、せっかくここまで来たんだ、せいぜいあのやんちゃな子たちに性根鍛えてもらいな」
ここの荒れっぷりを「やんちゃ」と形容できるのはこの人くらいじゃないかな、とか考えながら剣を受け取り、腰から下げる。落ち着き払ったキューナの様子に、老人は呆れ顔になり、追い払うように手を振って言った。
「こちとらしがない武器整備士だ、言っとくが騎士同士の物騒なごたごたに巻き込まれたって助けしないからな」
***
連日のように、ルームメイトの寝息が全員分聞こえてくるのを待ってから、人知れず宿舎の部屋を出たキューナは、1階の廊下をゆっくと進む背中を見つけて足を止めた。
包帯の巻かれた頭部、見覚えのある茶色いくせっけ。
「キホ? こんな夜更けに……」
呼びかけて近寄ると、びくん、と大仰に肩が震えた。
「……ル」
振り向いた両目は赤く充血している。呼気に混じる、かすかな吐瀉物のにおい。月明かりでも分かるほど、血の気のうせた顔色。
事情を把握したキューナは、その広い背中をぽんと叩いた。高い位置にある顔が徐々に俯く。
「昼間に騒ぎすぎたせいかな、寝付けなくて。付き合ってくれると嬉しい」
そっと声をかければ、わずかに唇が動いたのが見えた。
ゆっくりと階段を下り、無人の食堂に並んで座る。暖炉を点けようとしたらキホがいらないと止めたから、暗く寒いままの部屋で、部屋から取ってきた毛布に丸まって、ただじっとしている。隙間風が甲高い音を鳴らす。
「待ってる人がいるんだ」
ぽつりとキホが言った。キューナの黒目がゆっくりと動いて、キホの横顔に向けられる。
「必ず、生きて戻ると、約束した」
噛み締めるように呟く。奥歯が軋んだ音を立てる。
「もう何人死んだ? 本当に、ここは刑務所以下だ。こんなんじゃ……その前に、頭、おかしくなる……先輩みたいに」
キホは何かから逃げるように背を丸め、震えの止まらない指先を握りこんで、膝の間に挟む。
「先輩って」
キューナの記憶は赴任初日にさかのぼる。初めて会ったとき、入隊試験の前に言っていた人のことだろうか。
「ああ……そういえば話したんだった」
宙をにらんでいたキホの目がキューナを捉えて、わずかに表情を緩める。
「俺に槍術を教えてくれた先輩なんだ。ずっと憧れていた。すごく強かった。――なのに、なのにだ」
ひく、とキホの喉が鳴る。
「戻ってきたって言っただろ。命からがら戻ってきたさ、だが――町一番の医者が、一目見るなり諦めろと言ったよ。記憶はところどころ抜け落ちて、家族の顔も分からない、よくパニックを起こすし、食事も一人じゃ摂れない」
「……それは」
人員不足でやむなく駆りだされた、最前線の若い騎士に良く現れる症状だ。中央州でも、今のところ有効な治療法は見つかっていない。
「先輩が自分で選んだ道だ、俺も自分でこの道を選んだ。騎士として生きると、生きるために騎士になると。……だけど!」
どん、とキホの腕がテーブルを叩いた。乱暴なしぐさで顔をぬぐって鼻をすする。
キューナは黙ってうなずいた。
終わりの見えないこの状況が、若い騎士にどれほどの強いているか、改めて痛感する。今すぐ対処できることが、何もないことも。
***
キホを部屋まで送った帰り道、キューナは廊下から星を眺めていた。眺めながら、キホの言葉を何度も何度も反芻する。
まぶしすぎる月明かりから避けるようにうつむいて、ここにいない相手に向け、呟いた。
「大丈夫。鍛え上げて――みせますよ」
かつて自身がそうされたように。
人は必ず強くなる。そう願えば、必ず。
そうやって、毎回、幾度となく乗り越えてきた。
冷え切った頬を、生傷の絶えない頬をさすって、少女は人知れず白い息を吐く。




