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Hard Days' Knights  作者: 里崎
二週目編
15/73

14.文官と噂


翌朝。

起床するなり、キューナはざっと青ざめた。

――ヤバい。昨日ので左腕が上がらない。

同室の皆が起き出す前に、薄暗い寝台の上で体を不自然にひねりながら、なんとか隊服に着替える。

でも、それだけのことで力尽きた。寝台に突っ伏している間に、エイナルファーデが起き出してきて目を丸くする。

「キューナ? 行かなくていいの?」

「うん、行く……」

「珍しいね、キューナが寝坊なんて。どうせまた遅くまで起きてたんでしょ」

ふふ、となぜか嬉しそうに笑うエイナルファーデに、ああうん、と曖昧な返事をして身を起こす。

ふー、と長めに息を吐いて、指を動かし、手首を回し、肘を動かす。肩を動かさないよう意識しておけば、ここまでは動く。冷や汗は滲むけど。

髪を梳かし始めたエイナルファーデの後ろを通り、何食わぬ顔をして部屋を出る。


水汲みのバケツは右手の力だけで運んだ。朝食は配膳作業をパスして、種取りと皮むきの作業を選んだ。

なんとかごまかして朝の仕事をこなして、班に合流する。

大あくびをした班長が、袖の金属を避けるように手首をひねって目尻の涙を拭う。

「おい、隣がいねーぞ」

作業場の空間、一班分が丸ごと空いている。

ああ、と副班長がこともなげに答える。

「昨晩逃げた」

彼らの足元にしゃがみこんで穀物を脱穀していた新入り三人はわずかに反応したが、互いに目を合わせただけで言葉を堪える。

頭上から、はーあ!と班長の盛大なため息。

「毎年こうだよ。進歩ねぇなァ」

班長の足が不満そうにがつがつと壁を蹴る。

「で次は『下りる』『出て行く』『蹴られる』だろー? 片付ける奴の身にもなってみろよ」

「おい、アサト大丈夫か」

聞いただけで腰が抜けたらしいアサトは、カクンと膝立ちになって、魂の抜けたような顔をしている。

小さくイグヤが囁いた。

「……何の話だ?」

「さぁ」

キューナは短く答えて首を振り、脱穀を終えた穀物を麻袋に入れて口を閉めた。右手で持ち上げ、左手を添えるようにして貯蔵庫(サイロ)へと向かう。

『蹴られる』は分かる。馬にわざと蹴られて一生差し障る負傷をして、騎士の職を辞することだ。

『下りる』はたぶん、南州騎士団史で『飛ぶ』と言っていた奴だろう、宿舎の窓からの飛び降り自殺。

『出て行く』とは何だろう。逃げるの次にやること。密告か? 法廷か?

誰も見ていないことを確認して、貯蔵庫(サイロ)の扉を足で開ける。重い麻袋を右手一本でひょいと放り投げて、頭上数メートルの高さに積み重ねる。

「あ、ペヘル」

扉を閉めたところで、タイミングよく通りかかった青髪の少年を呼び止める。先ほど気になったことを聞くと、途端に暗い顔をした。

「それを知ったとき、僕は一晩で三回吐いて、それから三日眠れなかった。それでも聞く?」

「うん、大丈夫。お願い」

すぐにうなずけば、ペヘルは同族を見るような目をして「物好きだね」と小さく呟いてから教えてくれた。

「『下りる』はそれであってるよ。『蹴られる』は行動としては同じだけど、即死狙いのことね」

「……え?」

「脱走兵は処刑。負傷しても文官やハウスキーパーや農夫としてなら働けるからって、退役制度は廃止になったんだ」

「ええ……」

何それ、勝手すぎるよ北州騎士団本部。眩暈がする。

「で、『出て行く』は文字通り、夜に宿舎を出ること」

「逃げたってこと?」

「いいや。逃げられないと知った人が、宿舎から出るんだ」

キューナは頭に手を置き懸命に考えて。

「同じじゃないの? どういうこと?」

「宿舎の入口は衛兵がいるから戻れない。この氷点下の中で一晩。どうなるか分かるでしょ」

「……なるほど」

聞いているだけで身震いする。

「一年! 集合だ!」

A班の子が偉そうに叫びながら、廊下を駆けてきた。さっきまでいた部屋から、イグヤとヤサルタが顔をのぞかせた。

「行こうか」

「うん、何だろうね?」

ペヘルと一緒に向かいながら、荷運びだったら嫌だなあ、と浮かない顔で相変わらず動かない左の上腕をさする。ぴりぴりとしびれるような痛みに指先がうずく。

歩きながらキューナは考えをめぐらせる。何人かは上官の隙を見て、こっそり逃がせばいいと考えていた。それも難しいのか。

天井のしみを、なんとはなしに眺める。


***


別棟の隅の、日当たりの悪い部屋。

行き慣れない一角に新人だけが呼ばれ、集められて長いすに座らされた。さほど広くもない部屋にすし詰めにされた状態でどよめいている。

「で、何するんだ?」

周囲の気持ちを代弁したようなでかい声が響く。

「あ、俺、先輩に聞いた。文官サマのありがたーい授業らしいぜ」

ぎゃはは、と数人の蔑んだ爆笑が部屋に散らばる。

「俺ら武官が文官に教わるなんざ、屈辱以外の何者でもねぇな」

「さっさと追い出そうぜ」

「ちょっとびびらせりゃすぐ終わるだろ」

 先輩たちの目がないことでか、調子付いた奴らが誇らしげに腰の剣を叩く。

「勝手なことを……」

 ペヘルが人知れずぼやいた。

 扉が開いて、青白い顔の男がそっと顔を覗かせた。やせぎすの手足をぎこちなく動かして部屋の中ほどまで入ってくると、

「……トララード、と言います。よろしく」

ぼそぼそと聞き取りにくい声で小さく名乗って、頭を下げる。

みっともない態度に、失笑が漏れ聞こえる。

がすん、と前列の一人が教壇を蹴った。それだけのことで文官の男は異常にびびって、抱えていた書籍を教壇に落とした。それを笑う声。

「とっとと始めろよ」

なおも続く野次に、優しげな顔立ちの男は泣きそうな顔になったかと思うと――

切り替えるように、大きく息を吐いた。

かつん。

白墨が、明澄な音を立てて黒板を打った。

「えっと……この講義では――スカラコット国州騎士団の理念、組織構造、実際の戦術、体術、剣術、それから人体の構造、応急処置の方法など、ここ北州騎士団の、特に前線で生き抜くために必要な知識について一通り説明する」

淀みなく始まった講義。

「まず、勝利とは何か。これをきちんと理解しておかなければいけない」

何も見ずにさらさらと増えていく板書は、瞬く間に、広い黒板をびっしりと埋め尽くした。

さっきまでの怯えた面影は、もうどこにもない。

徐々に、全員が真顔になって背筋を伸ばす。

「一個人のケンカでの勝利と、騎士の戦争における勝利とは大きく意味が異なる。騎士は誰しも、どうしても、目の前の一勝という功績にすがりつきたがるものだが、戦争と言うものは、最終的に勝ちさえすればいい。負けるときは盛大に負けてやるといい。そうすれば相手の慢心につけこむことができるからね。相手も人だ。意外と思われるかもしれないが、軍事に心理学は有効だ、機会があれば学んでおくことをお勧めする」

入手しやすいところでは、と書名と著者名を数冊分挙げつつ、板書を全て消した。

話を変える、と言い置いて、手元の分厚い本を開く。

「近年の軍事出動は人数も兵力も拮抗していることが多い。条件がほぼ対等の場合、闇雲に圧しても効率が悪い。重要なのは、要所――押さえるべき地点を押さえる方法を、まず第一に考えること」

淀みなく話しながら、さらさらと「よく在る市街地」の地図を描く。町の中央をぶち抜くように太い線を下ろした。

「大抵の町には運河なり湖沼なり、水辺があるものだ。特に我が国、中でもここ北州は雪山からの激流が多く、橋を落としてしまえば容易には越えられない。知らない町でもまずは川を押さえることを頭に入れておくように」

 市街地の地図の上に、無数の陣形を描いていく。

「で、これが川を挟んだときの態勢。陣形の指示方法は次回の講義で説明する。ひとまず上段の10個は、直近の演習でも実践するから覚えておくように」

一呼吸おいて手元の本に目を落としたトララードは、ふむ、と小さく呟いて、本を閉じた。

「本日はここまで。何かあればいつでも聞いてください、……では」

徐々に小さくなる声で最終的にはぼそぼそと呟いて、手早く書類をまとめたかと思うと、逃げるように部屋を出ていった。

室内に広がる、しばしの静寂。

ざわめきが戻った後も、トララードをバカにする言葉は聞こえなかった。


***


夕食。

隣の席にやってきたエイナルファーデにトララードの名を伝えるなり、顔を赤らめてはしゃぎはじめた。

「ああ、かぁっこいいよねー!」

「う? うん。……えっと、そうじゃなくって」

「わかってるよ、頭いいって話でしょ? ここだけの話、次の文官のトップに内定してるらしいよ!」

「納得だな」

うなずくイグヤの横で、ペヘルが何ともいえない顔をしている。それをキューナが指摘すると、小さくうめいてから答えた。

「……強力なライバルだ」

聞きつけたイグヤが驚く。

「何、お前、文官志望なの」

「うん。死亡率がぐっと下がるから」

「そうだけど。もったいね、お前、武官の訓練ついてこれてるじゃん。同じ上官でも、武官と文官とじゃ、権限も給金も段違いだぜ?」

ペヘルは首を振った。

「僕がついてこれてるのは、幸運なことにウルツトと同じ班だから。僕は名声とか興味ないし、生きていくための安定した給金がもらえれば、それでいいし。だからベストは北州騎士団本部の文官トップ。文官で入るとバカにされるし昇進も遅いから、武官で入っただけ」

「ふーん、考えてるなぁペヘル」

キューナたちが口々に褒めても、ペヘルは浮かない顔でため息をついた。

「驚いた。まさか、この北州騎士団の文官の中に、あんなすごい人がいるとは思わなかった。あの人が引退するまで叶わぬ夢かもな」

でも、とエイナルファーデがにこにこ微笑む。

「トララードさんの目に留まれば、優秀な部下として引き抜かれるってこともあるんじゃないかなー。あの人、身分とか年齢とかに左右されない人選で有名だし、それで色々学んでからでも遅くないと思うよー」

「……なるほど」

興味深そうに数回うなずくペヘル。それで気をよくしたらしいエイナルファーデが、あっと大きめの声を上げる。

「そうだ、ねぇこの話知ってる?」

「なに?」

嬉々として話題を変えたエイナルファーデに、周辺の新人たちが集まって耳を寄せる。ここ最近で身につけた習慣だ。変なことで楽しげに騒いでいると、あとでとばっちりが来るから。

 エイナルファーデが、あのね、と明るい声で切り出した。

「中央騎士団のアルコクト中将が、ここ北州騎士団本部に、視察に来るって話!」

 口にスープを含んでいたキューナは、盛大にむせた。

「だ、大丈夫か、ルコックド」

 キホの言葉に、涙目のまま3回うなずく。

 そうか、北州騎士団の全員にとうに伝わっているもんだと勝手に思っていたけど、今知ったのか。どおりで話題に出なかったはずだ。

 間違いないよ、とエイナルファーデは胸を張った。

「さっき高官たちが話してるのを聞いたの。到着予定日は過ぎてるから、そろそろいらっしゃるだろうって!」

 おお、と何人かが期待に目を輝かせた。

「あれだろ、アルコクト中将って、すっげ強えーんだろ」

「5000の騎馬を30の軍勢で蹴散らしたって聞いたぜ!」

 ヤサルタが自分のことのように自信ありげに言った。

「あ? 300って習ったぜ」

「イグヤ正解ー。しかも、中央の民衆の一番人気!」

「そんな人がいらしたら、さすがの上官たちも今みたいな横暴はできないだろ」

おおっと期待の声が広がる。

「いやでも、俺はガスティオルク大佐に来て欲しかったなぁ」

「俺はウォルンフォラド中将派かな!」

「やっぱイイミイ戦だよなぁ!」

 急に熱く語り始めた皆の中で、

「ん、どうしたルコックド」

キホが、不自然な角度に顔をそらしていたキューナに気づく。

「……いやー?」

 キューナは曖昧に笑った。目が泳ぐのは隠しきれない。

 自分のももちろんそうだけど、仲間たちの普段の馬鹿さとかだらしなさとか、無数のアホな失敗談とか、功績以上に色々知っているし、ほぼ身内感覚なだけに、ひどくむずがゆい。

 でもこれで、とりあえず姓は間違いなく伝わってることが判明した。

「じゃあこの情報は知ってるか?」

 次は誰のむずがゆい話だ、と身構えるキューナの脳が、次の言葉で冷水を浴びせられたように固まった。

「来年はゼグテムに攻め込むらしいぜ」

 キューナの手が止まった。いくつかの小国を隔てた先に広がる大国の名に、皆がどよめいた。

「え、なにそれ知らない」

キューナは声が震えないように努めながら、なんでもないことのように聞いた。

「……それ、国全体で?」

「いや? 北だけで成果上げるって」

「この体制で? なんて無謀な……」

「あいつらはそんなこともわかんないんだろ。ただ土地と金と功績が欲しくて騎士やってんだ。どうせまず死ぬのは俺らだ」

「……俺、生きてられっかな……」

 一人のぼやきに、全員が黙り込む。

 キューナは皿を見つめながら、冷静に頭を回していた。

 これで納得がいった。あの異様な兵糧の貯蔵量、武器を集めるような口ぶり、異様な合同演習の回数。兵糧の固さから、まさか遠征かなとは疑ったが、そんな生ぬるい話ではなかった。この状況で、あの大国相手にふっかける気だとは。

 単なる噂とか、誰か遠い未来の野望だと笑って流すには、この目で見た証拠があまりに多すぎた。この食堂で話している彼らが思っているよりも、事態はかなり切迫している。

 波紋の消えたスープの水面に、自分の顔が映っている。

(……期限が付いた)

 誰が問題かの目星をある程度つけたあとに、中央の人間を入れて少しずつ人員整理していくつもりだったが――そんな悠長なことは言ってられなくなった。

 ――来年の計画を出す今月末までに、全ての不穏分子を調べ上げて徹底的にたたき出す。

 でないと、国全体が弱る。そんな暴挙に出られたら国が滅ぶ。今、はっきりと分かった。

 南と西は境界線の小競り合いが続いているし、中央は王政のごたごたで手が放せない。東は慢性的な人員不足が今年は特に深刻だし、今、北が勝手に戦争をふっかけでもしたら、収束させるのはひどく難しい。というか相手が相手だ、ほぼ不可能だ。

 目を閉じて、信頼して送り出してくれた中央州騎士団のみんなの顔を思い浮かべる。

 ――勝手して、ごめん。ちょっと無茶すぎる行動かもしれないけど。

 だけど、やるべきことがある。偶然の事故で得られた、現場に限りなく近いこの立場、この状況なら、中将として視察するよりも得られる情報は遥かに多い。

 だから。


 キューナは笑顔で席を立つ。

「ごちそうさま。――ごめん、ちょっと今日は先に抜けるね」


***


足早に人の間をすり抜けて、キューナは上官用の宿舎に入った。

「……えっと、文官ってどこだっけな、どっかの隅に固まってたような……」

見回せばちょうど、ネクタイ姿の隊服が一人歩いてきた。ネクタイは文官の証だ。重そうな書類を抱えてふらふらと進む細い背中を追って、廊下を進む。周囲が文官ばかりになったあたりで、若そうな文官の一人を呼び止めた。

「あの!」

びくりと肩を震わせて、おそるおそる振り返る猫背。キューナの胸元を見てネクタイがないことに気づくと、半泣きの悲鳴を上げて数歩下がった。

「ああえっと、ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんですけど。トララードさんの部屋ってどこか分かります?」

「あ、ああ……ひとつ下の階の、一番奥だ」

次期文官トップ内定にしては意外すぎる位置に、え、と間抜けな返事をあげてしまう。下の階は日当たりが悪く、一番奥の部屋は遠くて不便。

何を誤解したのか、文官の青年は慌てて両手を振った。

「ち、違う……トララード中佐が自ら選ばれたんだ。別に誰かが」

「あぁうん、そうですよね」

昼間の謙虚な言動から、なんとなくそんな感じがする。誰かが押し付けたとかじゃなくて。

礼を言って立ち去ろうとするのを、あああ、と慌てた声が呼び止める。

「今向かうなら、ここじゃない、執務室だ」

「え、こんな時間まで?」

「ああ、毎晩もっと遅いんだ。……君からも言ってやってくれないか。あの人、仕事はとても早いけど部下の手伝いばかりしていて……そのうち体を壊してしまう」

 なるほど。部下からの人望は厚そうだな、と頭の片隅にメモして。

「執務室の場所、教えてもらえます?」


***


宿舎と違い、この時間の執務室周辺の人通りは少なくて、身を隠す必要はほとんどなく辿りつけた。

ようやく見つけたトララードは、ちょうど明かりのついた部屋に入っていくところだった。閉まった扉に駆け寄って、扉の隙間から中を覗く。

「お疲れさまですッ」

中で書き物をしていた部下らしき青年が立ち上がって一礼するのを諌めて、トララードは簡素なソファに腰かけた。部下と書類を挟んで2、3やりとりを交わしたあと、数秒目を閉じてじっとしたかと思うと、すぐに立ち上がって棚の書籍を漁りはじめた。

いつになくくたびれた顔の上官を心配する部下が、書類をまとめながら声をかける。

「新人の講義でしたっけ」

トララードが息を吐く音と、ネクタイの金具を緩める音。

「ああ。次回はいつだったかな」

「今、確認します」

棚の蝶番が軋む音。

「やっぱりこの時期が一番憂鬱だな」

「何か、どこか……」

慌しく駆ける音と、棚から何かを取り出す音。

「いや、大丈夫、仕舞ってくれ。今年は何も起こらなかった。が、やはり……さすがに疲れた」

 ふぅと汗をぬぐうトララード。

「来週は、私が替わりに行きましょうか」

「いいや、任せられないよ。兵法においては最初の座学が何よりも大事だから。それに、例年通り、あと二回だ」

「……そう、ですが」

(……あと二回?)

キューナは首をひねった。新人向けの座学は週に三回、一年間続くものだ。

「それより、三班は皆で来月からの準備をしておいてくれ。さっき渡しただろう、分母が多い分、なかなか揃っている。来月以降も着いて来れる子が多そうだ」

「ええ、拝見しました」

……なるほど。来月には上位者だけの講義に切り替わって、残りは人手として駆り出されるってことかな、と推察する。

確かに、あれだけ充実した講義は中央でもそうそう受けれない。キューナの頭には既に中央で実践に直結する内容は入っているが、あんな深い理論までは習ったことがなかった。どうにかして着いていきたいなぁ、なんて天井を見ながら考える。

部下の青年がトララードを呼ぶ。

「二班から全体計画の草案が上がってきました。どうぞ」

「部隊構成予算は?」

「明日中にはできあがると」

てきぱきと関連資料を広げ、トララードの言葉を聞きながら部下が修正点をまとめていく。

キューナは闇夜の中でまばたき。

(……もしかしなくても、武器計画とか予算とか、年初総案、全て文官だけで決めてるってこと?)

計画会議は?第三者監査は?

本来必要な話がさっきから一言も出てこないことにとても不穏な予感がする。

そりゃ、大半の武官にとっちゃ、あんな数式だらけの書類、他のどの執務よりも面倒くさがってるのは間違いないけど。中央のみんなだってそうだし。クウナだってそうだし。

北州騎士団本部の文官の数は驚くほど少ない。当初の視察ポイントのひとつとして数えていたほどだ。

それなのに、現場を知る全将校が数ヶ月かけて策定していく計画を、大半の演習に参加できない文官がこの人数で作るなんて、異常だ。無謀すぎる。もう一次監査が終わっていてもいい時期なのに、まだ草案の話をしているのもうなずける。

それでも毎年、きちんと期日までには中央に届いている。

(一体、どうやってるんだか……)

積み重なった書類を順に振り分けていた部下の青年が、あ、と言って豪華な封筒を持ち上げた。

「トララード中佐、またアカデミーから封書が届いています」

「紹介状はそこにある、いつも通り同封して返送しておいてくれ」

「……その、いいんですか、本当に。戻る先があるのなら」

「戻って欲しいのか?」

「いいえ……いえ、はい」

ふふ、とトララードの笑い声。

「大丈夫だ、どうせここまで乗り込んでくるほど気概のある人間はいないさ。君のほうこそ、いいのかい」

「私ですか?」

「ああ。幸いにして、私の弟子を欲しがってくれている場所は多い。君が望むのなら、この紹介状に名を足そう」

「結構です。これ以上、文官の手を減らしては公務が回りませんよ」

青年は首を振って、ペーパーカッターを封筒に刺してさくさくと開封し、いつになく枚数の多い便箋を取り出す。一文めを見るなり、目を見開いた。

「と、トララードさん! 理事会からです! これ以上辞令違反をするのなら、研究教授の地位を剥奪すると!」

「理事会にそんな権限はないよ。それに、研究資金のために得た地位だ、失っても惜しくはない」

「で、ですが……」

「――ア……」

思わず声が出て、キューナは慌てて口をつぐむ。

(アアアアカデミーの研究教授……?!)

その驚きは、絶叫になっていてもおかしくなかったと思う。

要は、国公認の栄誉職だ。学者たちの最高峰、憧れのてっぺん、国一番の天才の代名詞。人生をひとつの研究にすべて捧げてきたような80歳過ぎのじいさんどもしか就けない職だと思っていた。

そりゃ、そんな人がこんな治安の最悪なところにきていては、アカデミーも必死になるわけだ。

「さて、年初総案の話に戻るが――」

不意に、室内の会話が止んだ。硬い声が飛んでくる。

「……誰だ?」

(やば)

死角に逃げ込もうと進めるキューナの忍び足に、何か光るものが引っかかる。

(……トラップ用のテグス、か)

キューナはとっさに隣室の扉を開けて飛び込む。

トララードの部屋で呼び鈴が鳴る。間髪入れず、扉が蹴破られる音。

「くだらねえ用事だったらぶっ飛ばすぞ」

トララードとも部下の青年とも違う、乱暴な声がする。

「申し訳ない、侵入者です」

トララードの言葉に、舌打ちがひとつ。

「またか」

「このところ大人しかったのに……」

乱暴な足音が廊下に出た。

キューナは部屋の奥の書棚に駆け寄り、棚板を右手で掴んでよじ登る。棚の上に飛び乗り、天井に両手をつっぱらせて、不安定な棚が揺れるのを全身で押しとどめる。

「……っ」

左肩が激痛を訴える。

扉が開く。視界がうっすらと明るくなる。キューナは息を止めた。

苛立たしげに歩き回る音がする。板張りの床が軋む。そんなに音立てたら誰でも逃げれちゃうって、とお節介なことを考える。

ランプの明かりが揺れるたびに動く影をじっと見つめる。

男は「逃げたか」とぼやいて、トララードの執務室に戻った。

「オイ、本当にネズミは引っかからないんだろうな」

「宙に浮くネズミがいたら、可能かもしれません」

真面目腐ったトララードの屁理屈に、男はぶつくさと文句を言う。

「いい加減、剣のひとつも覚えたらどうだ」

「努力はしていますが、難しいですね。貴方の部下には泣いて止められました」

「ああ、報告は受けている。素振りで自分の手首を斬りおとしかける、って逆にどうやるのか教えて欲しいね」

安物のソファのバネが軋む音。

「ああそうだ、明日の晩、グルソーブ邸の会食会に招かれた。お前も同行しろよ」

「私、グルソーブ殿との面識はありませんが」

「いいんだよ、お偉いさんにはお前の肩書きが効くんだ、知ってるだろう。俺にはなにがなんだかサッパリだがな、印象付けるには好都合だ」

「はい、でしたら同行させていただきます。――さて、さっきの作業の続きを」

「はー、まだやるのかよお前ら。とっとと終わらせろよ。宿舎に戻るときに起こせ」

「はい、ありがとうございます」

トララードは返事をしながら廊下に出る。

静かな廊下にトララードの明瞭な声が響く。

「出てこないなら、不審者発生として元帥および上官全員に報告するが――」

数分の静寂の後、トララードの背後から部下がおずおずと言った。

「あの、中佐……も、もういないのでは……」

「うん、それならそれに越したことはない。はぁ、面倒なことにならなくて良かった。念のため、身辺には気をつけてくれ」

「はい」

再び閉じた扉に、キューナはそっと息をつく。

棚から飛び降りて痺れきった右腕を振る。

「……あれ? ここって」

目についた背表紙の文字列に近寄る。武官たちの執務室では見当たらなかった機密書類がずらりと並んでいる。適当な一冊を棚から引き抜いて開く。丁寧な字が並ぶ。きちんと文字の筆順を学んだ者の字だ、文官の可能性が高い。

本来なら武官の各将校が提出すべきものだ。なるほど――これら全てが文官の仕事に回っていて、使い勝手の良い使いっぱしりと言うわけか。もったいない。

「おっと」

踏み出しかけた右足を止めて、目を凝らす。足元に張られた細いテグスが月明かりにきらめく。

(……落とし穴とか、バネ仕掛けの槍とか、仕掛けられてそう)

頼もしいと苦笑しつつ、探していた資料を引き抜いて開く。

隣室に続く戸の隙間から、漏れていた明かりが消える。キューナは闇の中、動きを止めて身構える。

戸の向こうで武官の男がぶつくさ言いながら、文官二人の片づけを急かす声が聞こえて、三つの足音が廊下に向かう。

足音が聞こえなくなると、夜の静寂がキューナを包んだ。


***


ふと目を覚ましたトララードは、時刻を確認するため寝返りをうって、窓に薄く開けた目を向け――

「――!!」

反射的に飛び起きた。

閉めたはずの木戸とガラス戸は大きく明け放たれ、差し込む月明かりを背に、窓枠に悠然と腰かけている人影があった。

とっさに叫ぼうとしたトララードを――完全なる逆光の中、人影は片手をあげて諌めた。

「ご心配なく、味方です」

若く高めの声。聞き覚えはない。

聡い文官は身動きすることなく、乱れた呼吸と全身の震えを止めるべく意図的に呼吸を深くする。忙しなく視線を周囲に動かす。

その間じゅう人影がそれ以上動こうとしないのを見て、トララードは相手が対話を求めていると推測を立てる。すぐに殺されることはなさそうだ、と自身を落ち着かせるための言葉を内心で繰り返す。

夜風でカーテンが揺れる。

トララードは乾ききった口を開いた。

「……それは、どういう」

人影は組んでいた足を組み替えて、ひとつうなずく。

「あなたの理念に賛同し、知恵を借りたいと思って来ました」

「私の、理念?」

人影がわずかに動く。一枚の紙がひらりと漂い、トララードのいる寝台の手前に落ちた。

予算分配明細表だ。

みまごうことのない自身の筆跡。執務室の一番奥、普段は使わない書棚の隠し戸に保管してあったはず。

まじまじと書類を見下ろすトララードに、人影が薄く笑ったような気配がした。

「先ほどは、お手を煩わせて失礼しました。ご名答、やはりネズミではなかったよ」

「……なるほど……貴方が、先ほどの」

トララードは未だ震えの止まらない指を伸ばして、床の書類を摘み上げた。

「その……これが、何か?」

「まだ書くべきではない。早急に処分してください。見る人が見ればすぐに気づく」

そんなはずはない、という反論を、トララードは未消化のまま飲み込んだ。現にここにいたのだから――

「部隊構成書と物資配送指令書はあなたの頭の中? なら、ひとまずこれだけか」

部隊構成書も物資配送指令書もなしに、トララードの思想と目的に気づいた人間が、一人。ブラフでもなく問いかけでもなく、正面きって断言するほど、確信している人間が。

「あんなところにわざとらしく隠していたら怪しすぎる。たとえあなたの考えが分からなかったとしても、何らかの意図があると思い調べますよ。どうせ、その気になればすぐに作り直せるのでしょう?」

「……ええ、私が死なないかぎりは」

なるほど、と人影がうなずく。

「では、これを」

トララードの立つすぐ真横、寝台の枕の上にぽんと落ちたのは、使い古された木製の呼び笛。武官将校に支給されるものだ。革紐の結び目はひび割れ、かなり年季が入っているものであることが見てとれる。

「他人のお古で失礼。何かあれば全力で吹いてくれ。可能な限り駆けつける」

「……それは」

「あなたをここで失うのは惜しい。が、出ていけと進言しても、従ってはくれないのでしょう?」

「……一体いつから聞いていたのですか」

トララードは笛を手に取って手のひらの上で転がす。特定の音しか出ないように細工がしてある。規定の信号にはない音階だ、なるほど、これで他の将校の呼び笛との混同を防げるというわけか、とトララードは感心する。

人影が言った。

「何か質問は?」

「……私がしてはならないことと、すべきことを教えてください」

「正体は詮索しないでいただきたい。それ以外は特に、ありませんね」

おおよそ闇夜の脅迫者とは思えぬ明るい声で答えた相手を、トララードは不可解そうな目で見ようとして、あわてて視線を伏せる。人影はクス、と笑い声をもらして「ありがとう」と礼を言った。

「さて、それでは今晩はこの辺で。また来ます」

人影が背を向け、窓枠に立つ。

その背が消える前に、不意に焦りを感じたトララードは、つい問いかけた。

「『まだ』とおっしゃいましたよね。――実現できると、思いますか」

人影が肩を揺らして愉快そうに笑う。

「もちろん。どうにかしますよ」

頼もしい一言。別れの挨拶と同時に右手を振り、人影がひらりと消える。外套のすそがはためいて下方へと落ちていった。

トララードは、しばらく無人の窓枠を眺めていた。夜風に揺れて擦れるカーテンの音の合間に小さく呟いた。

「……それにしても、どうしてこんな時期に……?」

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