13.火種
その晩。寝静まった北州騎士団本部。
キューナは本棟に侵入するため、通用口に向かっていた。人通りが少なく、月明かりでは影になる方角にあるその扉は侵入するのにうってつけの入口だ。
扉の前に人の気配がして、キューナは身を隠しながら戸口の様子を伺った。そして、ゆっくりと首をかしげた。
断続的な物音と、「くそっ」とか「ちっ」とか、焦りを含んだ小さな悪態が聞こえる。
本来は、戸口の横でこちらを向いて直立していなければならないはずの衛兵が、こちらに背を向けてしゃがみこんでいる。
何をしているかは、すぐにピンときた。本来なら夕暮れ前に済ませる作業だ。この暗闇ではまだしばらくかかりそうなその様子に、意識がよそに向いているのなら通りやすい、とラッキーを喜びつつ通り過ぎようとして――おや、と立ち止まった。
夜風に乗ってひときわ鮮明に聞こえてきた声と、近づいて見えた背格好から、個人が特定できたから。昨日一度聞いただけの声と、同じような薄暗闇で見ただけの背格好。
キューナは少し考えて、右手をコートの下に忍ばせる。左手で帽子の位置を前にずらす。
「――火種、あげようか」
声をかけるなり、ものすごい勢いで彼の左腕が振り抜かれる。キューナは数歩さがって体を逸らし、一閃をかわした。その身のこなしと想定よりも小柄な体躯に、青年の顔が驚きにあふれる。開けた間をすぐに詰めて、
「遠慮せず、どうぞ」
引いていた彼の右腕に、キューナは取り出した火種を一つ握らせる。青年の、鍛錬を積んだ厚い皮膚の感触に、思わず先輩面で、感心だ、などと考えて。
「じゃ、駄賃ってことで。ここは通してね」
蹴りあけた扉の中に転がり込むようにして、キューナは駆け出した。角を曲がって長い廊下に出たところで、後方からがしゃがしゃと騒々しい金属音と、足音が聞こえた。まさかと振り向く。
「うわ」
さっき見た人影が、ランプを片手に追ってきていた。キューナの足が速度を上げ、暗い廊下を駆け抜ける。
やっぱりあの門番、只者じゃない。事なかれ主義者が多い中で、考えなしに突っ立って門番やってるわけじゃない。きちんと身を入れて警備の仕事に就いているし、さっきの一閃からすると、ここでは珍しく、年齢相応の実力も身につけている。
だけど、ランプを手に持ち火を気にしながら走っている限り、手ぶらで全速力のキューナが追いつかれることはそうそうない。かといって彼が光源を捨てれば、わずかな月光すらも届かないこの廊下では、追いかける対象を闇の中で完全に見失う。
そう、計算していたのに。
足音が急に近づいてきたかと思うと――背後からの衝撃。二人はもつれあって倒れこむ。
「は――?!」
大男の全体重でのしかかられれば、キューナの体術では通用できない。
ぐっと肩の付け根を圧迫される。左の肩甲骨の上に大きな膝が乗る。
「所属と、名を名乗れ」
息切れ混じりの声が、すぐ真上から降ってくる。
キューナは答えないまま、軽く身をよじってあごを引く。走ってきた薄暗い廊下が続いている。その一番遠いところで、ランプの炎が小さく揺らめいた。
なるほど――とキューナはカラクリに気づく。廊下に入った途端にランプを置いて、この直線で捕まえるのに賭けたってことか。そこまでは頭が回らなかった。
「おい、」
頭上からの急かす声と意図的に増やされた荷重で、現実を思い出す。
この展開は非常にまずい。この暗さでは顔までは見えないだろうけど――帽子を取られたら、体格と髪の長さですぐに特定される。
仕方ない、とキューナの手が音もなく腰のフラップに伸びたところで――
近くの扉がバンと開いて、女の悲鳴と男の怒号が響き渡った。
「た、助けて、助けてえええ!」
「うるせぇ!」
門番の意識が少し逸れたスキに、全身に力を入れる。
「……おい!!」
ごり、と不吉な音を立てた左肩に構わず、体をひねって門番を振り払い、歪んだ姿勢のままで駆け出す。追ってこようとした足音は、男の声に呼び止められてすぐに途切れた。代わりに聞こえてくる背後からの会話。
「衛兵、ちょうどいい。コイツを門まで捨てて来い」
連れ込んだらしい商売女の処理を命ずる尊大な声は、門番が「侵入者が……」と言いかけたのを遮った。
「んだと、歯向かう気か?!」
「いえ、ただ今」
そこまで聞こえたところで、キューナは手近な部屋に飛び込んで扉を閉めた。
室内に人の気配がないことを確認して、錠を下ろす。
ハッハッと自分の呼吸がやけに大きく聞こえる。痛みに目が回る。左の上腕が熱湯に沈められたように熱い。心臓が両耳についているみたいに、鼓動がうるさい。
さっきから一向に震えの止まらない右手で患部を撫でると、玉のような脂汗が額から床に落ちる。出血はない。脱臼しかけているらしい左肩を、一気に押し戻す。
「……ぐ、う」
途端に走る電流のような痛みに、奥歯を噛み締めて耐える。吐き気も一緒に堪える。
「これは、まずいかも、ね」
独り言の軽口すら、気休めにもならない。
寄りかかっていた壁からずるずると崩れ落ち、板張りの床にうずくまりながら呟く。
不気味なほどの静寂の中、横になったキューナは目を閉じて、ゆっくりと数を数える。シャツの下に手を差し入れて、腫れてきた患部を強めに押さえる。
夜風に、窓がかたかたと鳴った。
300まで数え終えて、キューナは上体を起こした。冷や汗をかきながらなんとか曲げ伸ばしができることを確認して、
「うん、折れてはない、な……よし、動ける」
ずきずきとした痛みを振り払うかのように首を振る。壁を支えにして立ち上がる。
二間続きになっている隣室に移り、暖炉の脇の古びた木戸を蹴り開けた。ぽっかりとのぞいた空洞に迷いなく頭をつっこむ。
隠し通路というほどでもないけど、建造時の作業通路だ。想像通りの構造を確認して、全身を引き入れ、内側から木戸を元に戻す。手と足でつかまれるところを探り、
「よっと」
弾みをつけて、右腕の力で全身を天井裏へと引き上げる。突然の物音に驚いたネズミが悲鳴をあげて一目散に逃げていく。
ところどころ開いた板の隙間から漏れてくる月明かりやランプの明かりに照らし出されて、不気味な空間が広がっていた。
耳に引っかかったクモの巣を払いのけ、足元の板が軋まないことを確認してから、膝立ちになって進む。こんもりと積もる土埃が、進むたびにひどく舞い上がるのが見える。
ひときわ明るい隙間を見つけて、キューナは板の隙間から階下を覗きこんだ。
数人の年若い上官がジャケットの袖をまくり、談笑しつつナイフダーツに興じていた。彼らの片手のグラスでは濃い紫色の液体が揺れ、キューナのいる天井にまで芳醇な香りが立ち上ってくる。
「そんで?」
手持ちの5本のナイフを投げ終えた一人の青年がソファに戻る。反り返るように背を伸ばし、おもむろにそう言って、端に座る一人を一瞥した。
指を組み、じっと俯いて座っていたその男は、呼びかけにわずかに顔を上げる。
その表情を見て、青年が堪えきれずに吹き出した。
「ははっ、なんだそれ、そんなに?」
身を揺らして笑い、両足を放り出す。その足に蹴り飛ばされたサイドテーブルから、投擲用のナイフがばらばらと床に落ちた。その音に何人かが振り返って、笑い転げている栗毛の青年に歩み寄る。
「どこだって? そんな意外なとこ?」
「いんや、まだだ。でもまぁ、聞いてみるもんだな」
上機嫌な声でそう言って、またも動かなくなった男を無遠慮に見回してから、青年は紫色の液体をあおった。空のグラスをテーブルに転がして、目を細めて低く呟く。
「ふーん。じゃあ、いいんだな」
男の肩が怯えるように揺れた。
意地悪い笑みを浮かべて席を立とうとする青年を、男はすがりつくように引き止めた。
「ま、待て、待ってくれ、」
たんたん、とジャケットの裾を掴まれた青年の靴先が、急かすように床を叩く。
男は俯き、自身のジャケットの下に手を入れる。震える手の上には、小さな木箱が乗っていた。
青年の指先がそれをつまみ上げ――木箱はテーブルの上を滑り、対面にずっと座っていた別の男の手に収まる。
木箱を出した男は頭を押さえて力なく俯き、掠れた声で何事か懇願している。栗毛の青年が軽薄に笑う。
「それはアンタが一番よく分かってんじゃねーの?」
木箱を受け取った金髪の男は、足元に散らばる投擲用のナイフをひとつ拾い上げて木箱に差しこみ、板をひっぺがす。中をのぞきこんで、最上級の感嘆詞をもらした。取り巻きの人間がげらげら笑った。
「あっけねぇな」
「や、約束だぞ、全部教えた、だから彼女だけは」
焦ったように言って腰を浮かせる男に、侮蔑の目が集まった。
「頼まれてもあんなの相手にしたかねぇよ。騎士団の女なんてごついだけで、なにがいいのかわからねぇ、なあ?」
下卑た賛同の声に囲まれて、男は立ち尽くし顔を真っ赤にしてこぶしを握り締める。
かたん、と部屋の隅の椅子が鳴った。皆が振り向けば、細身の男がコートを羽織っている。
「おい、どこ行くんだ」
栗毛の青年が聞く。コートの前を合わせた男は、扉を開けながら答えた。
「話はついたんだろう。他の女を探してくる」
「ははっ、ほどほどにな」
「おい、賭けはまだ」
呼び止める声に、ダーツボードを指さす。中央に寄せ集まるように突き立つ5本のナイフ。
「またお前の一人勝ちかよ」
悔しそうなわめき声にひらりと手を振って、男は部屋を出て行く。
覗き込んでいた姿勢から身を起こしたキューナは、部屋を出た男を追って、梁を越えて廊下側に進む。男は三つ隣の扉の前で左右を見てからノブを握り、扉に顔を近づけ何事か呟く。内側から錠の開く音。再び注意深く廊下を見回してから男は扉を開け、滑り込むように入室した。そこまで見てから、キューナも部屋の上に移動する。
廊下と同じくらい薄暗い部屋だ。物置らしき手狭な室内の中央で、芯を削られたランプの明かりが心もとなく揺らめく。それを囲むように、膝をくっつけあうようにして座る、三人の男が見える。
「何で今日に限ってここなんだ。気づかれるぞ、近すぎる」
「仕方ないだろう、まさか執務室でダーツ片手間にやりやがるとは思わなかったんだから」
「問題ない、鍵はかけた」
わはは、と先ほどの部屋の方向から賑やかな声が聞こえてきて、会話が一度途切れた。移動してきた黒髪の男がコートの前を開けながら首を振る。
「あのバカ騒ぎがこのくらいに聞こえるってことは、まぁ大丈夫だろう」
「これで? どんだけ騒いでるんだよ」
黒髪の男が肩をすくめる。
「まだ耳鳴りが収まらん。あんまり騒ぐと大佐が来るぞ、とは、一応言ったんだがな」
「樽、持ち込んだんだろ?」
「ああ、大盤振る舞いだった」
「なら無理もないな」
はぁ、と一番奥の席に座る男がため息をつき、その風で明かりが大きく揺らめいた。
「――で、どうする」
こぶしをあごに当て、鋭いまなざしが闇の中に光る。
「献金の件か? あれは少佐が話をつけた」
「あの殺し屋がうろついてる。『下草』の派閥も一晩で綺麗に片付いたろ。嗅ぎ付かれたら終わりだ」
「中央への密告の件はどうなった」
力なく首を振る。
「何日過ぎたと思ってる。帰って来ないということは、そういうことだろう」
「……手詰まりか」
重苦しい空気が小部屋に満ちる。
「焦っても仕方ない。他に何か、気になる動きは?」
「ファートフの証拠隠しの手口が分かった」
「ほう」
「無関係な文官と弓兵を半数ずつ使っていたよ。狡猾なことだ」
「ああ、それで思い出した。グルソーブの屋敷が新しく数台の馬車を買った。近々動くかも知れん」
「まずいな……この忙しい時期に」
「だが、考えようによっては使節団長殿の移動前でよかったかもしれないぞ」
「そうだな、あの式典を狙っている奴は多い」
「ああ、それと、『丘』に気をつけろ。俺たちのことに気づいたのかは分からないが、各勢力をかぎまわっている節がある」
「まさか。あいつは今、傭兵に追われてるはずだろ?」
「その噂を流したのがヤツ本人だという説があってな。トララードの、いつもの根拠のない憶測だそうだが」
聞いた二人がうめいて黙り込む。
「……そんなところか。ことを焦って死んでしまっては元も子もない、気をつけろよ」
「わかっている。お前らもな」
さて、と一番奥の男が腰を上げて、中央のランプを吹き消した。




