9.G班(後編)
笛の音に集まるが、上官の姿がない。
「……いないすね」
「ああ、ソニカ中尉は少し遅れて来るから」
寄って来たログネルが口にした名を聞いて、ジュオが小さく口笛を吹いた。
「女性すか?」
「うん。ほら、来た」
ログネルが示す先にはこちらに向かってくる人影がひとつ。
すらりと伸びた細身の体躯。長いアッシュブロンドの髪が風になびいて艶めく。分厚い外套の上からでも分かる体型の凹凸に、下劣なスラングがそこかしこで囁かれる。
「美人だ……」
ぽつりとイグヤが呟いて、ヤサルタもうなずいた。
キューナは、二人に倣ってソニカを見つめて、首を傾げるだけ。ウォルンフォラドや部下たちに「美的感覚が狂っている」と散々言われたことを思い出したので、それ以上の考えを放棄する。
女性の上官は腕組みをして立ち、各班の班長を集めて午前の報告をさせたあと、一歩進み出た。威圧するように敬礼の班員たちを見回して、温度のない一言。
「裏山2周」
それだけ告げると、さっさと本棟に去っていく。
「……」
昨日は何とか一周できた。今は帯剣していて昨日より重い上に、増えている。
年長者たちがさっさと門に向かうのに、慌てて新入りたちもついていく。
「くっそおおお、綺麗な人なのに……」
走りながらヤサルタがわめくと、周囲に白い息が広がった。
後ろから、キホの冷静なアドバイス。
「騒いでると疲れるぞ」
「この朴念仁が」
***
走り終えて戻ってきた敷地にソニカ中尉の姿はない。むわりと広がる汗と泥のにおいの中、草の上に座り込んでぜーぜーと荒い息を繰り返す。
早々に回復した年長者が真剣の打ち合いを始めるのを、若手が呆然と見上げている。
「なぁ、これ、戻ったらまずいよな」
額の汗を拭ったイグヤが、投げ出した足をそわそわと揺らす。
「うん、たぶんね。練習する?」
「いや、俺は仮眠するわ。なんかあったら起こせ」
「おっけ」
膝を抱き寄せ顔を伏せたイグヤを確認してから、キューナは、目を輝かせて先輩がたの剣を眺めるヤサルタの横に座り込んだ。
数分後、少し離れたところで他班の班長たちと話し込んでいた班長が足早に戻ってくる。
「一年!」
キューナは反射的にイグヤの背中を叩いて起こし、ヤサルタの腕を掴んで立ち上がった。
「一度しか教えねぇぞ、しっかり見てろ」
班長はそう言うとおもむろに剣を抜いた。
嬉しそうに身を乗り出すヤサルタと、ぎょっとして身を引くイグヤと、直立不動でただ黒い目を丸くするだけのキューナ。三種三様のリアクションをフンと笑い、班長は両足を肩幅に開いて脇を締め、正眼、中段に構えた。ゆっくりと息を吸う。
「第一」
軽く振りかぶったあと、風切り音がして、剣はぴたりと元の位置で静止する。
「第二」
剣先をやや傾けての、横薙ぎの中段。
「第三」
踏み込んでの下段、
「第四、」
半歩下がっての上段、手首を返して突き出すような動き。
「と五だ。以上」
言うだけ言うと剣を収め、あっさりと去っていく。
無駄のない、綺麗な動きだとキューナは思った。自然すぎて、滑らか過ぎて――印象に残りにくい。こういうときは向いてない。
「え? ……へ?」
疑問符を浮かべるイグヤとヤサルタが目を見合わせて、口を開きかけたところで、
「――班長!」
息つく間もなく、本棟からソニカ中尉が出てきて班長を集めた。点呼を命じて人数を確認すると、一つうなずいて右手を挙げる。
「解散ッ」
号令を聞くなり、G班の一年めは慌てて作業場に向かった。駆け出したのは当然ながら3人だけだ。一度だけヤサルタがすがるような目をして先輩がたを振り返ったが、副班長が睨みつけると慌てて顔を正面に戻して去っていく。肩をすくめた副班長が周囲を見回し、
「ソイ、暇なら手合わせ――って、なんだそれ?」
変なところにしゃがみこんでいる班長に気づいて近寄った。班長の足元には、草が途切れて砂地になっている。そこに書かれた大量の図形と数字、アルファベット。罫線が数十本。
「知るかよ」
「は?」
「俺が書いたんじゃねぇ」
「……そういや、さっき一年たちがこのへんにいたか?」
班長は返事をせずに、地面に広がる、整然とした羅列を見つめている。副班長は練習相手にアサトを誘って去っていく。
しばらく地面を睨みつけていた班長は、やがて低く呟いた。
「……なるほど、な」
***
本棟の正面口が開け放たれた。扉の両脇に立つ屈強そうな門番は、典礼用の装飾槍を持って待機している。
そこから足を踏み入れるとすぐに広がるのは、絢爛豪華な中央広間。かっちりとした礼服を身にまとったA班の面々が、ほこらしげに整列している。
A班一年めの二人が進み出て、入口に近寄った。到着したばかりの馬車から降りて、広間に入ってきた二人の男を出迎える。指示どおりの簡潔な口上で、トゥイジ元帥と自身の父とを紹介する。社交辞令の応酬ののち、親しげに肩を叩きあった三人は、用意してある応接間へと移動する。
「伝令が足りんそうだ。おい、伝えて来い」
「はい」
ヤサルタとイグヤは応接間の用意とやらに狩り出されていて不在。必然的にキューナが返事をして、一人で廊下を駆け出した。
少し隙間の開いていた扉の間から一瞬だけ見えた景色に、
「あれ、さっきの」
速度を変えずに廊下を進みながら、キューナはぽつりと呟いた。
見かけたのはソニカ中尉だった。絢爛豪華な応接室の中央、異様に大きなテーブルに広げられていたのは、きらびやかな宝飾品の数々。その前に立った彼女は、それらを嬉しそうに満足そうに見下ろして、商人らしき男と何か会話を交わしていた。
「……えーっと」
彼女と、彼女の下に就いている騎士たちの俸給を階級からざっと試算して、先ほど見えた限りの宝飾品の時価と比べてみる。
暗算は苦手だけど――どう足しても到底足りないことははっきりと分かる。彼女が入隊当時からこつこつ貯金していたとしても、だ。
考えられる可能性は。
「贋作、脅迫、横領、盗品、密輸入品、何らかの別の収入源、遺産、そんなものかな……ああ、あと、異性からの貢物」
一人で、一つずつ潰してかなきゃいけないのか。
気が滅入りそうになるのを吹っ切るように、凝り固まっている肩を回した。
***
アゴロが現れて怒鳴った。
「なにしてる、飼料はどうした!」
班長が固まった。朝の指示では明日運ぶはずだった。
積まれている麻袋の量を見たアゴロは途端にまなじりを吊り上げて、更に怒鳴り。
「毎度毎度……面倒だな。班長!」
青い顔の班長がさっと進み出る。背中で組んだ手が震えているのを班員はただ見守ることしかできない。
「班の代表だ」
そう言うなりぶっ飛ばされる。
班長は腹を押さえ、血を吐いて倒れた。悲鳴が上がる。
それで気は済んだらしく、飼料は放ったまま、笑いながら立ち去るアゴロ。
ぐらぐらと揺れて霞む視界の中、すくんで動けない他の奴らを差し置いて、班長に真っ先に駆け寄ったのは――新人の、黒髪の少女だった。
飛び散る吐瀉物と鮮血に躊躇することなく班長を助け起こすと、口に指をつっこんで、呼吸を妨げるものを掻き出す。班長はむせこんで息を吸った。その背を懸命にさする、あたたかい手。
「お、お前……」
ひゅうひゅうと喉を鳴らして、班長がキューナを見上げる。
キューナは暗い表情で眉を寄せ、
「すみませんでした」
とだけ言って、手早く止血を始めた。
何の謝罪だ、とソイは声にしようとして、声は出なかった。
その後ろで鬱憤たまった先輩がたに、ヤサルタとイグヤがどかどかと蹴られている。
「うえええごめんなさいー」
頭を抱えてうずくまるヤサルタ。
急所をかばいながらイグヤがわめいた。
「ちょっと待て何であいつは……!」
「見て分かるだろ」
「ぐ、くっそ止血くらい俺だって、痛って!」
***
夕食中の班長の元に、黒髪の少女が周囲を気にしながら駆け寄ってきた。コートの下からこそこそと皮袋を取り出す。
「あの班長、これ薬」
小さな皮袋の口を開けて化膿止めを見せる。医師不在のこの敷地内ではかなりの貴重品だ。
「いらん」
班長は顔をそむける。
「でも」
「殴られたいのか?」
脅すように聞けば、俯いた少女は黙って去っていった。
「……くそ」
舌打ちをひとつ、班長はずきずきと痛む腹部を押さえて、食事を再開した。
***
夕食後、オサムとの自主練を終えて自室に戻ったソイは、早めに寝ようと剣を外して机に置く。そして、隣にあったものに目を見開いた。
そこに置かれていたのは――さっき見た皮袋と、茶色い小瓶。
ぎりと班長の奥歯が鳴った。
「……どうやって」
北州全土から集まった騎士たちの目をかいくぐって、新人が一人でこの部屋まで忍び込んできたとでもいうのか。
廊下に話し声と足音が聞こえて、去っていく。
しばらく立ち尽くしていた班長は、ハ、と笑って、小瓶を手にとり、
「まさかな。誰かに頼んだに決まってる」
中にあった錠剤を手のひらに広げた。
適当な数を口に入れ、奥歯で噛み砕いて嚥下して。
「……まっず」
ぴりぴりとした刺激を訴える舌を口腔外に突き出しつつ、寝台に向かって歩き、ブーツを履いたまま寝転がる。
「ち。本物か」
覚えのある独特の苦味に顔をしかめつつ、昼に上官から受け取った紙束を手元に引き寄せて、順に数枚めくる。不意に手が止まり、興味深そうに片眉が上がる。
「……へぇ」
深爪気味の指先が、一番上の氏名欄をなぞった。
隅々まで目を通してから、黙って一枚めくる。今度は途端に眉間にしわを寄せた。
「こっちはほぼ白紙かよ」




