日本の片隅で蝶は羽ばたく
く、くるしい。
息が上がり、肩が上下する。
うさぎが宙を舞う。ポーンと弧を描いたそれは、住宅の屋根に引っ掛かる。
が、間をおかず起き上がりふわふわと浮いて私の元へ戻ってきた。
それを私は今度は道路に沿って投げる。より遠く、遠くへ。
もう、戻ってこないでぇ。
涙ながらの祈りも空しくうさぎはまた、私の元へ。
かれこれ5分ほど。
あらゆる方向、距離に私はうさぎのぬいぐるみを投げていた。
その全てが帰ってくる。無限に続くキャッチ&リリース。
なんだこれ、呪いの人形、いや呪いのぬいぐるみか。
「あの、そろそろよろしいでしょうか」
こちらはぜぇはぁ言っているのに、うさぎは余裕の声音だ。相変わらずおっさん声だけど。
何かの修行かと思う行為のなか、もう私にはわかっていた。
これがすでに八つ当たりであると。
そして、うさぎがテレビ番組の小細工なんかではないということを。
たぶん、うさぎが言っていることは本当のことなのではないか。
だけど……それをすべて認めてしまうのは悲しすぎる。
ああ、目から汗が。
うえええぇぇぇー。
何度目かわからない投擲の後、私は膝から崩れ落ちた。
「運命の糸……切れたって……」
嗚咽がこみ上げてくる。
それは両想いになっても、すぐに別れることになるのでは。
アスファルトにぽたぽたと涙がこぼれると、背中を柔かいものがポンとおかれた。
いつの間にかうさぎが戻ってきて、短い手を精一杯のばし私の背中をさすっていた。
「慰めてくれる」
顔を上げるとうさぎの無機質な目と合う。
「くらいなら、切れたとか言うなぁぁぁ――っ!」
むぎゅぅぅぅっ。
「あわわわ。千切れます千切れます」
私はうさぎの左右の耳を外側に引っ張った。
うさぎは両手両足をじたばた動かす。
「お、落ち着いてください。運命の糸は切れましたが矢代さまが心変わりしたわけではありません」
「ふへぁ?」
「矢代さまが唯間さまを嫌いになったわけではない、と言ったんです」
「それはつまり」
「矢代さまはまだ、唯間さまを好いておられます」
持っていた両耳を離し、うさぎが地面に落ちた。
体温が急上昇する。
す、好きだって……うへへへへ。
「強力なモテ属性は運命を歪めますが、急に人の心を変えるものではありません」
恥ずかしさのあまり、その場でくにゃくにゃと照れ隠しにタコ踊りをする私をよそに、うさぎは話し始める。
「周囲もモテに当てられはしますが、全員が好きに……一目惚れするわけではありません」
私もうさぎの話に真剣に耳を傾けた。
背筋を伸ばし正座する心積もりで。本当にはしないけどね、道路に正座とか足痛くなっちゃうから。
「分かりやすくこちらの世界の言葉で申しますと“フラグが立つ”だけですね。回収しなければ運命の糸は繋がりません」
「こちらって、どちらの世界だよ」
真剣だった分、盛大にこけた。
フラグて一般用語?
「しかしそんな事象、頻繁に起これば、いくらウブでピュアピュアで清純な心を持ち合わせようと、所詮男子高校生、ムラムラするのは時間の問題です」
「いきなり言い方が俗っぽくなったね」
「人間の男というものは狼だと研修で習いました」
「ぜ、全員がそうじゃないもん。主流は今、草食系だもんっ」
「例え、矢代さまが超奥手だったとしても、人の心とはうつろい易いもの。他の方と繋がる可能性は多大です。しかし、それはこちらとしても本望ではない」
そこでうさぎは言葉を切り、俯いた。
ファンシーなうさぎの顔に影が射す。
「“神々の記録書”に反します」
「神々の、記録書?」
聞きなれない単語に私は眉をひそめた。
「宿命論、因果律、アガスティアの葉……もしくはアカシック・レコードと、こちらでは言われるものです」
聞いたことあるような、ないような。
困惑していると、それが顔に出ていたのだろう、うさぎはさらに詳しく説明してくれた。
「人の一生は決まっています。人は運命に沿って生き、運命によって死ぬ……一人の例外もなく」
あー、うん。
それはあれだ、理解できるかも。
漫画やドラマの主人公がよく、終盤の敵を追い詰めるシーンで「これも運命だ」とか言ったり、悲劇のヒロインが「これも運命……変えられないのね」とかさめざめ泣いて身投げとかしちゃうあれだ。昨日読んだ漫画『恋のルービックキューブ』略して『恋ルビ』でも「田淵くんと私、運命の赤い糸で……繋がって、る?」ていうセリフがあった。
「運命」って言葉はなかなか身近だ。
そのおかげで私は、うさぎの「運命の糸が切れた」という衝撃発言で顔も上げられないほどの失意のどん底にたたき落とされたんだけど。
「“神々の記録書”とはこの世界の運命がすべて書かれた書物です」
「すべて?」
「はい。唯間さまのことももちろん書かれておりますよ」
「え?」
「8歳2カ月で初恋。お相手は同じクラス、出席番号12番の田沢一弥さま」
「ええ?」
「理由は当時、毎週土曜7時放送中だった『電源戦隊カデンレンジャー』のリーダー、テレビジョンレッドに顔が似てたから」
「え、ちょっと?!」
毛穴という毛穴からぶわっと冷や汗が出た。
「10歳6カ月の時には、アニメ『ドリームハート・あんにゅいティンクル』にはまる。きっかけはヒロインの憧れていた先輩キャラが超好みだったから」
「まっ!」
み、身に覚えがありすぎなんですけどぉぉぉう!
しかも、私の恋愛遍歴とともにヲタ趣味まで披露されている。
公開処刑だよ。
「それからぁー、と、11歳4かげ」
「わああ、もういいですぅぅ!」
むぎゅうう。
私はとっさにうさぎの首を絞めて遮った。やわらかな反発が手に残る。
あ、ぬいぐるみだから、首絞めても声出せちゃうか。
「まぁ、このように“神々の記録書”には書かれています」
案の定、首を絞めたままの状態でもうさぎは咳ひとつせず、流暢に喋った。どこから声、出てるんだろう。
「けれど、思わぬ事態で記録書とは異なる道を辿ることがあります」
首を絞められても無表情。こわっ。
「それを正すのが、運命管理委員会である我々の仕事です」
「新たな運命を開拓! じゃダメなの?」
うさぎの言う“神々の記録書”というものの重要性が私にはわからなかった。
うさぎが、知らないはずの私の遍歴を言い当てたのはすごいを思うけど、だから何?とも思う。
朝の占いだってほとんど外れるのだ。
運命がわからなくても困らない。
私が絞めていた手を緩めると、うさぎはぎゅうっと目鼻口を中心に寄せながら私の手から抜け出した。
「バタフライ効果というのをご存知でしょうか?」
「何それ」
「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークに嵐が起きる……一応、こちらの世界の言葉ですが」
「き、聞き覚えないです」
うさぎから目をそらす。
「そうですか。ほんの些細な事象が巨大な事象を生むという効果。また小事から複雑な経緯によって、結果が誰にも予測不可能であることをさします。“神々の記録書”はそのバタフライ効果を凌駕するものです。しかしそれが一つでも狂えば、誰も未来を知る者はいなくなります」
「いいじゃない。予測不可能でも」
私たち人間には、どうせ未来なの知らされないのだし。
運命管理委員会。その名の通り運命を管理していると言われても大きなお世話というものではないだろうか。
「それは……」
うさぎの声色が急に変った。
何か台本を読むような、感情を表に出さない飄々とした喋りは止まり、今はそこから動揺が伺える。
「いえ……少し喋りすぎましたね……あなたには関係のないことだ」
「なにそれ、感じ悪い」
「まぁ、それに、運命を正すことが私どもの仕事ですから。困るのです」
「マニュアル役人め」
おっと、違う。マニュアル役兎?
「困る、と言われえても……私は全然困らないし」