第1話 商品のない本屋(4)
百聞は一見に如かずという言葉があるが、あまりに非現実的な事象を経験した場合、それでもなお脳の回路が正常に作動しないということを紙姫は初めて知った。
言葉が音声の羅列として流れ、意味をなさない。しかし今しがた体験したことを徐々に整理していくうちに、ようやくピントが合ってきた。
「『その後』、ですか」
「はい。物語には、必ず『終わり』が御座います。ですが、通常小説も物語も、ある個人を焦点に当て、その人生の一部を文字に換え、他者にも読めるようにしているのです。ここまでは、お分かりいただけますか」
「はい、なんとなく」
その言葉とは対照的に、表情は食らいつくので精一杯といった体である。
店主はそんな彼女にも嫌な顔一つせず、では、と話を変えていく。
「具体例を出しましょう。『浦島太郎』において、主人公は誰ですか?」
「浦島太郎さん」
「正解です。では、文字として表されている部分はどこでしょう」
「浦島さんが、亀を助けてからおじいさんになるまでのエピソードです、ね?」
何度も読み、日本人の多くがその内容を諳んじることができるはずの文章なのに、いざ内容を問われると言葉尻が上がってしまう。
店主は相変わらず見えているのかいないのか他人からは判別しにくい眼のまま、紙姫の回答を満足そうに繰り返す。
「亀を助けてから、おじいさんになるまでのえぴそーど……。なるほど、仰る通りです。そして、そこまで理解できたのなら話はもうほとんど理解できているようなもので御座います」
店主の視線が、紙姫から本へと向けられる。
「本には、全て語られない部分が存在しています。その部分をより近くで観賞するのが、私共「後伽の書店で御座います」
ここまで言われて、紙姫はようやく納得した。つまり、浦島太郎で言えば彼の人生を全て追うことができるということか。
「その通りでございます」
満足そうに店主が頷く。その一方で、紙姫は顎に指を当てて首をひねっている。
「あれ、でも……あの浦島太郎、少し変でしたよ?」
「そうです。では、貴方が入り込んだ浦島太郎がどのようになっているのか、今度は書物の形式で読んでみてください」
店主はそう言って、スタンドに備え付けられた本を彼女の前で広げて見せた。年季の入った本らしく開くと少し黴のような臭いがした。
「えっと、『ある日、浦島太郎がいつものように海に魚をとりに行く途中、砂浜で大きな亀に出会いました。亀はとても気持ちよさそうにしていたので、浦島太郎は何もせずその場を去っていきました……』って、あれ、亀助けてないです!」
「それどころか、亀をいじめているはずの子供たちが一切出てきていませんね」
自身の知る物語とは全く異なる展開に驚愕しつつ、それでも指はページをめくる。亀とすれ違っただけで何もしなかった浦島太郎は、普通に漁へ行き、それなりの収穫をあげ、そして竜宮城へも行かずに家に帰ってしまっていた。
結びの一文は「こうして、浦島太郎は慎ましくも幸せな生活を続けていきましたとさ」となっている。おじいさんになることもない。
「昔の浦島太郎は、みんなこんな展開なんですか?」
間違いなくそうではないと思いながらも、紙姫は一応尋ねてみる。案の定、店主は首を横に振った。
「そんなことはありません。この店にある本はほぼ例外なく全て『語喰』に食われてしまっているのです」
「かたりぐい?」
聞きなれない単語に、真丸い彼女の目が更に大きく開かれる。まるで小動物のようなその出で立ちに、店主は笑みをこぼす。
「はい、語喰です。国語の『語』という字に、口へんがある方の『喰う』で語喰と書きます。彼らは、本来干渉できないはずの物語に干渉し、御伽噺の顛末を変更させてしまうのです」
俄には信じがたい話ではある。だが、彼女の目の前には一冊の本がある。『語喰』によりそのあるべき姿を変えられてしまった本が。先ほどまであった混乱も、もうない。
「語喰さんは、どうして物語に干渉するのでしょうか?」
「それを研究しているのは、世界で私ただ一人なので御座います。その私から言えるのは、何もわかっていないということだけです」
そもそも通常の人間では、本に入り込むことも、語喰に冒された本を見ることもできないのだという。
「私以外で、この本屋の書物を見ることができる人物を見るのは初めてで御座います。店の外であちこちから集めた本を貴方がじっと見ているのに気が付いたときは、それは驚きました。普通の人があれらを見ると、どうやら白紙にしか見えないようなので御座います」
「そうなんですかぁ……」
自分が特別だと言われているような気がして、紙姫は少しだけ鼻の穴を膨らませる。そんな彼女に、店主はほんの少しだけ困ったような表情をし、そして持っていた扇子で左の頬を軽く掻いた。
「そんな貴方に、是非ともお願いしたいのですが」
「え?」
急速に萎んでいく得意気に反比例して膨れ上がる疑念と、スパイスのように加えられる期待。その思いに、明治時代の書生を思わせる、丸眼鏡の奥に狐目を抱えた店主の声が続く。
「『語喰』の入るこの本を、あるべき姿に戻す手伝いをしていただけないでしょうか」
真っ直ぐに、紙姫へと射抜かれる視線。眼は見えない分、その真剣味を体全体で表現しているかのようでもあった。
……答えは、既に彼女の中で決まっていた。
「もちろんですっ!」
本を何より愛し、「紙の姫」の名を冠する彼女にとって、「語喰」のする行為は看過できない。そんな正義親ももちろんあったが、本の中に入り込み、主人公達の行動を間近で見ることができるというだけで、彼女にとっては耐えがたい魅力だった。例えるならば、アイドルの限定ライブの抽選に当たった時、とでも言えばいいのだろうか。
とにかく、紙姫はまるで後先を考えず本能のままに協力を応諾した。口の端を緩め、素直に感情を示した店主だが、紙姫が早速もう一度入りましょう、と急かすのには強く拒否の姿勢を示した。
「本の中に入るということは、存外体力を消耗しているのです。時刻も、もう夕刻を半分ほど過ぎてしまいました。女の子の一人歩きは何かと危険とも言います。後日改めてお越しください。私の方でも、『語喰』について調べを進めておきますので」
言われて紙姫はスマホの時計を確認した。不思議の国のアリスをイメージして作られた時計は、確かに午後5時の少し前を示している。窓から延びる太陽も、だいぶオレンジ色を帯びている。慌てて外に出てみると、東の山の端には既に紫色の空が重くのしかかっていた。
ここに来てから、もうだいぶ時間が経過していることに、今になって紙姫はようやく悟った。もうすぐ帰らないと、両親が心配してしまう。
「店長さん、私帰りますね~。またすぐに来ます~」
「お待ち申し上げております。あ、そうだ少しお待ちください」
そう言って店主は一度店内へと引っ込んでしまった。何かくれるのかと期待を寄せる紙姫だが、戻ってきた彼が持っていたのは小さな名刺だった。
『後伽の書店 店主 墨坂 継夜』
店名と、名前。店内で見せてもらった本と同じ、長年使われずにいた紙が放つ独特の黴のような臭い。
名刺というには、とても粗末なもの。だが、それを彼女に渡す墨坂は、紙姫が面食らうほど照れた表情を浮かべていた。
「これを渡せる日が来て、良かったです」
紙姫にはそれが、古ぼけた一枚の名刺が、幾千、幾万への世界を自由に行き来するパスポートのように見えた。