第1話 商品のない本屋(3)
白砂の砂浜に青い一本松。浜辺を横切る船の姿はない。人の影すらもない。潮騒の音しか響かない中に、紙姫は取り残されるように立ち尽くしていた。
先程まで立っていた書店の面影は全くない。数年前に最後に見た海の光景を思い返すが、ここまで砂浜の景色が美しく、そして店が全くない場所があるとも思えない。海原には船が係留されているが、御伽噺で描かれている木製の小舟しかなく、大型の船はない。
それ以前に、今紙姫のいる空間に人の手が入っているような印象がない。
まるで、この場所それ自体が、御伽噺の中にあるような……。
(まさか、ここは……)
景色が歪む前に見ていた本の内容を思い出し、紙姫の中にある仮説が浮かぶものの、突拍子もない内容に一旦は否定する。だが、結局他に説明できる理由がないため、堂々巡りするように結局は元の仮説に戻ってしまう。
『いかがなさいましたか?』
途方に暮れている紙姫の脳内に、聞き覚えのある声が聞こえる。
「店主さん、ここはどこなのですか?」
『ご想像していらっしゃるとおり、ここは先ほどの浦島太郎の作品の中です』
「ええっ!? ど、どういうことなのですか?」
想像していた通りの回答ではあったものの、現実に他人から聞かされてみるとその事実を受け入れることは思いのほか難しい。
紙姫はその名の通り本を愛し、本の世界を愛している。しかし、非現実的な展開が自らの身に降りかかった際、その事実をすんなりと受け止めるには、やや現実に浸っている時間が長かった。
それでも、何度も周囲の景色を忙しなく見ているうちに少しずつ落ち着いてきた。店主の声が聞こえているのも幸いした。
『混乱されるのも無理はありません。ですが言葉で説明するより、こうして実際に入っていただく方が遥かに簡潔であるため、こうさせて頂きました』
申し訳ありません、という言葉が脳裏に響く。だが姿は一向に見えない。
「あの~、店長さんはどこにいるのですか?」
『申し訳ありません。私は貴方と異なり、こうして声をお伝えし、貴方様をお導きすることしか出来ないのです。本の中に入り込める素養を持つ方は、決して多くはないのです』
本来の回転数を取り戻しつつある――と、彼女は思っている――頭で、紙姫は今置かれている状況を整理してみた。
「えと、今は『浦島太郎』の世界の中にいて、店長さんはこの世界にいなくて、つまり私は一人ぼっちで……あれ、ここはどの場面なのでしょうか?」
全然整理できていませんよ、と店主の声が聞こえる。心なしか笑っているような気がした。
『今は、『浦島太郎』の冒頭――つまり、浦島太郎が浜辺に行き、子供達が亀をいじめている場面を目撃している場面の少し前です。貴女がいらっしゃる場所は、亀がいじめられている場所からやや西にある人気のない場所です』
「私の姿は、誰かに見えるのですか?」
『いいえ、物語の登場人物からは貴女の姿は見えません。それは背反的に、貴女が何かしようと思っても、物語の人物へ干渉することは叶わないということでもありますが……』
(干渉することなんかあるのかな……?)
ふと紙姫は、自分が浦島太郎の玉手箱を開けるのを阻止する姿を思い浮かべたが、すぐに取り払った。いかに理不尽な終わり方をする作品でも、それは一つの作品である。
『念のため申し添えておきますが、物語を書き換えるような行為は禁則事項で御座います。誰であったとしても、著作者に対する、そしてなにより作品に対する敬意を忘れないようお願い申し上げます』
「はい」
もとよりそんなつもりはなかったが、紙姫は一応返事をする。声の向こう側が、その返事に安堵したことを彼女は知る由もない。
『では、向かいましょう』
店主が、まるで軽く背中を押すように誘う。その声につられるまま、紙姫は東へ歩いて行く。
白砂は美しさを保っており『環境汚染』など全く縁のない言葉のように思われる。これが実在の世界であれば鳴り砂になるのだろうが、紙姫が歩いても何の音もしない。振り返ると、彼女の足跡すら存在しない。
(私の重さもない……幽霊みたいな感じかな?)
そこまで思い至ったところで、一つ実験をしてみた。足を動かさずに前進できるのか。
両足を棒のようにし、体を前傾させていく。程なくして、紙姫の体は砂の上に倒れ込んだ。もっとも、音もなければ痛みも衝撃もない。地面と身体の間に薄くて柔らかい膜があり、そこに倒れ込んだかのようだ。
『何をなさっているのですか?』
店主の訝しげな声に、紙姫ははにかみながら呟く。
「えっと~、足を動かさなくても、歩けるかな、って。ほら、今の私、幽霊みたいなんでしょ幽霊ならすぅ~っと移動できるかな……って」
尻すぼみになっていく声と、湧き上がってくる羞恥心。反比例していく感情を、店主はあくまで優しく問う。
『それで、どうでしたか? 移動できましたか?』
「……転んじゃいました」
『そのあたりは、恐らく貴女様が最も想像しやすい形になっているので御座いましょう』
店主は何も見ていない。そばにいない。けれど猛烈な羞恥が彼女を襲う。誰にも干渉されないにも関わらず、頬の火照りが消えない。
『では、足を進めて先へと参りましょうか』
「……店長さんのいじわるぅ」
カーディガンの余った袖を上下に振って抗議の意を示すものの、その姿を視認できるものは誰もいない。
「あ、亀さんだ」
紙姫が亀の姿を認めたのは、海岸線と同じく緩やかな曲線を描く松林が切れたときだった。距離にして数十メートル先に、大きな亀の姿があった。しかし、まだ子供たちはいない。浜辺へと非常にゆったりとした速度であがっていく亀は、以前紙姫がテレビで見た光景にひどくよく似ていた。
「店長、亀さんがいました」
『近くに子供たちはおりますか?』
「いいえ……まだ見えません」
『そうでしょう。では、もう少しこのままお待ち頂いてもよろしいでしょうか』
店主に言われるがまま、紙姫はその場に腰を下ろして遠巻きに亀を観察することにした。観察し始めてから気が付いたのだが、体がないのであれば疲れも感じないのでないか。そう思ったものの腰を上げるのも億劫なのでそのまま眺めることにした。幸いなことに、亀の姿はそれでも認めることができる。
店主の話が正しければ、浦島太郎はもうすぐこの亀の下を訪れるはずである。すると、少なくても子供たちはそれより前に来ていて、棒やら何やらで彼の動物をめった打ちにしていなければならない。だが、子供たちがどこかから出てくる気配は一向にない。
そうこうしているうちに、浦島太郎と思わしき人物――藁でできた腰巻に、釣竿といった出で立ちだ――が紙姫が座る地点から反対の場所に現れてしまった。
「えぇ、浦島太郎さん、来ちゃいましたよ? 子供たち、まだ来ていませんよ?」
『……恐らく、この後浦島太郎は亀に目もくれず去ってしまうと思われます』
「え、でもそれって……」
私の知る『浦島太郎』とは全く違いますよ、そう言おうとして、次の瞬間彼女は口をつぐんだ。
店主の言った通り、浦島太郎は浜辺で甲羅干しをしている亀を全く気にかける様子もないまま砂浜を横切っていったのだ。
「……あれ?」
自身の御伽話とは全く異なる展開もそうだが、紙姫はもう一つ別の意味での驚きもあった。彼女が見ている場所が、一瞬黒く歪んだようだった。それだけではない。微かではあったがノイズのようなものも走ったような気がする。古い音響機器を用いた際に度々おこる、あのキーンとした音に似ていた。
『如何なさいましたか?』
「今、この中で変な音を聞いたんです。店長さんは聞こえましたか?」
『……いいえ、何も聞こえておりません』
自分の空耳であるわけがないと彼女は確信していた。耳の奥で、まだその時の不愉快な音が残響していた。
『さて、そろそろ一度貴女様をお引き揚げ致しなければ』
脳裏に、そんな声が響いた。
「え、こんなへんてこなままで戻っちゃうの?」
素っ頓狂な声が思わず口をついて出る。ここが仮想の空間でなければ、普段の彼女なら赤面して逃げ出すような状況であった。
『詳しいことはこちらに戻りになってからご説明差し上げます。まずは一度、お戻りになって下さい』
「……わかりました」
正直、名残惜しい気持ちがあった。だが、店主が帰って来いと言っている以上、断ることは紙姫にはできない。不承不承ながら頷いたところで、紙姫はふと思った。
ここから戻る方法を知らない。
『問題ありません。これからご説明させていただきます……』
その後、店主に言われるまま、紙姫は目を瞑った。準備完了です、と伝えると、店主が何か言葉を紡いでいるのが聞き取れた。
何かの詠唱が終わると、体がふと質量を得たかのように重くなっていくのを感じた。そして体は、少しずつ上昇していっているようだった。
少しずつ、少しずつ――
やがてトンという感触と共に、完全に質量を取り戻した紙姫の体が本の前に鎮座していた。目の前には『浦島太郎』の本。そしてその左には、
「お帰りなさいませ」
脳裏で響いた声の持ち主が、今度は実体とともにあった。そして質量と共に言葉も続く。
「これが、『後伽の書店』の売り物で御座います。この店の『商品』は、御伽噺の中、或いは書物で語られない『その後』を売る店で御座います」