第1話 商品のない本屋(1)
夜の間降り続いていた梅雨空も明け、久しぶりの晴れ間が顔をのぞかせる。
青葉についた水滴が、陽の光に照らされてキラキラと輝いており、時折通行する学生の姿を映し出していた。
水滴が葉を伝い、地面に落ちる直前に新たな人物の姿を映した。二人とも道の先にある中学校まで行こうとしているのだが、大股で歩く少女に小柄な少女がついていけず、半ばトテトテと小走りで追いかけるような格好になっていた。
「ま、待ってよ、ゆーちゃん!」
小柄な方が、僅かに息を切らしながら訴えた。脇に抱えているカバンが他の女生徒より大きく見える。子犬のようなふわっとしたツインテールが、小走りに連れてふわふわ跳ねる。
背の高い方がちらっと後ろを振り向き、仕方ないといった風に歩幅を狭めた。その表情は少し微笑んでいるのだが、後ろからなんとかついていけている体の少女には見えるわけもない。
「紙姫、アタシたち遅刻寸前だから少しは急がないと」
「でも、ゆーちゃん足長いから追いつけないよ~」
紙姫と呼ばれた小柄な少女、匂坂紙姫が両手を振って抗議の意を示す。薄桃色のカーディガンは袖が余っており、小柄な体躯と相まって愛らしい印象を与えていた。
ゆーちゃん――本名は汐田夕海――と呼ばれた背の高い少女は少しの間その計算されていない行動を堪能し、また歩き出した。歩幅を少しだけ狭めて。
「へへ、ありがと、ゆーちゃん」
(あたしも、甘いなぁ……まあ、可愛いからいいか)
満面の笑みを浮かべる紙姫に、抱きしめたい衝動を必死でこらえながら夕海は歩き続ける。その横を、小さな体で必死に追いつく紙姫。
頭一つ分の身長差がある二人の後ろに、生徒の姿はなかった。
梅の花が咲き誇る季節を迎えたせいか、高校の校門を抜ける辺りから初春特有の甘い匂いがふんわりと二人を包む。もっとも、可能な限り急いでいる二人には、そんな季節的な風情を楽しむほどの余裕はないのだが。
見頃の梅の木を過ぎ、もう少しで生徒用玄関が見えてくるあたりで、無常なチャイムの音が響いた。
紙姫の体はびくっとなり、夕海は諦めたようにため息をついて艶やかな髪を指先でつまんだ。そして紙姫に尋ねる。
「また遅刻だよ……」
「ゆーちゃん、私なんか気にしないで一人で行けばいいのに?」
眉を下げ、申し訳なさにうなだれる紙姫に、夕海はあえて拗ねた表情を見せた。化粧をしなくても端正な顔が、感情を素直に語っていた。
「紙姫が気にする必要ないさ」
「でも……」
それ以上、夕海は何も言わせないまま、小さな紙姫の手を握って強引に教室まで向かった。その途中、
「……ありがとう、ゆーちゃん」
と言われたことも、紙姫が自分の手をぎゅっと握ってくれたことも、夕海は無視した。
「おはよっ!」
「あ、レミちゃんおはよ~」
「夕海ちゃんもおはよっ」
一時間目の授業が終わり、移動教室もないので時間的に余裕のある休み時間。朝の挨拶ができなかった二人に、女子が何人か挨拶しにやってきた。
その度に紙姫は元気に挨拶を返し、夕海は静かに微笑むだけで対応した。仲のいい女の子たちでグループを作り、キャイキャイおしゃべりをする。
おしゃべりの内容は、放課後をどうやって過ごすか。意識はすっかり授業や勉強のことを排除してしまっている。
「夕海、今日はクレープでも食べに行かない?」
「いいわよ。でも、今日あたし夜忙しいから早めに帰らないと」
「紙姫ちゃんはどうする?」
グループの一人が紙姫に尋ねた。幼い顔を申し訳なさそうにしながら、彼女は首をプルプル振る。
「ごめんね、今日も図書館に行く予定なの」
「ほんとに紙姫ちゃんは本が好きだね~」
「だって、『紙の姫』だからね」
グループの誰かがからっと指摘して、全員が笑った。それと重なるように始業のベルが教室に響き渡り、それぞれが名残惜しそうに自分の席へと戻っていく。
全国の中学生がこなす、大切だけれども意味を見出すのはもっと成長しないと難しい時間。それは紙姫にも降り注ぐ。
退屈な授業とそれなりに美味しい給食、そして掃除の時間をこなして、紙姫は夕海たちと別れて一人家路につかなかった。
校門を抜け、初春の香り漂う住宅街をのんびり歩き、うきうきした足取りで目的地へ向かう。そんな彼女の背中で、ツインテールがぴょこぴょこ跳ねる。
弾んだ足取りで何度も通った道を抜け、坂神市――それが、紙姫たちが住む街の名前である――を南北に貫通する国道へと到着する。行きかう大型トラックが紙姫に排気ガスを吹き付け、彼女は涙目になりながらむせた。
歩道橋を渡った先に大きな市立図書館がある。紙姫にとっては通い詰めた場所であり、そしてそれ故に遠目で見ても違和感を覚えた。
駐車場に止まっている車の数が少ない。
(……あ)
そこまで思い至った時、紙姫は大切なことを思い出した。
市立図書館は今週一週間、蔵書整理期間のため閉館することになっていることを。
「えー」
頬をぷくっと膨らませるが、それで図書館が開館するような奇跡が起こるわけもない。
わかっていれば、今頃ゆーちゃん達とクレープ食べに行っているのになあ……とつい数時間前の自分を恨む気持ちも出てくるが、いくら恨んでも意味がないので我慢。
(えっと、これからどうしようかな?)
本を読むことが大好きな紙姫は、その反面読書以外の趣味に没頭できない。プリクラも、ゲームセンターも数えるほどしか行ったことがなく、化粧品などのオシャレは、興味はあってもお金がない。
だから、行き先に悩んで、どれだけたっぷり悩んでも、
「……本屋さんにいこっと」
少し気落ちしたような足取りで向かう先は、いつだって同じ。
図書館から北に行った先にある本屋は定休日であるため、商店街の一角にある古書店まで向かった紙姫だったが、買い物客がまばらに行きかう商店街の本屋には、見慣れない張り紙が張られていた。
『長らくのご愛顧、誠にありがとうございました』
「え……」
紙姫は言葉を失った。オシャレな音楽がかかっているわけでもないが、立ち読みを許してくれるわけでもないが、それでも古書特有の何とも言えない香りを蓄えたその古本屋は、幼いころから連れてこられた、紙姫にとっては馴染みのある本屋だったからだ。
「…………」
彼女の心にほとばしる喪失感が、潤んだ瞳で表象化する。小さな肩をプルプル震わせて切なさを耐える。不思議そうな表情で通行人が通り過ぎるが、死んだ魚のような目をしている他人に、中学二年生の女の子の深層心理が理解できるわけもなく。
必死になって寂しさをこらえ切り、紙姫はトボトボと元来た道を帰り始めた。心なしかさらに小さくなってしまった彼女の背中を、明滅する電灯が嘲笑う。
どのようにして帰り道を進んだのか、紙姫ですらよくわからない。ただ、痛む心を引きずるように歩いていたら、見慣れたような、でもやっぱり見慣れないような――少なくても何度も来たことはない不思議な場所に辿り着いた。
と言っても、絵本にあるような非現実的な世界への扉などがあるわけではなく、あくまでも坂神市内の大半を占める住宅地の一角……なのだが。