序章
目の前の化物は、これまでに戦ってきた何よりも強大で絶望的な力を持っていた。
血の滲むような努力で体得した幾百かの魔術は全くの無力であり、並ぶ者無しと評された絶大なる魔力は何の役にも立たないと判断せざるを得ないだろう。
目がかすれる。自分が今どんな状態なのかもわからなかったが、感覚の絶えた全身は正常ではないことは確かだ。
「……ン! レン!! 生きてる!?」
レンと呼ばれた男は、薄れゆく意識の中で彼女――ミリアの声を聞く。
金髪をボブカットにした彼女は全身傷だらけで息も絶え絶えだったが、その蓮の花を散らしたような美貌と意思のこもった瞳の輝きは少しもくすんではいなかった。
自分がこんな情けない状態だというのに、彼女は未だ剣を握り戦い続けていたのだ。
だが国王陛下から授かったその美しい装飾剣も、今や自らの血で見る影もなく汚れてしまっている。
「逃げろ。こいつには敵わない」
自分でも驚くほどのか細い声だった。
「あんた置いて逃げられるわけないでしょ!」
そう彼女が言い放った次の瞬間、手にしていた剣は化物に弾かれ宙へと舞う。
「……ッ!」
苦虫をダース単位で噛み潰したかのような顔で舌を打つミリア。
特に笑みを浮かべるでもなく──その仮面をつけたかのように固い顔面に表情筋があるのかは疑問だったが──化物は剣を弾いたのとは逆の手で今度は彼女そのものを殴り飛ばす。情けや容赦など欠片もない。あるのは表情に表れずとも悟れる明確な殺意だけだった。
悲鳴を上げる暇もなく、ミリアは突風で浮かび上がった紙切れのように吹き飛ばされ、石壁へと叩き付けられた。そのままずるずると床に滑り落ちて行き、ついにはレンと並んでぐったりとうなだれる。
「ミリ、ア……今、助ける」
ほとんどかすれて聞こえない声でそう言いながら、レンは苦しげな表情のまま右掌を敵に向け、頭の中で素早く術式を展開させる。だがたとえいかなる魔術を展開したとしても、トリガー・ワードを発しなければ話にならない。レンはなおもかすれ続ける声でその言葉を唱え終え、どうにか術を発動に持っていった。
極めて高度な式を利用した、通常の術師では及びもつかないようなレベルの魔術だ。発動した術式は敵の能面のような頭に白い光の楔を穿ち、続いて巨大な体躯のあちこちに次々と同じような楔を打ち立てていった。
だが――
通常弾けて対象を消滅させるそれらの楔は、その役目を果たすことなく虚空へと立ち消えた。
まただ。この化物は先ほどからこちらの術をすべて途中で強制終了させてしまい、おまけに手傷を負わせても数分と待たず見る目に修復していく。
こいつを倒し、長かった戦争を夜明けに導く?
できる筈がない。この国は明るくなりかかった夜のまま時を止め、もはや日の出を迎えることは無いだろう。
「この力。人間風情には過ぎた力だ」
不意に、それまでほとんどしゃべることのなかった化物が意外にまともなバリトンで呟き、レンに向かって彼の頭以上もある掌をかざす。
瞬間、レンはまるで自らの身体が数十年分老化したかのような虚脱感に襲われた。自分の中にある根源的な何か──魂や精神力──それらの一切合財が奪われていく。艶やかな黒だった髪も色を落としていき、次第に薄いグレーへと変色していった。
「レン!!」
どこにそんな力が残っていたのか、ミリアは子をハイエナに襲われた雌獅子のように猛然と化物につかみかかり、腰に下げていたささやかな短刀で斬りつける。だが化物は薄い鉄の刃などものともしない。
彼女もレンと同じく超人的な技能を持つ剣士だったが、この強大な敵の前ではまた等しく無力だった。
それでも、彼女は諦めない。
追い詰められた鼠が猫を噛む──そんな言葉では説明のつかない必死の抵抗の末、ついに彼女はレンを化物から引き離すことに成功した。
それでもなお迫り来る化物相手に、彼女は決して諦めることなく、先ほど弾かれ地面に突き刺さっていた剣を引き抜いて抵抗を続ける。剣姫という二つ名に相応しい……いや、それ以上の勇敢さで。
レンはその様子を、どこか遠くの国の舞台でも見ているかのような心地で眺めていた。
美しい。死の淵で、ただそう思った。
そのまま舞台は大きな、とてつもなく大きな白い光に包まれていく。
光が明けるのを見ることなく、レンの意識は深い闇に落ちていった。