11 はがれた仮面
遠くの方で水の跳ねる音が聞こえてくる。
そのことに一度気づいてみると、音はどんどん大きくなってきた。
「……うるさいな」
呟いてみても音は止まない。寝起きで正しく働かない頭で考えて、ようやく雨が降っていることに気づいた。
状況を把握するためにうすく目を開けてみるが、周りが暗くなっていることしか分からない。
それでも全くの暗闇というわけではない。視界全体がうっすらと白っぽい。夜明けなんだろうか。
というか何故か息苦しいような気が……。
そこまで考えて、ようやく自分の顔に何かが被さっていることに気づいた。
異常にだるい腕を持ち上げてその何かを掴み取る。
そして、それが何であるかを確認して、元々ぼんやりしていた思考が完全停止した。
掴んだそれは、白い布だった。
……なんの変哲もないだたの白い布だ。だが、使用方法に問題があり過ぎる。
「まだ死んでねぇっての」
白い布が顔の上に被さっている。その状態から読みとれることはただ一つ、被せられている人間はお亡くなりになりましたということだ。
しかし、こうして動いている自分が死んでるわけない。悪戯にしては悪質すぎやしないか。
そこでふいっと正面を向いていた顔を横に倒して見る。すると、自分のすぐそばに丸くなっているものが見えて、さらに混乱した。
小さい身体を丸めるように縮めて、自分が寝かされている布団のわきにへばりついている少年――クコだ。
眠っているクコの手にはしっかりと狐面が握り締められているものだから、ますます分からない。
こいつは、狐面を奪ったんじゃなかったのか。軒猿と組んでいて……たしか、あのあと。
――杉浦四郎をおびき寄せる、と言っていた。
思わず跳ね起きた――いや、そうしようとして全身が痛んだことで布団に再び倒れ込んだ。結構大きな音がたったが、痛みでそれを気にしてられない。特に横腹の痛みが尋常じゃない。熱を帯びているようだ。
それでも確認せずにはいられない。
シロは生きてるのか? 軒猿に襲われてないのか? ていうか、今どこにいるんだ!
相変わらず、雨の日にはろくなことがない。
そう思って舌打ちしたとき、不意に障子の向こうから気配がした。その人物は慌てた様に障子をあけて飛び込んできた。
「クコ! 野火が寝てるんだから静かに…………」
「…………しまった」
囁き声で注意するのはシロ。捜す手間が省けたなアハハと笑いたいところだが、笑えねぇ。
なんでこんなにはっきりシロが見えると思ってる? 簡単だ、遮るモノがないからだよ。
……素顔、さらしてしまった。
何も言わずに固まったままだったが、なんとも言い難いこの気まずい空気をなんとかしてほしい。
シロがこちらを凝視して固まっているのを確認する。そして、今の身体で出せる最速の動きで布団を掴み、胸元の位置から顔を覆える位置まで引き上げる。
再び遮られた視界の中、祈るような気持ちで口を開く。
「おまえは何も見なかった」
「…………いや、見たけど」
「じゃあ四の五言わずにその辺にある立派な塀に頭をぶつけて記憶を飛ばしてこい」
「そんなことするわけないだろ」
そんな声と共に、シロが歩み寄ってくるのが分かって、非常に焦る。
音だけで相手の接近を認識したときの緊張感は計り知れない。顔の真横から軽い音がしたときには心の臓が大騒ぎだ。
「野火、出てこい」
「…………じゃあ狐面、とって」
「却下」
野火、と呼んだシロに応えて狐面をつけようとしたが、即座に断られてしまった。
そのことに内心混乱しながらも、疑問を言葉にする。
「おまえが今まで会っていた『野火』は狐面をしてただろ? なんで『野火』に会いたいのに狐面つけちゃ駄目なんだ?」
これは狐面を奪われた直後、一郎と会話していたときにも思ったことだ。
「野火」の格好をしていないのに「野火」と呼ぶ。それが理解できなくて戸惑った。
そう言うと、隣から深いため息が聞こえた。
「じゃあ聞くけどな、今のおまえは『野火』じゃなかったらなんなんだ」
「わからない」
「おい。…………じゃあ、あれだ。おまえは俺と長屋に住んでた、そうだろ?」
「そうだけど……」
「なら、おまえは『野火』だ。俺はおまえ以外の奴と住んだ覚えはない」
きっぱりというシロに「そういうもんなのか?」と首を傾げたくなったが、シロがそう言うならいいか、という気分になった。
ごちゃごちゃとまだ整理のつかない部分はあるけれど、他でもない大家さまがそう言うんだ。シロに認められたことで気分が軽くなったような気さえするのだから凄いもんだ。
「分かったら、いい加減顔を見せろ」
だから、言葉を聞いたときはいつものように反抗する気もなくなっていた。
これまでも何度も「面を外せ」や「顔を見せろ」という言葉を聞いたが、どうしてだか今日の言葉は随分優しげに聞こえる。
ゆっくりと布団を掴んだ手を下ろし、そばに腰をおろしているシロを見上げる。その視線を受けたシロはじっとこちらを見てくる。
面一枚ないだけでこんなに緊張するとは。おいらの顔を観察しているだろうシロにどう声をかければよいものか悩んでいたが、さきに動いたのはシロだった。
ゆっくりとした動作で手を伸ばし、おいらの頭にのせる。
そのまま指に髪をからめて梳いてみせたシロは、眉間にシワもなく、思わずといったように口元を綻ばせた。
「やっと顔を見せたな」
その後、無事でよかったと言葉をつづけたシロに対し、どう対処していいか分からず、おいらはただ固まったままだった。
とりあえず面がないとやけに気恥ずかしいということが分かった夜だった。