「手が荒れている」と婚約破棄された薬膳令嬢ですが、私の料理でしか生きられない氷の王子に溺愛されています
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この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「君との婚約は、今日この場で破棄する」
アレクシス・ド・モンターニュ侯爵嫡男の声が、満場の貴族たちの間に響き渡った。
春の夜会。シャンデリアの光が降り注ぐ大広間で、私——エリーゼ・フォン・ヴァイスガルテンは、五年間尽くし続けた婚約者から、実に簡潔な死刑宣告を受けた。
周囲がざわめく。扇で口元を隠す令嬢たち、眉をひそめる紳士たち。私の視界の端で、蜂蜜色の巻き毛を揺らした少女が——リリアナ・エステル・バロネッタが、薔薇色の唇で小さく微笑んだのが見えた。
ああ、なるほど。そういうことですか。
「理由をお聞きしても?」
私は努めて平坦な声で尋ねた。取り乱すつもりは毛頭なかった。というより、どこか予感めいたものがあったのだ。最近のアレクシスの態度——私の薬膳粥を「飽きた」と残すようになったこと、夜会で私より先にリリアナに声をかけるようになったこと。
「君の手だ」
アレクシスは、私の手をじっと見た。いや、見下した。
「荒れすぎている。まるで使用人のようだ。侯爵家の次期当主の妻として、ふさわしくない」
……は?
一瞬、思考が停止した。
私の手は確かに荒れている。当然だ。五年間、毎日のように厨房に立ち、この男のために薬膳料理を作り続けたのだから。木のしゃもじを握りすぎて、右手の親指の付け根には硬いタコができている。指先はあかぎれだらけで、爪は短く切りそろえてある。
病弱な婚約者のために、医学書を読み漁り、薬膳を学び、彼の繊細な胃腸に負担をかけない献立を考え続けた五年間。その結果が、「使用人のような手」。
「……なるほど」
私は静かに頷いた。
「つまり、五年分の薬膳レシピを返していただけますか? あれは私の財産ですので」
「は?」
アレクシスが間の抜けた声を出した。周囲の空気が、一瞬だけ変わったのがわかった。
「お聞きになりませんでしたか? レシピです。あなたの体質に合わせて私が独自に開発した処方箋のようなものですから、他の方には使えません。返却していただければ、私の次の……そうですね、仕事にでも活かせますので」
「エリーゼ! 君は何を言っている!」
アレクシスの顔が紅潮した。青白い顔に血が上ると、なんだか病的に見える。いや、実際に病弱なのだが。
「私は今、重大な話をしているんだ!」
「ええ、存じております。婚約破棄でしょう? 承りました」
私は淡々と答えた。
「五年間、お世話になりました。どうかお体を大切に。——ああ、それと」
私はリリアナの方を向いた。天使のような微笑みを浮かべた男爵令嬢。社交界の華。そして、私の婚約者を奪った女。
「リリアナ様。アレクシス様は朝食に油物を召し上がると、昼過ぎまで胃もたれが続きます。夕食の肉料理は必ず三時間以上煮込んで柔らかくしてください。香辛料は控えめに。特に胡椒は厳禁です。白湯は朝一番に、必ず六十度以下に冷ましてから——」
「エリーゼ!」
アレクシスが遮った。
「もういい! 君の小言はもう聞き飽きた! リリアナは君のように口うるさくない!」
「ええ、そうでしょうね」
私は微笑んだ。本心から。
「では、どうかお幸せに」
振り返ることなく、私は大広間を後にした。背中に、リリアナの甘い笑い声が聞こえた気がした。
五年。
五年間、私はあの男のために尽くした。私の手が荒れたのは、あの男の命を繋ぐためだった。
屋敷に戻り、自室で一人になったとき、私はようやく深い息を吐いた。
涙は出なかった。
代わりに、心の奥で何かが静かに、しかし確実に燃え上がるのを感じた。
「……上等じゃない」
私は自分の荒れた手を見つめた。
この手は、確かに美しくはない。貴族令嬢として見れば、失格かもしれない。
でも、この手で私は一人の人間を五年間生かし続けた。
それを「恥」と呼ぶ人間と、私は結婚しなくて済んだのだ。
……もっと早く気づくべきだったわね。彼は最初から、私の献身を「当然のもの」としか見ていなかったのだと。
翌朝、私は実家の台所に立っていた。
飴色に変色した古い木のしゃもじ。五年間、私と共に薬膳を作り続けた相棒。婚約者の屋敷に通う前から使っていた、母の形見の品。
「……母様。私、馬鹿だったわ」
しゃもじを握りしめて、私は小さく呟いた。
でも、もう終わり。これからは、私のために料理を作ろう。
そう決意した矢先だった。
「お嬢様! お客様です!」
使用人の慌てた声が響いた。
「……こんな朝早くに?」
「それが……王宮料理長のギルバート・フォン・シュヴァルツェン伯爵様と——」
使用人は一度言葉を切り、信じられないという顔で続けた。
「——第二王子殿下がお見えです」
王宮料理長と第二王子。
その組み合わせを聞いた瞬間、私の頭の中で情報が高速で整理された。
ギルバート・フォン・シュヴァルツェン伯爵。齢七十を超えながら、王宮料理界に君臨する重鎮。そして確か——第二王子カイル殿下の母方の大叔父にあたる人物。
第二王子カイル・レオンハルト・アストライア殿下。「氷の王子」と呼ばれる、無表情で知られる王族。幼少期に毒殺未遂に遭い、以来他人の作った料理を一切口にしないという噂は、社交界では有名な話だった。
……なぜ、その二人が私のもとに?
慌てて身支度を整え、応接間に向かう。扉を開けた瞬間、私は二つの視線に射抜かれた。
「失礼いたします。エリーゼ・フォン・ヴァイスガルテンでございます」
「堅苦しい挨拶は不要だ、小娘」
白髪を後ろに撫でつけた老人——シュヴァルツェン伯爵が、鋭い灰色の目で私を見据えた。その隣には、漆黒の髪と深い紫の瞳を持つ青年。彫刻のように整った顔立ちは、噂通り一切の表情を見せていない。
第二王子、カイル殿下。
近くで見ると、その顔色の悪さに気づいた。頬はこけ、唇には血の気がない。目の下には深い隈が刻まれている。
……この方、ちゃんと食事を摂っているのかしら。
「昨夜の夜会での一件、聞いておるぞ」
伯爵は単刀直入に切り出した。
「侯爵家の坊やに婚約破棄されたそうだな。理由が『手が荒れている』とか」
「……ええ、その通りです」
私は静かに頷いた。隠す理由もない。どうせ今頃、社交界中に噂が広まっているだろう。
「ふん」
伯爵は鼻を鳴らした。
「阿呆が」
「——は?」
「阿呆だと言っておる、あの侯爵家の坊やが」
伯爵は私をまっすぐに見た。
「あの坊やを五年間生かしたのは、医者の処方ではない。貴女の薬膳だ」
息が止まった。
「侯爵家には優秀な侍医がいると聞いていましたが……」
「優秀? ふん、藪医者どもが。連中の処方など、あの坊やの体には毒同然だ。貴女の薬膳がなければ、あの坊やはとうに墓の下だったろうよ」
「……なぜ、それを」
「儂は王宮料理長だぞ。この国で『食』に関することで、儂の耳に入らぬ情報などない」
伯爵は杖を鳴らした。
「貴女の薬膳の腕は、百年に一人の才能だ。それを『荒れた手』などと嘲笑う愚か者には、相応の報いが下るだろうがな」
私は言葉を失った。
五年間、誰にも認められなかった。アレクシスは私の料理を「当然のもの」として受け取り、感謝の言葉一つなかった。社交界の人々は私を「厨房に立つ変わり者の令嬢」と陰で笑った。
それが——「百年に一人の才能」?
「さて」
伯爵は私の動揺を見透かしたように、小さく笑った。
「本題に入ろう。——カイル」
呼ばれて、それまで無言だった第二王子が前に出た。
「殿下は幼少期に毒殺未遂に遭われてな」
伯爵が説明した。
「以来十七年、他人の作った料理を一切口にできん。食べようとすると、体が拒絶する」
「十七年……」
私は絶句した。十七年間、まともに食事ができない。それがどれほどの苦しみか、想像するだけで胸が痛んだ。
「何度も料理人を変えた。最高の食材を使い、最高の技術を尽くした。だが、殿下の体は受け付けなかった」
伯爵の声には、長年の苦悩が滲んでいた。
「しかし、昨夜——」
伯爵は私の目を見た。
「貴女の実家の厨房から、一つのものを拝借した。無断で申し訳なかったが、緊急だったのでな」
「……何を?」
伯爵は懐から、見覚えのあるものを取り出した。
飴色に変色した、古い木のしゃもじ。
「これで粥を作り、殿下に差し上げた」
私は息を呑んだ。
「結果は——」
伯爵は第二王子を見た。
「——殿下」
「……完食した」
第二王子が、初めて口を開いた。
低く、掠れた声。だが、その声には微かな——本当に微かな、震えがあった。
「十七年ぶりに、温かいものを食べた」
私は、彼の目を見た。
深い紫の瞳。無表情の仮面の下に、何かが揺れているのが見えた。
「……温かかった」
彼は繰り返した。
その瞬間、その無表情の目から——一筋の涙がこぼれ落ちた。
「っ——」
私は自分でも驚くほど強く、胸を打たれた。
十七年間。十七年間、この人は「温かいもの」を口にできなかった。誰かが作ってくれた料理を、安心して食べることができなかった。
孤独と飢えの中で、それでも生きてきた。
「……私の、しゃもじで?」
「ああ」
伯爵が頷いた。
「貴女が五年間使い込んだ、あのしゃもじだ。貴女の『真心』が染み込んでおる。それが、殿下の心を開いた」
私は改めて、自分の手を見た。
荒れた手。あかぎれだらけの指。爪の間に染みついた、消えない木の匂い。
アレクシスはこの手を「恥」と呼んだ。
でも——この手が、一人の人間を救ったのだ。
「エリーゼ嬢」
伯爵は真剣な目で私を見た。
「頼みがある。殿下のために、料理を作ってくれんか」
「……私で、よろしいのですか」
「貴女でなければならん」
伯爵は断言した。
「貴女の手が作る料理でなければ、殿下は食べられん。——これは、この老いぼれからの、心からの願いだ」
私は第二王子を見た。
涙の跡が残る頬。無表情の仮面を被りながら、その奥で何かを必死に押し殺している目。
……この人は、私を必要としている。
私の「荒れた手」を。私の「料理」を。
「——わかりました」
私は頷いた。
「謹んでお引き受けいたします」
その瞬間、第二王子の目が——ほんの一瞬だけ、揺れた気がした。
それから一週間。
私は毎日、王宮の離れにある第二王子の私邸を訪れ、彼のために料理を作った。
最初に作ったのは、シンプルな粥だった。
「……これは」
カイル殿下は、湯気の立つ器を前に、わずかに眉を動かした。相変わらず表情は乏しいが、この一週間で私は彼の微細な変化を読み取れるようになっていた。
「生姜と鶏出汁の粥です。体を温め、胃腸を整えます」
「……食べていいのか」
「ええ。私が作りました」
殿下は一瞬躊躇い、それから匙を手に取った。
一口。
ゆっくりと、噛みしめるように。
「……美味い」
低い声で、殿下が呟いた。
「美味い」と言った瞬間、その無表情の仮面が——ほんの少しだけ、緩んだ。
私は胸が熱くなるのを感じた。
アレクシスは、私の料理を「美味い」と言ったことがあっただろうか。思い出せない。あったとしても、それは社交辞令のようなものだった。
でも、殿下の「美味い」は——心からの言葉だった。
「……もっと」
殿下が、空になった器を差し出した。
「もっと、食べていいか」
ああ、この人は——本当に、飢えていたのだ。
「もちろんです。おかわりはたくさんありますから」
私が微笑むと、殿下はわずかに目を見開いた。それから、視線を逸らした。
……照れているのかしら、この人。
「氷の王子」と呼ばれる彼が、おかわりを前にして照れている。そのギャップが、なんだかおかしくて——可愛らしく思えた。
日を追うごとに、殿下は少しずつ変わっていった。
顔色が良くなった。頬の肉が戻り始めた。目の下の隈も、わずかに薄くなった。
そして何より——私の前でだけ、彼は言葉を発するようになった。
「今日は、何を作る」
「蓮根と豚肉の煮物を考えています。殿下の体力を回復させるには、良質なたんぱく質が必要ですから」
「……楽しみだ」
「——っ」
私は思わず手を止めた。
「殿下、今……『楽しみ』と仰いましたか」
「言った」
殿下は無表情のまま答えた。でも、その紫の瞳には——確かに、光があった。
「貴女の料理を食べる時間が、一日で最も楽しみだ」
私は、顔が熱くなるのを感じた。
この人は、自分が何を言っているかわかっているのだろうか。おそらく、わかっていない。口下手で感情表現が苦手だと聞いていたが、こういうことをさらりと言うから困る。
「……光栄です」
私は平静を装って答えた。
その時だった。
「殿下! 大変です!」
侍従が慌てた様子で飛び込んできた。
「侯爵家のアレクシス様が——危篤状態だそうです」
私の手が、止まった。
アレクシス。私の元婚約者。
一週間前、私の「荒れた手」を理由に婚約を破棄した男。
「危篤……?」
「はい。婚約破棄の後、急激に体調を崩されたとか。リリアナ様の料理を召し上がった後、激しい嘔吐と腹痛が——」
私は、すべてを理解した。
リリアナは華やかな宮廷料理が得意だが、薬膳の知識は皆無。おそらく、油や香辛料をふんだんに使った「美しい」料理を作ったのだろう。
アレクシスの繊細な胃腸には——毒同然だ。
「……愚かな」
私は思わず呟いていた。
私の五年間を「荒れた手」の一言で切り捨てた男。私の薬膳を「口うるさい」と拒絶した男。
それがどれほどの価値を持っていたか——失って初めて、気づいたのだろう。
でも、もう遅い。
「エリーゼ」
殿下の声で、我に返った。
「……何か」
「行くのか。あの男の元へ」
殿下は無表情のまま問うた。でも、その声には——かすかな不安が混じっていた。
私は、殿下の目をまっすぐに見た。
「いいえ」
「……いいえ?」
「私が行ったところで、何も変わりません。彼の体に合った薬膳を作れるのは私だけですが——彼は私を必要としなかった。私の手を『恥』と呼んだ」
私は自分の手を見た。あかぎれだらけの、荒れた手。
「この手を必要としてくれる方のために、私は料理を作ります」
殿下の目が、わずかに見開かれた。
「……俺を、必要としてくれるのか」
「ええ」
私は微笑んだ。
「殿下が私の料理を食べてくださる限り、私はずっとここにいます」
その瞬間——殿下の無表情が、初めて崩れた。
不器用な、ぎこちない、でも確かな——微笑み。
「……ありがとう」
低い声で、殿下が言った。
「温かい。貴女の言葉は——温かい」
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
アレクシスは五年間、一度も「ありがとう」と言わなかった。
でも、この人は——たった一週間で、私に「ありがとう」をくれた。
「さあ、殿下。お料理が冷めてしまいます」
私は涙を堪えながら、笑顔で器を差し出した。
「たくさん召し上がってください。殿下の体が健康になるまで、私が責任を持ちますから」
殿下は頷き、匙を手に取った。
その姿を見ながら、私は静かに決意した。
この人のために——私は、この手で料理を作り続ける。
それが、私の新しい人生だ。
それから一か月が過ぎた。
王家主催の晩餐会。私は、まさかの立場でその場にいた。
「第二王子カイル殿下の婚約者、エリーゼ・フォン・ヴァイスガルテン嬢の入場です」
司会の声が響く。私は深紅のドレスに身を包み、殿下の腕に手を添えて大広間へと歩み出た。
一瞬、場が静まり返った。
無理もない。一か月前、「荒れた手の令嬢」として婚約破棄された女が、今度は第二王子の婚約者として現れたのだから。
ざわめきが広がる。扇で口元を隠す令嬢たち、眉をひそめる紳士たち。その中に——見覚えのある顔があった。
車椅子に座ったアレクシス・ド・モンターニュ。一か月前とは見違えるほど痩せ衰え、顔色は土気色。その隣には、焦った表情を浮かべたリリアナ・エステル・バロネッタ。
「あの荒れた手の女が王子妃候補?」
リリアナの甲高い声が響いた。
「おかしいわ! きっと何か裏があるに違いない! あんな使用人のような手の女が、殿下の隣に立つなんて——」
「リリアナ」
静かな声が、彼女を遮った。
カイル殿下だった。
「何を言っている」
殿下は無表情のまま、リリアナを見据えた。その紫の瞳には、氷のような冷たさがあった。
「この手は——」
殿下は、私の手を取った。あかぎれだらけの、荒れた手。
「五年間、誰かのために尽くした証だ」
ざわめきが広がった。
「俺はこの手に命を救われた。十七年間、他人の料理を食べられなかった俺が——この手が作った料理で、初めて『温かい』と感じた」
殿下の声は淡々としていた。でも、その言葉には——揺るぎない確信があった。
「この手を『恥』と呼ぶ者は、俺の敵だ」
場が凍りついた。
「そ、そんな——」
リリアナが青ざめた。
「あ、アレクシス様! 何とか言ってください!」
しかし、アレクシスは答えなかった。いや、答えられなかった。車椅子の上で、虚ろな目をして私を見つめていた。
「エリーゼ……」
掠れた声で、アレクシスが呟いた。
「なぜ……なぜ、俺の元に来てくれなかった……」
私は、静かに答えた。
「あなたが私を必要としなかったからです」
「違う……俺は……」
「あなたは私の手を『恥』と呼びました。五年間の献身を『口うるさい』と切り捨てました」
私は淡々と続けた。
「私は今でも、あなたのための薬膳を作る技術を持っています。でも——もう、作りません」
「な、なぜ——」
「私の料理は、私を必要としてくれる人のためにあります」
私は殿下を見上げた。無表情の仮面の下で、わずかに口角が上がっているのが見えた。
「この方は、私の手を『恥』ではなく『誇り』と呼んでくれました。私は——この方の隣で生きていきます」
「そ、そんな……」
アレクシスの目に、絶望が浮かんだ。
その時——大広間の扉が開いた。
白髪を後ろに撫でつけた老人が、杖をつきながら入ってきた。
「遅れてすまんな」
ギルバート・フォン・シュヴァルツェン伯爵——王宮料理長その人だった。
「少々、準備に手間取った」
伯爵は私の前に立ち、懐から何かを取り出した。
飴色に変色した、古い木のしゃもじ。
「エリーゼ・フォン・ヴァイスガルテン嬢」
伯爵は厳かな声で言った。
「王宮料理長として、貴女に正式にこれを授ける。——『真心の継承者』の証だ」
場がざわめいた。
「真心の継承者」——それは、王宮料理長が認める最高の料理人にのみ与えられる称号だった。
「貴女の薬膳は、百年に一人の才能だ。このしゃもじは、貴女の五年間の献身が生み出した宝物。誰にも真似できない、貴女だけの『真心』が染み込んでおる」
伯爵は私の手を取り、しゃもじを握らせた。
「これからは、殿下のために——そして、この国のために、その腕を振るってくれ」
私は、しゃもじを胸に抱きしめた。
母から受け継いだ、大切な相棒。五年間の苦労の結晶。
そして——新しい人生の象徴。
「……謹んでお受けいたします」
私が頭を下げると、場から拍手が湧き起こった。
最初は小さく、やがて大きく。
「素晴らしい……」「あの伯爵が認めるとは……」「真心の継承者か……」
貴族たちのざわめきの中、私は一人の人物を見た。
リリアナ・エステル・バロネッタ。
彼女の顔は蒼白だった。「社交界の華」の仮面が、音を立てて崩れ落ちていく。
「嘘よ……嘘……」
「嘘ではない」
殿下が冷たく言い放った。
「貴女が侯爵家の坊やに食べさせた料理は、彼の体には毒同然だった。エリーゼの薬膳がなければ、彼は五年前に死んでいた」
「そ、それは……」
「貴女は彼の命を支えていた人を追い出し、結果として彼を殺しかけた」
殿下の声には、一切の感情がなかった。それが逆に、恐ろしかった。
「リリアナ・エステル・バロネッタ。今後、貴女が社交界に姿を見せることは——許さない」
「そんな……」
リリアナは崩れ落ちた。
一方、アレクシスは——ただ、虚ろな目で私を見つめていた。
「エリーゼ……」
「さようなら、アレクシス様」
私は振り返ることなく、言った。
「どうかお体を大切に。——もっとも、私がいなければ、それも難しいでしょうけれど」
最後の皮肉を残して、私は殿下の腕を取った。
「参りましょう、殿下」
「ああ」
殿下は頷き、私と共に歩き出した。
背後で、アレクシスの慟哭が聞こえた気がした。
でも、私は振り返らなかった。
私の手を「恥」と呼んだ男に、かける言葉はもうない。
晩餐会の喧騒を抜け出し、私たちは月明かりの中庭に立っていた。
「エリーゼ」
殿下が、小さく呼んだ。
「何でしょう」
「……今夜も、粥を作ってくれるか」
私は思わず笑った。
「もちろんです、殿下。何杯でもおかわりをご用意しますから」
殿下の無表情が、わずかに緩んだ。
不器用な、ぎこちない、でも確かな——微笑み。
「……楽しみだ」
その言葉を聞きながら、私は月を見上げた。
あの木のしゃもじは今、私の手の中にある。五年間の献身の証。母から受け継いだ真心。そして——新しい人生を共に歩む相棒。
ああ、この人の笑顔を守るために、私は料理を作り続けよう。
この荒れた手で——この「真心」で。
誰かのために尽くすことは、決して「恥」ではない。
それを教えてくれたのは、私を必要としてくれた、たった一人の人だった。
「殿下」
「何だ」
「私の手は、これからも荒れ続けると思います。殿下のために料理を作り続ける限り」
「そうか」
殿下は私の手を取った。あかぎれだらけの、荒れた手を。
「なら、俺は一生、この手の料理を食べ続ける」
「……それは、プロポーズですか?」
「違うのか」
「いえ——」
私は、今度こそ涙を堪えられなかった。
「——喜んでお受けいたします」
殿下は不器用に、でも優しく、私の涙を拭った。
その手もまた、十七年間の孤独で荒れていた。
荒れた手同士が、月明かりの中で重なる。
これが、私の新しい人生の始まり。
あの木のしゃもじは明日から、王宮の厨房で、私と共に第二の人生を刻み始める。
——「荒れた手」で繋ぐ、温かな未来を。




