第2話「灰皿のタグと薬研堂の謎」
喫茶ベルベットは、午後四時を過ぎても静寂に包まれていた。
麗子先生が倒れた瞬間から、時間がゆっくりと流れているようだった。店内の空気は、ほんの少し重く、鈍い光の中で揺れている。
私はテーブルの端に立ち、再び観察を始めた。
誰も気づかない、ほんの小さな「ずれ」を。
1.灰皿の中のティーバッグのタグ
赤い小さなスタンプ——店の印に似ているが、よく見ると「薬研堂」と読める文字が残っていた。
タグは丁寧に切り取られており、誰かが意図的に隠そうとした痕跡がある。
2.砂糖の色と粒の粗さ
普段使う上白糖より少し黄色く、粒もやや粗い。紅茶に溶かすと自然になじむが、指で触れると明らかに違う感触だ。
3.カップの液面の油膜
わずかに光る膜があり、レモンの香りが微かに漂う。
苦味や薬の匂いを消すための工夫かもしれない。
4.スプーンの擦れ跡
中村の銀スプーンに、指輪の跡のような小さな円形の擦れ。黒川は指輪をしていたが、四時以降にポケットから取り出したと証言している。
5.谷口の行動
午後一時半、谷口は薬研堂へ外出。三時に戻った。薬屋という言葉が頭の中で鳴る。普通の買い物ではないかもしれない——直感が告げる。
私は深呼吸し、現場の再現を心の中で始めた。
「紅茶はどうやって改変されたのか?」
可能性は三つに絞れる。
1.ティーバッグ自体に薬を塗布した
2.砂糖をすり替えた
3.スプーンで直接混ぜた
タグが切り取られ、灰皿に捨てられていること——それはティーバッグに仕掛けをした証拠の可能性が高い。砂糖の色の違いと油膜の存在も、薬を見えなくするための工夫だと考えられる。
スプーンの擦れも重要だ。誰かが砂糖に粉末を混ぜる際、毎回同じスプーンを使えば指輪の跡もつく。これが黒川の指輪の痕跡と混同され、誤解を生む。
全てを整理すると、谷口の行動が最も自然に符合する——薬研堂で何かを手に入れ、紅茶に混ぜたのは彼女しか考えられない。
私は静かに谷口を呼んだ。
「谷口さん、薬研堂に行ったと聞きました。そこで、特殊なハーブの缶を買いましたか?」
谷口は一瞬口をつぐみ、やがて小さくうなずいた。
「……はい。でも、普通のハーブティーです」
「そうですか。しかし、灰皿に残ったタグの印は『薬研堂』。しかも切り取られていましたね。誰かが意図的に隠した痕跡です」
谷口は顔を赤らめ、目を伏せた。
私はさらに問いかけた。
「そのハーブをティーバッグにこっそり擦りつけたことは?」
小さな沈黙。やがて、谷口はしぶしぶ口を開く。
「……気絶させるためだけの、つもりでした。麗子先生が資料のことで問い詰めてきて、怖くて……」
その告白は震える声で、しかし真実味を帯びていた。
谷口が仕掛けたのは、意図的な殺害ではない。
しかし、彼女が使った薬草粉末は、麗子先生が服用していた心臓の薬と化学反応を起こした。結果として、死に至ったのだ。
スプーンの擦れ、砂糖の色、油膜、切られたタグ——全ては小さな証拠であり、凛子の観察眼によって初めて一つの線として繋がった。
結局、事件は事故と計画の交錯だった。
谷口は涙ながらに自首を決意し、黒川は静かに事態を見守る。
喫茶店の窓から差す午後の光は、事件の重さをそっと映し出す。
誰もが見逃した小さな違和感——レモンの香り、砂糖の色、タグの切れ目——それらが真実の光となった。
午後四時の茶会は、静かに幕を閉じる。
しかし、私の観察眼はまだ終わらない。次の小さな謎が、きっとこの店にやってくるのだから。