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シンデレラは汗をかく姿こそが美しい

作者: 坂道 昇
掲載日:2025/08/09

最近ダイエットを頑張っているので、ダイエットに励んでいる女性を応援したくて書いてみました。

最後まで読んでいただければ、幸いです。

序章



鈴木紗絵、24歳。身長155センチ、体重88キロ。

その数字が、私の世界のすべてを定義していた。


製紙会社の事務職として働く私のデスクは、窓から一番遠い、コピー機の隣。複合機が唸りを上げるたびに、私の足元も微かに震える。それが、この会社における私の存在感そのものだった。


社内でのあだ名は「タンク」。


誰が言い始めたのかは知らない。けれど、悪意よりも的確さが勝っているその呼び名を、私は甘んじて受け入れていた。だって、事実なのだから。肩幅が広く、分厚い胸と背中、どっしりとした腰回り。まるで人が一人、余分に入っているかのようなシルエット。それが、鈴木紗絵という人間の輪郭だった。


ファッションに興味がないわけじゃない。雑誌をめくれば、軽やかなシアー素材のブラウスや、風に揺れるプリーツスカートが目に飛び込んでくる。けれど、それらはすべて、私とは違う次元に住む生き物のためのもの。私が着られるのは、オンラインショップの「大きいサイズ」コーナーで見つけた、体のラインを拾わないくすんだ色のチュニックと、ウエストがゴムの黒いパンツだけ。おまじないのように「体型カバー」と書かれたタグは、気休めにもならなかった。


メイクだって、そうだ。大学生の時にドラッグストアで買ったきりの、ラメが飛び散ったブラウンのアイシャドウ。とりあえず塗っただけの、のっぺりとしたファンデーション。マスクで隠れるからと、リップはもう何年も買っていない。整え方もわからない眉毛は、意思のない、困ったようなカーブを描いていた。


鏡に映る自分を見るたび、胸の奥がずしりと重くなる。これは私であって、私ではない。本当の私は、この脂肪の鎧の中に閉じ込められているだけなのだと、誰にも届かない言い訳を心の中で繰り返す。そんな毎日だった。


彼、神宮寺大雅じんぐうじ たいがを初めて意識したのは、梅雨時の、じっとりと湿度の高い日のことだった。


営業部のエースである彼は、社内の誰にとっても特別な存在だった。185センチはあろうかという長身に、すっきりと整った目鼻立ち。いつも身に着けているスーツは、まるで彼のために仕立てられたかのように体にフィットしていて、爽やかな柑橘系の香水をふわりと纏っている。社内の女性社員たちが、カフェスペースで彼の噂話に花を咲かせているのを、私はいつも遠くから聞いていた。


「神宮寺さん、今日のネクタイも素敵だったね」

「わかるー。昨日、資料のことで質問したら、すっごい優しく教えてくれて」

「彼女、いるのかなあ」


キラキラとした会話。それは、私が決して立ち入ることのできない聖域だった。神宮寺さんは、私にとって雲の上の、それこそモニターの向こうの俳優のような存在。話す機会なんて、あるはずもなかった。


その日までは。



第一章:雷鳴


その日、私は大量の資料を抱え、エレベーターホールで立ち尽くしていた。両手いっぱいの紙の束は重く、指が白くなるほど力を込めても、端から崩れ落ちそうだ。早く自分の部署に戻らなければいけないのに、タイミング悪くエレベーターはどれも満員だった。


「チッ」


背後で聞こえた低い舌打ちに、びくりと肩が揺れる。焦りと気まずさで、じわりと額に汗が滲んだ。私がもたもたしているせいで、他の人を待たせている。すみません、と蚊の鳴くような声で呟き、壁際に体を寄せた。その時だった。


「鈴木さん」


凛とした涼やかな声。


顔を上げると、そこに神宮寺さんが立っていた。驚きのあまり、声も出ない。彼は、私が抱えていた資料の半分を、ひょいと軽々と持ち上げた。


「これ、重いでしょう。運びますよ」

「え、あ、でも…」

「いいから。何階ですか?」

「は、はい、7階です…」


ちょうど到着したエレベーターに、私たちは乗り込んだ。狭い空間に、私たちは二人きりだった。密室に、彼のものらしき柑橘系の香りが満ちる。心臓が、ドクン、ドクンと耳元で鳴り響いた。私は自分の汗の匂いがしないかと、そればかりが気になって息を詰める。


「企画三課だよね。いつも頑張ってるね」

「……見て、らっしゃるんですか」

「ええ。コピー機の隣の席でしょう。いつも一番早く来て、一番遅くまで残ってる」


見ていた?この私を?

信じられなかった。誰も気にも留めていないと思っていた、この「タンク」の存在を。

7階に着き、エレベーターのドアが開く。彼は私のデスクまで資料を運んでくれると、にこりと笑った。テレビで見るアイドルのような、完璧な笑顔だった。


「じゃあ、また」


そう言って彼が立ち去った後も、私はしばらくその場から動けなかった。彼が触れた資料の束が、まだ微かに熱を持っているように感じる。彼がいた空間には、まだ爽やかな香りが残っていた。


生まれて初めてだった。

男性に、名前を呼ばれ、優しくされたことが。

その日から、私の灰色の世界に、一条の光が差し込んだ。それはあまりにも眩しく、あまりにも残酷な光だった。神宮寺大雅という、決して手の届かない光。

恋だと自覚するのに、時間はかからなかった。そして同時に、絶望的な現実が、分厚い壁となって私の前に立ちはだかった。



第二章:決意


恋は、人を愚かにする。そして、時に人を強くする。


神宮寺さんのことを考える時間が増えるほど、自分の醜さが際立っていくようだった。廊下ですれ違うだけで、心臓が跳ね上がる。彼の声が聞こえるだけで、耳が熱くなる。でも、彼は私に気づきもしない。あの日、エレベーターで会ったことさえ、きっと覚えていないだろう。


ある金曜の夜。仕事の疲れと、叶わぬ恋の重さに耐えきれず、私はコンビニで特大サイズのポテトチップスと、チョコレートがけのアイスクリーム、そして500mlの甘いカフェラテを買い込んだ。自室のベッドの上で、それらを無心で口に運ぶ。美味しいはずなのに、砂を噛んでいるように味気ない。


ふと、部屋に唯一ある姿見に、自分の姿が映った。よれよれのTシャツから、はち切れそうな二の腕が伸びている。むくんだ顔。生気のない目。


――ああ、醜い。


この分厚い脂肪の下には、本当の私がいるはずなのに。骨格は、きっと悪くない。目だって、ぱっちりとした二重だ。痩せさえすれば、雑誌で見たあの子みたいに、もっと可愛い服を着て、自信を持って笑えるはずなのに。


涙が、ぽろぽろと頬を伝い、ポテトチップスの袋に落ちた。塩辛い涙と、油の味が混ざり合う。

神宮寺さんの隣に立つ女性は、きっと、こんな姿ではないだろう。すらりとした体で、きれいなワンピースを着て、太陽みたいに笑う人だ。

このまま、何もしないで、ただ遠くから彼を見つめているだけ?

「タンク」と呼ばれ、自分を嫌いなまま、この先の人生を生きていくの?


「嫌だ」


心の奥底から、絞り出すような声が漏れた。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ」


こんな私は、もう嫌だ。

もし、もしも、生まれ変われるのなら。

あの人の隣に立つ資格が、ほんの少しでも手に入るのなら。

私は、泣きながら残りのポテトチップスをゴミ箱に叩きつけた。アイスクリームも、カフェラテも、すべてシンクに流した。

鏡の中の、醜い自分を睨みつける。


「見てなさいよ」


震える声で、私は自分に宣戦布告した。

一世一代の、これは賭けだ。半年。半年で、私は変わる。

鈴木紗絵の、人生を懸けたダイエットが始まった。



第三章:180日間の戦争


最初の1ヶ月は、地獄だった。


まず、食生活を180度変えた。これまで私の体を作ってきた、コンビニ弁当、菓子パン、スナック菓子、ジュース。そのすべてを断ち切った。代わりに冷蔵庫を満たしたのは、鶏むね肉、ブロッコリー、オートミール、卵、そして大量の野菜。


毎朝5時に起き、その日一日分の食事を作る。味付けは塩胡椒とハーブだけ。最初はあまりの味気なさに涙が出たが、素材そのものの味を噛みしめるうちに、不思議と体が浄化されていくような感覚があった。


仕事帰りは、駅前の24時間ジムへ直行した。人生で初めて足を踏み入れたその場所は、汗と熱気に満ちていた。最初は、ランニングマシンで10分走るだけで息が切れ、足がもつれた。周りの人たちの引き締まった体を盗み見ては、自分の姿が恥ずしくてたまらなかった。

それでも、私はやめなかった。神宮寺さんの、あの爽やかな笑顔を思い浮かべて、歯を食いしばった。


2ヶ月目に入ると、体に変化が現れ始めた。まず、5キロ落ちた。たった5キロ。けれど、それは私にとって大きな一歩だった。朝、顔を洗う時のフェイスラインが、心なしかすっきりしている。いつも履いていたパンツのウエストに、少しだけ余裕ができた。


その小さな変化が、とてつもない喜びとなって心を軽くする。私は、パーソナルトレーナーを契約することにした。厳しいけれど的確な指導のもと、筋力トレーニングのメニューが加わった。スクワット、デッドリフト、ベンチプレス。今まで使ったことのない筋肉が悲鳴を上げる。汗が滝のように流れ、Tシャツはぐっしょりと濡れた。


「鈴木さん、フォーム綺麗になってきましたよ!」


トレーナーの言葉が、何よりの褒め言葉だった。

週末は、自分を磨くための研究に時間を費やした。

まず、眉毛サロンの予約を取った。お洒落な空間に気圧されながらも、プロの手で整えられた眉は、顔の印象を劇的に変えた。次に、デパートのコスメカウンターへ向かった。

きらびやかな空間で、美しい美容部員さんに声をかけるのは、清水の舞台から飛び降りるような勇気が必要だった。


「あ、あの…ファンデーションを探していて…」

「かしこまりました。お客様のお肌ですと、こちらの美容液ファンデーションがおすすめですよ。透明感が出ますから」


魔法の言葉だった。「透明感」。私が最も手に入れたいもの。

勧められるがままにタッチアップしてもらうと、鏡の中には、厚塗りの仮面を被ったいつもの私とは違う、素肌が綺麗な人のような自分がいた。


基礎化粧品、アイシャドウ、チーク、リップ。少しずつ、私のドレッサーは新しい色で満たされていった。毎朝、鏡に向かうのが苦痛ではなくなった。むしろ、新しい自分を発見する、楽しみな時間へと変わっていった。


4ヶ月目、体重は20キロ減った。

会社で、変化に気づく人が増えてきた。


「鈴木さん、なんか痩せた?綺麗になったね」


事務の先輩にそう言われた時、嬉しくて泣きそうになった。「タンク」と呼んでいた男性社員たちが、どこか戸惑ったような視線を向けてくるのが分かった。


服を買いに行った。今まで避けてきた、華やかなブランドのショップ。恐る恐る手に取ったMサイズのワンピースが、すんなりと体を通った時、試着室で声を殺して泣いた。ウエストがきゅっと締まり、スカートがふわりと広がる。鏡に映っているのは、私がずっと憧れていた、知らない誰かだった。


半年が経った。


2024年、夏の初め。

私の体重は、88キロから55キロになっていた。



第四章:アンスリウムの咲く頃


33キロの脂肪と共に、私は古い自分を脱ぎ捨てた。


月曜日の朝。私は、新しく買ったミントグリーンのシアーブラウスに、アイボリーのテーパードパンツを合わせた。髪は、美容室で艶やかなブラウンに染め、ゆるやかに巻いている。丁寧にベースから作り込んだ肌は、内側から発光するようなツヤを帯び、コーラルピンクのリップが血色感を添えている。足元は、3センチヒールの、華奢なストラップサンダル。


会社の自動ドアを抜けると、空気が変わったのが分かった。


すれ違う人々の視線が、私に注がれる。それは、憐れみや嘲笑の色を含んだものではない。驚きと、そして、賞賛の眼差しだった。


「え、うそ、鈴木さん?」


同期の女の子が、目を丸くして駆け寄ってきた。


「すごい!めちゃくちゃ綺麗!どうしたの!?」

「ちょっと、頑張ってみたの」


はにかんでみせると、自分の表情筋が以前よりずっと柔らかくなっていることに気づく。

席に戻る途中、以前は私を「タンク」と呼び、存在しないかのように扱っていた営業の男性社員が、わざとらしく声をかけてきた。


「あれ、鈴木さん?マジか、すっげー綺麗になったじゃん!別人みたいだな!なあ、今度飲み行こうよ」


下心が見え透いた笑顔。以前の私なら、戸惑うばかりだっただろう。けれど、今の私は静かに微笑んで首を横に振ることができた。


「ありがとうございます。でも、ごめんなさい」


きっぱりと断ると、彼は気まずそうに鼻を掻いて去っていった。

昼休み、化粧室の鏡でリップを直していると、個室の中からひそひそ声が聞こえてくる。


「鈴木さん、すごいけど…ちょっとやりすぎじゃない?」

「ねー。どうせエステとか、高いジムとかにお金かけたんでしょ」

「男ウケ狙ってるのが見え見えで、ちょっと引くわー」


針のような言葉たち。半年前の私なら、心臓を抉られるような痛みを感じただろう。でも、今は違う。鏡の中の自分と視線を合わせる。この体と、この自信は、誰かに媚びるために手に入れたものじゃない。すべて、自分のために勝ち取ったものだ。

私は、唇の輪郭を丁寧になぞり終えると、にっこりと微笑んで化粧室を出た。


自分のデスクに着くと、コピー機の隣という場所は変わらないのに、見える景色はまるで違っていた。世界は色鮮やかに見えたけれど、光が強くなれば、その分だけ影も濃くなるのだと知った。それでも、私の心は不思議なほど穏やかだった。本当に大切なものは何か、見極める力がついたからかもしれない。


神宮寺さんは、どう思うだろう。

私のこと、気づいてくれるだろうか。

期待と不安が、心の中で渦を巻いていた。

その機会は、意外とすぐに訪れた。


社内の観葉植物の世話をする当番が、私と神宮寺さんだったのだ。以前の私なら、他の人に代わってもらっていたかもしれない。でも、今は違う。

給湯室で、アンスリウムの鉢に水をやっていると、背後からあの香りがした。


「お疲れ様です」


心臓が、大きく脈打つ。ゆっくりと振り返ると、神宮寺さんが少し驚いたような顔で私を見ていた。


「……えっと、どちら様でしたっけ?」


その言葉に、世界が一度、音を失った。

ああ、そうか。やっぱり、わからないんだ。綺麗になっても、痩せても、私は彼にとって「その他大勢」ですらない、存在しない人間だったんだ。

胸が、チリッと痛む。唇が、震えそうになるのをぐっと堪えた。


「企画三課の、鈴木です。ご無沙汰しています」


作り笑顔は、うまくいっているだろうか。

私の名前を聞いて、神宮寺さんはさらに目を見開いた。そして、私の顔と、アンスリウムの赤い花を、何度か見比べた。


「鈴木……さん?あの、エレベーターの?」

「はい。その節は、ありがとうございました」


覚えていてくれた。

その事実に、絶望の淵から引き戻される。


「いや、すごい……。全然、わからなかった。すごく、綺麗になりましたね」


彼は、照れたように少し視線を逸らしながら言った。その仕草に、また胸が高鳴る。


「何か、あったんですか?」

「人生を変えたかったんです」


私は、少しだけ大胆になって、彼の目をまっすぐに見つめ返した。


「半年間、死ぬ気で頑張りました」


私の言葉に、彼は一瞬息を呑んだように見えた。そして、ふっと、これまで見たどんな笑顔よりも優しい顔で、笑った。


「そうか。すごいな、鈴木さんは」


彼は「綺麗になった」という表面的な変化ではなく、「頑張った」という私の内面を、まっすぐに褒めてくれた。


「あのさ」


彼が、少し言い淀む。


「もし、良かったらなんだけど。今度、飯でも行かない?」


時間が、止まった。

耳鳴りがする。

今、彼は、なんて言った?


「君の頑張った話、もっと聞かせてほしいから」


半年間、私が夢に見続けた言葉。

それは、想像していたよりもずっと、温かくて、誠実な響きを持っていた。

涙が溢れそうになるのを、必死で空を見上げて堪える。

給湯室の蛍光灯が、やけに滲んで見えた。


「はい。喜んで」


やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど、弾んでいた。



第五章:琥珀色の時間


金曜の夜7時。約束のイタリアンレストランは、温かいオレンジ色の光に満ちていた。ガラス張りのエントランスから中を覗くと、テーブルの上ではキャンドルが小さな炎を揺らし、楽しげな会話と食器の触れ合う音が心地よいBGMとなって響いている。


私は約束の10分前に着いてしまい、入り口のメニューボードを眺めるふりをしながら、心臓の音を落ち着かせようと必死だった。


選んだネイビーのワンピースは、体に心地よくフィットしている。でも、本当にこれで良かっただろうか。もっと華やかな方が良かった?それとも、もっとカジュアルに?ぐるぐると不安が頭を巡り始めた、その時だった。


「鈴木さん」


振り返ると、息を呑んだ。

そこに立っていたのは、いつも見ているスーツ姿とは全く違う、神宮寺大雅だった。

オフホワイトのリネンのシャツをさらりと着こなし、袖を無造作に肘までまくり上げている。そこから覗く腕は、鍛えられているのが分かった。ボトムスは、すっきりとしたシルエットのチャコールグレーのスラックス。革靴ではなく、クリーンな白いレザースニーカーを合わせている。


その完璧なまでの「抜け感」に、私は自分の緊張が一周して、どこか冷静になっていくのを感じた。

住む世界が違う、という言葉が、また頭をよぎる。


「ごめん、待った?」


彼が、今度ははっきりと私を見て、少しだけ目を見開いた。


「いえ、私も今来たところです」と答えるのが精一杯だった。

「そのワンピース、すごく似合ってる。…本当に綺麗だ」


彼は私の顔をじっと見つめる。その視線に耐えられず俯きそうになるのを、ぐっと堪えた。


「痩せて、顔の印象もずいぶん変わったんだな。なんていうか…もともと大きな目だったけど、少し垂れ目勝ちの優しい目元が、すごくチャーミングだ」


まっすぐに、照れもせずにそう言われ、心臓が大きく跳ねる。垂れ目なんて、以前はただ眠そうに見えるコンプレックスだったのに。彼の目には、それが魅力的に映るのか。


「行こうか」


彼が、私のために店のドアを開けてくれる。そのスマートな仕草に、また一つ、胸の奥がきゅんとなった。

案内されたのは、窓際の二人席。テーブルの中央には、小さなキャンドルと、一輪のガーベラが飾られている。


「すごい、素敵なお店…」

「気に入ってくれると嬉しい。ここのパスタ、美味しいんだ」


そう言ってメニューを渡してくれる彼と視線が合い、思わず逸らしてしまう。


「飲み物はどうする?俺はビールにしようかな」

「あ、じゃあ、私も…」


言いかけて、はっとした。ダイエットを始めてから、アルコールなんて一口も飲んでいない。カロリーの塊。今までの私なら、絶対に「お水で」と答えていたはずだ。


でも。


今日は、特別な日だ。半年間、私がこの日のために頑張ってきたのだから。


「…ううん、やっぱり、白ワインをお願いします」


勇気を出してそう言うと、彼は少し驚いたように目を丸くし、そして嬉しそうに微笑んだ。


「いいね。じゃあ、乾杯しよう」


運ばれてきたグラスの中で、琥珀色の液体がきらきらと光を反射している。


「半年間、本当にお疲れ様」


彼が差し出したグラスに、自分のグラスをそっと重ねる。カチン、と澄んだ音が響いた。半年間の私の孤独な戦いを、祝ってくれる音だった。

久しぶりに口にしたアルコールは、フルーティーな香りと共に喉を通り過ぎ、体の緊張をじんわりと解かしていくようだった。


「何食べる?好きなもの、頼んで」


彼の言葉に甘えて、メニューを広げる。そこには、チーズ、生ハム、オリーブオイル、クリーム…私がずっと避けてきた、魅惑的な単語が並んでいた。


「うわあ、どうしよう…全部美味しそう…」


素直な心の声が漏れると、彼はくすくすと笑った。


「今日は、チートデイってことにすればいい」


その言葉に背中を押され、私たちは生ハムとルッコラのサラダ、魚介のフリット、そして彼のイチオシだという、ポルチーニ茸のクリームパスタを注文した。


運ばれてきた料理は、どれも彩り豊かで、見ているだけで心が躍る。

オリーブオイルの青々しい香り。揚げたてのフリットの香ばしさ。そして、濃厚なクリームとポルチーニ茸が絡み合ったパスタ。

一口食べるたびに、体の隅々まで、幸福感が染み渡っていくのが分かった。


美味しい。


ただひたすらに、美味しい。


カロリー計算も、罪悪感も、今は頭の片隅にもない。目の前の人と、美味しいものを分かち合う。それがこんなにも、幸せなことだなんて知らなかった。



第六章:解ける魔法、現れる素顔


ワインを少し飲んだせいか、私の舌は驚くほど滑らかになっていた。


「最初は、本当に辛くて。毎朝、鶏むね肉を茹でながら、なんで私こんなことしてるんだろうって泣きそうになってました」

「ははは、目に浮かぶな」

「でも、2ヶ月くらい経って、初めて体重計の数字が5キロ減ったのを見た時、もう、ガッツポーズですよ!深夜のジムで一人、静かにガッツポーズ」

「危ない人じゃないか」


彼が、心から楽しそうに笑う。その笑顔を見ているだけで、胸がいっぱいになる。

私は、ダイエット中の失敗談や、初めてコスメカウンターに行った時の緊張、サイズの合う服を見つけた時の感動を、まるで昨日のことのように生き生きと話していた。


信じられなかった。以前の私なら、彼の前で萎縮して、きっと「はい」と「いいえ」しか言えなかっただろう。俯いて、相槌を打つのが精一杯だったはずだ。


でも、今の私は違う。


自分の言葉で、自分の感情を伝えられている。そして彼は、それを真剣な眼差しで、時にお腹を抱えて笑いながら、聞いてくれている。



「神宮寺さんは、何か運動とかしてるんですか?」

「俺?俺は、週末にバスケしてるよ。学生時代の仲間と」

「バスケ!だからそんなに背が高いんですね」

「それ、よく言われるけど、多分関係ない」



他愛のない会話。でも、その一つ一つが、彼のパーソナルな部分に触れているようで、宝物のように感じられた。彼が甘いものよりしょっぱいものが好きなこと、休日は家で映画を見ていることが多いこと、意外にもホラー映画が苦手なこと。知らなかった神宮寺大雅が、少しずつ私の目の前に現れる。


「鈴木さんは、何か趣味とかあるの?」

「えっと、昔から読書は好きです。あとは…最近、料理が楽しくなってきました。ヘルシーなレシピを考えるのが、パズルみたいで」

「すごいな。今度、俺にも作ってよ」


――今度、俺にも作ってよ。


その言葉が、心の中で何度もリフレインする。それは、社交辞令かもしれない。でも、彼の口からそんな言葉が聞ける日が来るなんて、夢にも思わなかった。


気づけば、私たちは2時間以上も話し込んでいた。こんなに誰かと楽しく話したのは、人生で初めてかもしれない。この時間は、私が努力して手に入れた、魔法の時間だ。でも、もうすぐ日付が変わる。魔法が解ける時間が、刻一刻と近づいている気がして、少しだけ怖くなった。



第七章:告白


ひとしきり話し終え、食後のデザートが運ばれてきた。私の前には、マスカルポーネクリームの上にココアパウダーが振りかけられたティラミス。彼の前には、つややかなカラメルソースがかかったパンナコッタ。


甘い香りが、二人の間の空気を優しく満たす。


名残惜しい気持ちで、スプーンをティラミスに入れる。ひんやりとしたクリームの甘さが、口の中に広がった。


その時だった。


彼が、ふと真剣な顔になって、ポツリと呟いた。


「…本当に、綺麗になったね」


キャンドルの炎が、彼の瞳の中で揺れている。

そのまっすぐな視線に、心臓が大きく跳ねた。


「元々、人の嫌がるコピー用紙の補充とか、シュレッダーのゴミ捨てとか、率先してやってただろ。他の人から仕事を押し付けられても、嫌な顔一つしない。だから、心の綺麗な人だなって、ずっと思ってたんだ」


――え?


「でも、こんなに努力して、外見も中身も、もっともっと素敵になって。…ますます、好きになっちゃうな」


時間が、止まった。

レストランの喧騒が、遠くに聞こえる。

好き?今、好きって言った?


誰が?誰を?


彼が、私を?


信じられなかった。私の努力を見てくれていたことだけでも奇跡なのに。それ以前の、誰もが見て見ぬふりをするような、地味で、報われない仕事ぶりを、彼はちゃんと見ていてくれた。そして、そんな私を「心の綺麗な人だ」と、思ってくれていた。


脂肪の鎧で隠していた、本当の私。


一番、認めてほしかった部分。


気づいた時には、私の頬を、熱い雫が伝っていた。


ぼろぼろと、大粒の涙が、テーブルクロスに染みを作っていく。嬉しいのに、止められない。


「あ、ごめん…!」


慌てた彼が、ポケットから綺麗なブルーのハンカチを差し出す。


「ありがとうございます…っ」


しゃくりあげながらそれを受け取る。彼のハンカチは、彼と同じ、爽やかな香りがした。

彼が、テーブル越しに、そっと私の手に自分の手を重ねた。大きくて、温かい手だった。


「驚かせたよな。でも、本気だ」


彼の声が、優しく鼓膜を震わせる。


「鈴木さん。いや、紗絵さん。俺と、付き合ってください」


半年前のあの夜、ポテトチップスを握りしめて泣いていた私に、教えてあげたい。

あなたの孤独な戦いは、決して無駄じゃなかったよ。

世界で一番欲しかった言葉が、今、すぐ目の前にあるよ、と。

私は、涙で濡れたぐしゃぐしゃの顔のまま、人生で一番、大きく頷いた。



第八章:新しい日常と、古い影


大雅と付き合い始めてからの毎日は、夢のようだった。


会社の給湯室で、こっそり視線を交わす。エレベーターで二人きりになった時に、彼がそっと私の手に触れる。週末は、映画を観たり、公園を散歩したり、彼が私のために手料理をふるまってくれたりもした。彼の作るペペロンチーノは、絶品だった。


幸せの絶頂。


でも、光が強ければ、影もまた濃くなる。

私が「神宮寺さんの彼女」になったという事実は、すぐに社内に広まった。

祝福してくれる人もいた。でも、それ以上に多かったのは、嫉妬とやっかみの視線だった。

カフェスペースで聞こえてくる、ひそひそ話。


「信じられない。神宮寺さん、なんでよりによってタンクと…」

「どうせ、痩せたからってすぐ調子に乗ってるだけでしょ」

「体目的じゃない?すぐ飽きられるわよ」


鋭いナイフのような言葉が、私の心を切り刻む。

せっかく手に入れた自信が、音を立てて崩れていくようだった。私は、本当に大雅にふさわしいのだろうか。彼は、私の隣にいて、周りから変な目で見られていないだろうか。

不安で、夜、眠れなくなることもあった。


そんなある夜、ソファで私の顔を覗き込んできた大雅が、心配そうに言った。


「紗絵、最近元気ないな。何かあった?」

「ううん、何でもない」


笑顔を作ったつもりだったけど、彼の目は誤魔かされなかった。


「会社の人のこと、気にしてるんだろ」


図星だった。私は何も言えずに俯く。

すると、彼は力強く、私を抱きしめた。


「いいか、よく聞け。俺が好きになったのは、紗絵だ。半年前の、一生懸命だった紗絵も、今の、綺麗になった紗絵も、全部含めて、鈴木紗絵という一人の人間を、俺は好きになったんだ」


彼の腕の中で、私は子供のように泣いた。


「周りの声なんて、気にするな。俺だけを見ててくれればいい。俺も、紗絵だけを見てるから」


その言葉が、私に新しい強さをくれた。

もう、迷わない。私は、私の幸せを、この手で守り抜く。



エピローグ:さよなら、88キロの私


あの日から一年後。2025年の夏。


私たちは、ハワイの、海の見えるチャペルにいた。


日本の会社での人間関係に疲弊していた私を気遣い、大雅が提案してくれた、ごく近しい家族だけを招いた結婚式。

純白の、マーメイドラインのウエディングドレス。


1年半前の私では、決して着ることのできなかったデザインだ。デコルテが綺麗に見えるビスチェタイプで、背中は大きく開いている。鏡に映る自分の姿に、まだ少しだけ、慣れない。分厚い脂肪に埋もれていた輪郭はすっきりと現れ、彼が「チャーミングだ」と言ってくれた垂れ目勝ちの目は、幸せに潤んでキラキラと輝いている。


「紗絵、綺麗だよ」


隣に立つ父が、涙声で言った。

バージンロードの先には、白いタキシードに身を包んだ大雅が、少し緊張した面持ちで私を待っている。

父の腕に導かれ、一歩、また一歩と、彼のもとへ進む。


チャペルに差し込むハワイの強い日差しが、まるでスポットライトのように私たちを照らしていた。

祭壇の前で、大雅と向き合う。彼の瞳が、優しく潤んでいるのが見えた。

神父様の荘厳な声が響く。


「汝、神宮寺大雅は、彼女、鈴木紗絵を妻とし、健やかなる時も、病める時も、これを愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」

「はい、誓います」


迷いのない、力強い声。


「汝、鈴木紗絵は、彼、神宮寺大雅を夫とし…」


私のこれまでの人生が、走馬灯のように駆け巡る。


「タンク」と呼ばれ、うつむいて歩いていた日々。鏡の中の自分に絶望した夜。泣きながら真夜中に走ったランニングマシン。初めてMサイズの服が着られた日の、試着室での涙。

そして、彼の「好きだ」という言葉。

すべてが、この日のためにあったのだ。


「はい、誓います」


震えながらも、はっきりと答えた。


指輪の交換を終え、神父様が微笑む。


「それでは、誓いのキスを」


大雅が、私の前に立ち、優しくベールを上げる。

彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

プルメリアの甘い香りと、潮の匂いが混ざり合った。

唇に、柔らかく温かい感触。


それは、ほんの数秒。でも、私にとっては永遠にも感じられる時間だった。


頑張って、本当によかった。


さようなら、臆病で、自分を嫌いだった過去の私。


唇が離れ、目を開けると、涙を堪えきれないでいる大雅の笑顔があった。

チャペルの扉が開かれ、参列してくれた家族からの、祝福のフラワーシャワーが私たちに降り注ぐ。

青い空、エメラルドグリーンの海、色とりどりの花びら。


私は、人生で最高の笑顔で、愛する人の腕に抱かれ、幸せになることを、強く、強く誓った。

ご一読いただきありがとうございます!

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これからもよろしくお願いします(^O^)/

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