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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

1918年の9月。イープルにて。

もうどこかの誰かがやったかもしれないネタ。

 1918年。9月。ベルギー:イープル。

 ―――――

 西部戦線の停滞は狩人達の攻防を招いた。

 夜を迎える度、両軍共に少人数で編成された斥候部隊や偵察部隊が相手の防御の穴を探るため、狙撃手達がマヌケな敵兵を狩るため、砲弾で耕された無人地帯へ出撃していく。


 イギリス軍狙撃手の彼もそうした狩人の一人だ。

 イングランド西部の農村で生まれ育った21歳。

 “肉屋”ヘイグの無能な作戦の数々を幸運にも生き延び続けた彼は、農家出身者らしい忍耐強さと祖父仕込みの銃の腕前から、連隊の臨時編成強硬偵察小隊に選抜されていた。


 泥を塗りこんだマントのように偽装布を羽織り、フードを目深に被った狙撃手達が梯子を上り、鉄条網の間を抜けて無人地帯へ赴く。


 無人地帯は静寂に凍てついていた。

 長きに渡って両軍の砲弾が雨霰と降り注ぎ続けたため、イープルの大地は大きな砲撃孔が無数に刻み込まれ、広大な泥濘となっている。


 秋夜の冷気と泥土は凄惨な悪臭に満ちている。染みついた硝煙の臭い。大量に撒かれた毒ガスの残留臭。砲撃孔に溜まった濁り水の汚臭。

 そして、死の臭。


 回収されずに腐り、鼠や虫の餌となっている死体の臭い。この泥土にばらまかれた無数の肉片が漂わせる腐臭。腐った血肉が溶け、体内の糞便と混ざり合った悪臭。


 地獄の臭いに胃が震え、胃液がせり上がる。も、誰一人として嘔吐するどころか、しわぶき一つこぼさない。皆、骨の髄まで理解しているから。

 夜の無人地帯で音を立てれば、大変な危険を招くことを。


 照明弾で探られたり、ビビった歩哨が発砲したりする程度なら良いが、射撃壕の機関銃掃射や迫撃砲の砲撃を浴びたら、目を瞑って神に祈るしかない。


 狙撃手の彼は散開した仲間達と共におぞましい臭いと泥土の冷たさに耐え、ひたすらに這い進む。ドイツ軍塹壕陣地の第一線を窺えるまで。


 別の戦区から遠雷のように迫撃砲の甲高い砲声と爆発音が届く。月明りを遮る夜霧の中から、鼠達が死者を齧る音が聞こえてくる。

 誰一人無駄口を叩かない。腐った死体の真横を通り、込み上がるゲロを飲み下し、泥に塗れた身体で黙々と這い進み続ける。


 無限に続くかと思える苦行の果て、闇の先にうっすらと塹壕線が見えた。狙撃手達はそれぞれの射撃位置を求め、鼠のように蠢く。


 彼は盛り上がった泥土の陰に回り、愛用のリー・エンフィールドを構えた。

 ゆっくりと槓桿を操作して初弾を薬室へ送り込み、人差し指を用心鉄に添える。機関部上に据えたドイツ製スコープを覗き込む。


 夜霧と光量不足でほとんど何も見えない。それでも、闇の先に獲物を見える瞬間を待ち、彼は狙撃銃を構えたままじっと耐える。


 多くの狙撃手は獲物を待ち構える間、小説や映画の登場人物みたく故郷の家族や恋人を想ったりしない。これから殺人を犯すことの不安と背徳的昂揚を抱いたりしない。ただただ禅行をしているような状態に陥る。何も考えず、何も思わず、無心でひたすら待ち続ける。


 秋夜の冷気に泥水で濡れた身体が震え、奥歯が噛み合わなくなり始めた。彼は首に巻いていたボロ布――汚く汗臭いタオルを噛んで歯が鳴ることを防ぐ。


 スコープの中に獲物は映らない。


 微かな気配がし、眼球だけ動かせば、傍らを丸々と太った鼠が歩いていた。口に誰かの指をくわえている。

 “肉屋”ヘイグやチャーチルは百万人以上のイギリス兵達を挽肉に変え、鼠達に振る舞っていた。


 この戦争で彼が学んだことは『敵よりバカな司令部の方が恐ろしい』だ。


 彼はそろそろと息を吐き、思考を断つ。

 良き猟師は引き金を引く瞬間まで自然と一体化する。自然は思考しない。ただあるのみだ。


      ○


 夜がさらに更け、夜霧が一層濃くなる。冷気も強くなり、手足の指から感覚が遠くなり、四肢が痛みを覚える。腰や背中、腹の筋肉が強張っている。


 静謐。されど静穏ではない。

 いつ死神の手が自分の足首を掴むか分からないのだから、無理もない。ましてや、鉄と炸薬の姿に化けた死神の使徒は冥界へ連れ去る命の善悪も貴賎も問わない。


 不意に銃声が響き渡り、冷たい静寂が破られた。


 小隊の左翼からだ。

 彼は目を凝らして前方を窺う。

 夜霧の闇の先で何かが動く気配がする。恐怖と緊張の気配がする。


 ぴしり、と冷気が軋む。

 前方の闇を激しい発砲光が引き裂き、荒々しい連射音が夜闇に響き渡る。曳光弾が無人地帯を走り、泥濘を跳ねる。泥土が削がれ、弾ける音色。


 彼は銃口を発砲光へ向け、スコープの照準線を発砲光から約一メートル分ずらす。レンズの精度か闇が濃すぎるのか、連射の発砲光程度では射手の姿を確認できない。

 だが、彼は迷わずに凍えた指で引き金を絞った。

 銃声が鼓膜を叩き、銃床を通じて反動が肩を叩く。


 手応えがあった。

 その感覚を肯定するように機関銃掃射が途絶え、塹壕からドイツ語の悲鳴と怒声が聞こえてきた。しかし、即死させられなかったらしい。


 彼は盛り上がった泥土の陰へ身を隠し、銃をぬいぐるみのように抱えた。銃身を覆う先台と機関部から漂う発砲熱が凍えきった体には酷く熱く感じる。


 息を潜め、祈る。

 神ではなく、何かに。

 塹壕のドイツ人達が怒り任せに砲撃を要請しないことを。


 おそらく今、塹壕内でドイツ兵達は覗き窓や塹壕鏡に貼りつき、目を皿にして無人地帯を睨みつけているだろう。夜闇に隠れた“卑劣な”狙撃手を探そうと躍起になっているはずだ。


 以前ならば、夜闇に身を潜めた殺し屋に怯えたものだが、敵も味方も今は何が何でも狙撃手を殺そうとする。ぶち殺して安心を得ようとする。


 彼は小銃を抱いたまま動かない。ボロ布を噛んで泥水に濡れた寒さを堪え、不安と恐怖に耐える。


 動く気配がした。

 塹壕からではなく、十数メートル右隣から。


 緊張感に耐えかねた味方の狙撃手が位置移動を試みたようだ。

 ダメだ、ジャック。まだ“早い”。敵はこちらを見ている。彼が眉間に皺を刻んだ、刹那。

 塹壕から鋭い発砲音が響き、右翼から悲鳴が上がった。苦痛の絶叫。


 直後、前方の塹壕から一斉射が生じた。怒涛のような銃声。津波のように襲い掛かる弾幕。爆ぜる泥土。跳ねる銃弾。何発もの流れ弾が彼の潜む泥土に着弾する。ジャックの体から飛び散る血と肉片。ジャックの口から悲鳴が絶えた。


 死神が足元まで迫った恐怖はあまりにも強大で、滴るほどの汗が噴き出した。手足の筋肉が発熱し、喉がからからに渇き、胃が震え、胸に圧迫感を覚える。


 発作的に叫びながら立ち上がりたい衝動に駆られた。心臓を鷲掴みにしている恐怖から逃れたくて。この地獄から逃げ出したくて。家族の許や故郷へ帰りたくて。


 彼は必死に耐える。目を固く瞑り、ゆっくりと深く息を吸う。一、二、三、四と続けて。ゆっくりと長く息を吐く。1、2、3、4と続けて。緩やかで独特な深呼吸を繰り返し、声に出さず自分へ言い聞かせる。

 大丈夫。大丈夫。平気だ。きっと何とかなる。大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 何度も何度も何度も何度も。


 どれだけ深呼吸を繰り返し、どれほど自分へ言い聞かせても、恐れと怯えは消えない。

 でも、薄まる。泥土の陰から身体を動かす程度の勇気が湧く。


 彼はカタツムリよりも緩やかな動作で小銃を構え、数秒掛かりで槓桿を操作して排莢し、弾倉の次弾を薬室へ送りこみ、スコープを覗く。


 ジャックを仕留めた奴はドイツ軍の狙撃手だ。この夜霧の闇の中、ジャックのわずかな動きを捉えて仕留めた。

 能うなら、こいつを仕留めたい。

 仲間の仇討ちの為ではなく、脅威を排除するために。


 小銃を構え、スコープを覗き込み、用心鉄に指を添え、彼は待つ。じっと待つ。

 長い夜はまだ終わらない。

 霧は解けることなく、月も星も見えないままだ。


       ○


 時計の針がどれほど進んだだろう。

 銃を構える身体は死人のように強張り固くなっている。疲労と疲弊から眠気が生じてくる。抗い難き睡魔の誘惑。


 彼は銃を構えたまま、右手を動かして中指で汚泥をすくい取り、歯茎に塗った。

 暴力的な悪臭が口腔内に広がった瞬間、生理反応として涙が溢れ、嘔吐し掛ける。腹に力を入れ、唾で溶けた泥諸共にゲロを飲み下した。鼻腔内に広がるゲロの臭い。舌の上に残る胃液の酸っぱさ。

 フィジカルな苦しみに眠気が飛ぶ。


 涙に濡れた目で彼はスコープを覗き続ける。

 撃つべき敵はまだ見えない。

 冷たさと寒さに耐え、待つ。

 渇きと空腹を堪え、待つ。

 肉体的疲労と精神的疲弊を忍び、待つ。

 機を待つ。機会を待つ。無心で待ち続ける。

 引き金を引き、人を殺せる一瞬を。


 ふと微かな風が肌を撫でた。

 冷え切った肌は微風の刺激すら激しい苦痛をもたらしたが、痛みは意識をより鮮明にした。アドレナリンを始めとする脳内物質の分泌によって集中力が絞り出される。


 彼はスコープを覗き、闇の先を狙い待つ。

 微風によって夜霧が揺らめき、遮られていた月光や星明りが殺戮の舞台へ届いた。

 霧の狭間から照らされる塹壕戦と無人地帯。無数の砲撃孔の底に溜まった汚水や濡れた泥濘が反射し、鈍く煌めいて――


 いくつかの銃声が轟いた。

 無人地帯から。

 塹壕から。


 彼は撃たなかった。見ることに集中していた。

 射界内に映る塹壕の覗き窓に発砲光はない。射撃壕にも動きはない。


 だが、射界内から発砲音は生じていた。

 何らかの方法で隠蔽している。


 どこだ。

 どこにいる。

 殺すべき相手はどこに隠れている。


 彼はスコープ内に映る塹壕を狂ったように凝視し、ドイツ軍狙撃手を探し続ける。


 あの亀裂の奥か? あの隙間の先か? どこだ? どこに隠れた?


 分からない。

 どこに居るか分からない。

 彼は瞬きを忘れて敵を探し続ける。

 芋虫のような緩やかさで銃を動かし、射界内を見回していく。


 ――?


 何かが星明りを照り返す。

 スコープを向けた。塹壕の背後に火砲用の大きな空薬莢が何十本と埋まる泥山があった。泥水に濡れた真鍮製空薬莢が照り返したらしい。


 彼は空薬莢がたくさん埋まった泥山を注視する。何か違和感がある。

 なんだ?

 何かがおかしい。

 何がおかしい?


 疲労と疲弊でヨレかけた頭では疑問を解けない。だが、彼はこの違和感を根拠に確信する。狙撃手はあそこに隠れている。


 用心鉄に沿えていた人差し指を引き金に掛ける。細く長く息を吐き、心拍数を落とし、身体の震えを鎮めていく。

 微風がやみ、揺らいでいた夜霧が落ち着きを取り戻す。月光と星明りが弱くなっていく。

 再び闇が濃くなっていく、間際。


 彼は違和感の正体を捉えた。

 泥山に埋まる多くの空薬莢。その一つだけ周囲と泥の付着の仕方が違う。まるでその一つだけ別のところから持ち込んだように。


 彼はスコープの照準線を異なる空薬莢の口へ合わせた。空薬莢の向こうに隠れているだろうドイツ兵の姿は見えない。

 しかし、奴は必ず、あの空薬莢の向こうに居る。


 彼は引き金を引く。

 放たれた303ブリティッシュ弾は、吸い込まれるように空薬莢の中へ飛び込み――



 底を繰り抜いた薬莢を射撃口にし、泥山の中で銃を構えていた狙撃手へ襲い掛かる。

 30口径弾はスコープを覗く右目へ集中するために閉じた左目へ命中し、狙撃手の脳ミソや頭蓋骨と共に後頭部から飛び出した。


 先台を支える左手と銃把を握る右手に、人を殺した確信が宿る。

 彼は緊張を抜くように息を吐いて、泥土の陰へ身を隠す。

 強敵を殺した達成感と強敵と戦って生き延びた満足感。

 血肉沸き立つほどの歓喜と昂奮。


 しかして、それは心身を苛ませる疲労と疲弊を忘れるほどでもなかった。


      ○


 夜が終わり始めた。

 イギリス軍狙撃手達はゆっくりと這って後退していく。彼も銃を下げて後退を始めようとしたその時。

塹壕陣地覗き窓の先にドイツ兵が見えた。


 30前後の痩せた口ひげ男。神経質で気真面目そうな男だ。襟元の階級章は上等兵。いや、伍長か? ドイツ軍には伍長待遇上等兵という階級があるので、それかもしれない。


 彼は照準線を口ひげ男の顔に重ね、引き金に指をかけ――

 口ひげ男が仲間から小汚いカップを受け取り、口へ運ぶ様を見て、引き金から指を離した。


 早朝の一杯を楽しむ下っ端を撃ち殺すことはあるまい。

 小銃を下げ、彼は這ったまま無人地帯から去っていく。

 



 後の第五次イーペル会戦にて、彼は仲間達と共に戦死した。

 自分が撃たなかった男が何者なのか知ることなく。


       ○


 イギリス軍狙撃手に殺されかけていたことなど露ほども知らぬまま、口ひげ男が白湯を味わっていると、曹長に声を掛けられた。

「ヒトラー。この文書を中隊長の許へ届けてくれ」

Tips

ヘイグ

 イギリス大陸派遣軍の総司令官。

 あまりにも大勢のイギリス兵を犬死にさせたため、味方から『肉屋』と蔑まれ、本国から「お前に兵隊を渡しても無駄に死なせるだけだろ!」と増援を拒否された。

 故郷に銅像が作られたため、その無能さを語り継がれる羽目になった。


砲弾の空薬莢による偽装。

 第二次大戦でドイツの狙撃手がやっていたらしい。狙撃手の名前は忘れた。


アドルフ・ヒトラー

 1918年の9月、イープル戦の毒ガスで負傷し、後送。入院先で戦争の敗北を知ったという。

 最終階級は伍長ではなく『伍長待遇一等兵』というのが正しいところらしい。真実かどうかは知らん。

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ヴィルミーナめっちゃ好きだったからお布施したいので TwitterとかにAmazonとかのウィッシュリストなんかあげておいてほしーな等 (カクヨムなら小銭投げるんですけども) 新作期待しています
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