行きは良い良い
「やっほ~! お待たせ~!」
黒いミニバンがすーっと近づいてきて、急停車気味にききっと停まると、助手席のドアが開いて、長身の女性が歩道に降り立った。
ブラウンのふわっとしたショートボブヘアーに、シンプルなカットソーに、ゆったりしたパンツ姿。
「あ、あなたがここいちゃんでしょう? あはは、やっぱり、聞いてたまんまだ」
小さな口のぽってりした唇から真っ白な歯が覗いた。
「え、あ、はい、えっと、ネルちゃんの……?」
わたしは彼女を見上げて、その髪の流麗な曲線と、それに連なる長い首のラインに見とれて、どぎまぎしながら答えた。
なんて綺麗な首筋だろう。今ここに吸血鬼が現れたら真っ先にこの首に噛り付くに違いない。
「うん、姉の櫻木萌音です。いつも妹がお世話になってます。で、そちらが深杜ちゃんだ。これから長々とご一緒することになるから、気を遣わないで良いからね」
「はい、ありがとうございます」
深杜はリラックスした様子でにこやかに答えた。
「ちょっと、ここい、あたしも紹介してよ! ハーイ、みもりちゃ~ん!」
運転席のユヅキさんが身を乗り出して、ゾンビみたいに手を伸ばしている。
今日はでっかいサングラスをかけていて、普段より一層ちゃらちゃらして見える。
「深杜、あのグラサンの派手な人がユヅキさんだよ」
「どうもこんにちは。お噂はかねがね」
わたしの言葉に、深杜は車内を覗き込んで軽く会釈をした。
「……なんかあたしの扱い、雑じゃね?」
「はいはい、じゃあ荷物積んじゃおうか。手元に置いときたいものは出しておいてね」
萌音さんは車の後ろで腰に手を当て、胸を張るように立ちながら、はっきりと綺麗な滑舌で言った。か、かっこいい。
「あ、ありがとうございます!」
「すいません、萌音さん」
萌音さんはわたしたちから重いギターとバッグを一つずつ受け取り、軽々とラゲージルームに積みこんでいく。
め、めちゃくちゃかっこいい。だめだ、わたしの中の何かが目覚めてしまいそう。
「はい、じゃあ乗って乗って」
萌音さんはそう言って、後部座席のドアを開けてエスコートまでしてくれた。ああかっこいい。
三つ並んだシートの奥には、ちょこんとネルちゃんが座っていた。
「……どうも」
なにかちょっと普段と様子が違う。端的に言って、不機嫌そうだった。
「どしたの、ネルちゃん?」
「いえ別に」
あんまり目を合わせてくれない。萌音さんと喧嘩でもしたのかな?
「ネルはね~、ここいがお姉ちゃんに取られちゃいそうで心配なんだよね~?」
ユヅキさんが意地悪そうな声色で言うと、ネルちゃんは目の前の座席をドンドン叩いた。
「うるさい! ユヅキちゃん黙ってて!」
すごい。初めて見た。めちゃめちゃ中学生っぽいネルちゃん。
「ちょっとここい~? ネルに謝んなさいよ!」
深杜が悪ノリすると、
「そうだ! おまえのせいだぞ!」
ユヅキさんが乗っかる。
密室内で地獄のような人間模様が展開していた。嫌なバンドだなあ。
「いっっっつもそう! お姉ちゃんに会わせると、みんなして萌音さん萌音さんって! それであたしが今まで何人友達を取られたか……泥棒猫め! きぃー!」
ネルちゃんはハンカチでも噛みしめんばかりに僻んでいる。
「でも本当に萌音さんって素敵ですよね」
なにが『でも』なのか。深杜はどうやら文脈ってものが読めないらしい。てか、蒸し返さないでよ。
「こいつ、こんなだからさあ、女子高時代まあモテてモテて……バレー部のエースだったから」
「ああ、なるほど!」
女子高! バレーボール部! ユヅキさんの言葉にわたしと深杜は顔を見合わせ、深く頷き合った。
ユニフォーム姿の萌音さんの前に、きゃあきゃあと女の子たちが集まっている光景が目に浮かぶようだった。
「なんだっけ、『閃光のウイングスパイカー』だっけ? 雑誌にキャッチコピー付きで載っちゃってさあ」
ユヅキさんはハンドルを叩きながらゲラゲラ笑っている。
「あったね、そんなこと」
萌音さんは冷めた表情でシニカルに笑った。
ネルちゃんはいよいよつまらなそうに、ふくれっ面で窓の外を見ている。
「そっか、じゃあネルちゃん、真ん中においで」
わたしはシートベルトを外し、ネルちゃんを捕まえて、ぐいぐい引っ張った。
「いや、いいですよ。ちょ、やめて!」
「ほらネル、こっち」
深杜も参加して、大きなカブのようにネルちゃんを引っこ抜く。
ネルちゃんはジタバタしながらわたしの身体の上をごろりと転がった。レスリングならポイントが入っていたであろう。
「ちょっとおまえら、暴れんな! あとさっさとシートベルトしろ! キップ切られたらぶっとばすかんな!」
ユヅキさんが怒鳴っている。
「よかったねえ、ネル。お姉さんたちに可愛がってもらえて」
のんびりと微笑んでいる萌音さん。
「うるさいなあ! ばか! みんな嫌い!」
ネルちゃんはぷんすか怒っている。
「ほらネルちゃん、ポテチ食べる?」
「手が汚れるんで結構です」
「じゃあはい、あーんしてあげる。おいちい、おいちいねえ」
「ぱりぱり……口、パッサパサなんですけど」
「ほらネル、お茶だよ~」
「あたし、緑茶は基本『二十五茶』しか飲まないんですけどねえ。ごくごく」
櫻木音瑠は、ご機嫌取りの年上二人に甘やかされてすっかり増長していた。
「お茶飲めてえらいねえ、ネルちゃん!」
「……ふん、どうせあたしはお茶飲むくらいしか出来ませんよ。お姉ちゃんと違って」
「そっ、そんなこと言っちゃだめだよ、ネル」
深杜のこめかみがピクピクして、限界が近いことを告げていた。
「ネルちゃんはドラムおじょうずでしょ? わたし、ネルちゃんのドラム好きだなあ」
「ドラムじゃなくて、人間性の話をしてるんです。お姉ちゃんとあたし、どっちが人として優れていますか?」
わたしのこめかみがピクピクして、以下同文。
「く、比べるものじゃないでしょ〜? ネルちゃんにはネルちゃんの良さが、萌音さんには萌音さんの良さが……」
「詭弁はいいから答えてくださいよ、先輩。お姉ちゃんとあたし、どっちが好きですか? いえ、どっちが『上』ですか!?」
「め、めんどくせぇ……」
「今なんか言いました? 深杜さん」
「ちょっとネル、その辺にしときなさいよ」
助手席の萌音さんが振り返りながら止めに入った。
「二人ともごめんね。まったくお子様なんだから」
「あ、いえ、遊んでただけなんで全然」
「え? ここい先輩?」
「妹さんが甘やかされてつけあがる様子を、つぶさに観察してました」
「深杜ちゃんまで!?」
うろたえる裸の王様こと、櫻木音瑠。
「ほら、ちゃんと真っすぐ座んなさい。よっかからない」
「は、はい、すいません! あ、あたしまたポテチ食べたいなぁ。ここい先輩、あーん」
「ネルちゃん、なんでもいいけどポテチのカスこぼさないでもらえる? 後で車内掃除ね」
「ていうか普通、運転手のユヅキさんに先にお茶、渡すよね? なに自分だけ飲んでんの?」
「え、ええぇぇ……」
本性を現した二人にドン引きのネルちゃん。
「……おまえら普段どういう付き合いしてんだよ」
ユヅキさんはげんなりした様子で呟いた。
「石川ちゃんは石川ちゃんで現地集合だもんね。まったくあの子は相変わらずマイペースなんだから」
ユヅキさんの言葉の通り、石川さんとは岩手で落ち合う手はずになっていた。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
「私、車、酔っちゃってダメなんですよ。新幹線で行きますんで、荷物だけお願いしていいですか?」
「え~!? じゃあ、あたしもすず姉と一緒に行きますよ!」
「大丈夫だから、ネルはみんなと行って。私は寄り道でもしながらのんびり一人旅するから」
石川さんのその言葉を、わたしはとても彼女らしいと思った。
もちろん車酔いのせいでもあるんだろうけど、なにより一人の方が気楽なのだろう。そういう気持ちはわたしにも良く分かる。
けれど、やっぱり寂しかった。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
「すず姉、一人でどこでも行っちゃう人ですからね。慣れてるんでしょうけど」
ネルちゃんは少し不満そうに口を尖らせた。
「……私のせいかなぁ」
突然、萌音さんが今までとは打って変わった静かな口調でそう言ったので、わたしは驚いて、斜め後ろから彼女を見た。
長いまつ毛と、耳と、少し俯いた白いうなじだけが見えた。
「やっぱりすずちゃん、私と会うの嫌なのかも」
まさか彼女の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
彼女には似つかわしくない、自虐的で、惨めと言ってもいいような、嫌な響きだった。
「気にしすぎだって。またベース弾いてるんだからさ、もう吹っ切れたってことでしょ? まあ、あんたと顔合わせるの、ちょっと気まずいくらいには思ってるかもだけどさ」
ユヅキさんは前を見てハンドルを握ったまま、努めて明るく答えているように見えた。
「すず姉、お姉ちゃんの悪口なんて一回も言ったことないよ。車酔いするのも本当だし、単独行動が好きなのも本当。心配しなくていいんじゃない?」
ネルちゃんが真面目な様子で言った。
何も訊けなかった。きっと石川さんが音楽から離れていた原因となった何かがあったのだ、とは思ったけれど、それを石川さんが話さない以上、他の人からも聞くべきではないと思った。
「話せるといいな、すずちゃんと」
萌音さんは窓の外を眺めながらぽつりと言った。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
車はひたすら高速道路を北上する。途中のサービスエリアでちょっと休憩して、そこからは萌音さんが運転を代わった。というかそもそもこの車は櫻木家のものなのだそうだ。
ユヅキさんは自分の荷物の中からボンゴを取り出して叩いていた。
最初は車内の音楽に併せて叩いていたのだけど、とうとうそれでは物足りなくなったらしく、アコギを出してきてわたしと深杜に車内で弾かせた。
ネルちゃんはタンバリンを叩いている。萌音さんはずっと笑っていた。
楽しかった。
これが人並みの幸せだとか青春ってものなのかな、なんてちらっと思った。わたしはそれがわたしに訪れることなんて、想像さえしたことがなかった。
考えてみれば全部ユヅキさんのおかげだった。ユヅキさんの紹介で、ネルちゃんと石川さんに会ったあの日から、私を取り巻く環境がいっぺんに動き出した。
どうしてユヅキさんはわたしにこんなに優しいのだろう。こんな、随分年下のひねくれた子供に構ってくれるんだろう。
暖かい気持ちに浸っていると、いつものように全身がぞくぞくして、鳥肌がたった。
怖かった。
ひとの暖かさを感じると、いつもこれがやってくる。
わたしにとってひとの暖かさは、遠くて、得体が知れず、信用がおけず、そして、すぐに去っていくものでしかなかった。
冷めていく熱をなんとか留めようと、わたしは無理に笑った。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
わたしたちは花巻の駅で石川さんと合流した。
今日は旅行ということで気合を入れているらしく、「他所行きの」、「作画が良い方の」石川さんだった。
大きな荷物は向こうで車に積んでいたから、彼女はショルダーバッグだけを肩にかけていた。
遠いこの場所でも石川さんはいつも通りの佇まいで、なんだかひどくほっとした。同時に、行動力のある彼女がとても大人に思えた。
「すず姉~!」
ネルちゃんがすぐに駆け寄って行った。
「無事で良かった~! 遠かったでしょ?」
「昔、推しのツアーを制覇したときに比べたら、全然。ね、櫻木さん」
石川さんは萌音さんに視線を向けて微笑んだ。
「あの時は大変だったね。お金も免許もなかったし、普通列車で」
萌音さんは見るからに嬉しそうに笑った。良かった、やっぱり石川さんには別にわだかまりはなさそうだ。
「皆さんもお疲れさまでした。すいません、わがまま言っちゃって」
車に乗り込むと、そう言って石川さんは皆を見回した。
「よし、じゃあスーパーに買い出し行こうか! コテージってことは、当然自炊だからね? 君ら、大丈夫だよね?」
ユヅキさんがからかうように訊く。
「私、ここいの揚げたとんかつが食べたい」
「わたしはホールスタッフだってば」
なんか深杜と、このやりとり、前にもしたような。
「今晩はBBQの準備してくれてるらしいよ。おまえら喜びな、前沢牛だってさ!」
「ほんとですか!? 肉! 肉! 肉! 前沢牛!」
「肉! 肉! 肉! 前沢牛!」
みんなの肉コールと共に車は発進した。