『深杜』
「はい、鶴見さん、この間のお返し」
わたしはレモンティーのペットボトルを鶴見さんに手渡した。
「ありがと」
わたしたちの教室のある南棟と管理棟の隙間の、庭というには狭くて、通路というには広いスペース。
鶴見さんは小さな花壇の縁に腰掛けて、ちょっと気まずいような、弱々しい視線をわたしに向けた。
遠くから吹奏楽部のドレミファソラシドの音と、剣道部の気合いの声と竹刀の音が小さく聞こえる。
校舎の陰になっている上にじめじめと風通しの悪いこの場所は、それゆえに生徒に人気がなくて、いつも人気がない。
わたしは教室の皆の視線に耐えられず、彼女の手を引いてここまで逃げて来たのだった。
「……さっきは、ごめん」
鶴見さんはまたそう言って目を伏せた。
この陰気な場所で見る彼女は、普段の華やいだ佇まいとはほど遠い、どこにでもいる平凡な女の子に見えた。
「わたしが悪いんだよ、急にぎゃーぎゃー言っちゃって。だから、おあいこにしよう? もうこの話、終わりってことで」
わたしはそんな鶴見さんを見ていることに耐えられなかった。
無邪気で、堂々とした普段の彼女は、わたしのちょっとした憧れだったから。
「私、一番言っちゃいけないことを言っちゃった。自分で一番大事にしてるはずのことを裏切っちゃった。それが許せないの」
話は全然終わりにはならなかった。
わたしは覚悟を決めた。
「あのさ、鶴見さん。わたしの話、聞いてくれる? きっと鶴見さんにしてみたらしょうもない話だし、みっともなくて、言い訳がましく聞こえると思うけど」
「……ここいのこと?」
「そう。今まで誰にも言えなかったこと」
「うん」
「言っとくけど、けっこう恥ずかしいんだからね」
わたしは照れ隠しにそう前置きして、一切合切を話した。
中学に上がって、周りの変化についていけずに孤立したこと。
そんな時に出会った『インディゴフィッシュ』のこと。
ギターを買ってもらったこと。
同級生の一言で傷ついたこと。
それから自分の心を表に出さなくなったこと。
それからはずっと一人でDTMを密かに続けていたこと。
最近バンドを組んだこと。
わたしはとにかく同情を引かないように注意を払いながら話をした。
これはわたしの不幸自慢じゃなくて、鶴見さんに納得してもらうための話なのだ。
「そんなわけだからさ、さっきのはただのアレルギーみたいなもんで、花粉が飛んできたからくしゃみが出ちゃっただけ。鶴見さんに悪気がないことなんて、わかってるよ。だから、わたしが悪かったです。ほんとうにごめんなさい」
わたしはそう言って深々と頭を下げた。
「……私、ここいのそんな大事なバンドのこと……」
鶴見さんはまだしょげていた。
なんだかわたしは、我ながら頭のおかしなことに、段々面倒くさくなってきてしまった。
「だーかーらー! 気にしないでって言ってるでしょ? もういいってわたしが言ってるんだから、もういいよ!」
「……ここい、なんか怒ってる?」
「怒ってるよ! 鶴見さんめんどくさい! いつもの鶴見さんに戻ってよ! ほら! 紅茶飲め! ぐーっと!」
「あ、あのさあ、ここいだって悪かったって、自分で言ってるくせに、よくもそんな」
「そうだよ? だから謝ったでしょ? 大体あの曲だって、すっごい変な曲だもん。わたし、未だにあれ何拍子かわかんないもん!」
「変な曲って言った! こいつ今すっごい変な曲って言った!!」
「わたしが言うのは良いんですー! おバカですねぇ深杜ちゃんは」
「じゃあなんで私は泣くまで怒られたんだよ! ダブスタここい!」
「うっさい泣き虫! わたしもう知らない! 好きなだけ泣いてろ!」
「はん、そっちこそどーせいつもトンカツ揚げながらギャンギャン泣いてるんでしょ!?」
「わ、た、し、は、ホールスタッフだああぁ!!!」
わたしは大声で叫んだ。
鼻先がくっつきそうな距離で鶴見さんと目が合った。
鶴見さんは笑っていた。
だからわたしも、笑いが止まらなくなった。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
「それで、どうだった? 演奏」
鶴見さんは空になったペットボトルを捨てて、わたしの所に戻ってくるなり、そう訊いた。
「この間の視聴覚室のライブ?」
「うん。観に来てくれてた」
鶴見さんはわたしのすぐ隣に座って、綺麗な脚をぶらぶらさせている。
「鶴見さん、ほんとに人気あるんだね。わたし……」
「深杜」
「ん?」
「さっき呼んでくれたじゃん。深杜でいいよ」
確かに。
少し気恥ずかしかったけれど、あれだけぎゃあぎゃあ罵り合って、今更『鶴見さん』も無いかもしれない。
「……じゃあ、深杜」
「うん、どうだった?」
「かっこよかったよ! すごかった。あんなに沢山の人が、みんな深杜を見て、熱狂してた。わたしだって正直、深杜しか見てなかった。歌、なんであんなに上手いの?」
わたしは思ったままに即答した。
気のせいか、深杜の顔が少し曇ったような気がした。
「別に、高校生にしては、ってだけでしょ。中学からやってたからさ、それだけだよ」
「そんなことないよ! 歌ってる深杜、凄く雰囲気があった。声も綺麗だし。わたし、思ったもん。ああ、こういう人がスターになるのかなって」
わたしは熱弁した。
話しながら、何故か全く深杜に言葉が届いていないような感覚を覚えて、少しムキになっていた。
「ギターも上手いね! リードギター弾きながら歌うの、わたしには出来ないからさ、尊敬する」
「……じゃあさ、ここい」
彼女はわたしの言葉を遮って、今まで見たことのないような、冷めたような目をした。
「あの曲、お金出して聴きたい?」
急に突き付けられた鋭い言葉に、わたしは平静を装うことができなかった。
友人を傷つけない為の、優しい嘘すら出てこない。
その嘘だけは、わたしにはつけない、ついてはいけない種類のものだった。
「あ……うん……」
言葉にならない声を発するのが精一杯だった。
そう、だって、だからこそわたしには深杜の姿しか印象に残らなかったのだから。
深杜がわたしの心を覗き込んでいる気がした。
わたしは空っぽになった頭に、ありとあらゆる語彙を巡らせて、次に発する言葉を探した。
ふと、深杜が諦めたように微笑った。
「ごめん、意地悪だね、私」
なんて答えたらいいのか、わからなかった。
「今度は私の話、聞いてくれる?」
思いつめたような彼女の声に、わたしは黙って頷いた。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
「私ってさ、昔から要領良くて。なんでもやれば人並み以上にできちゃうんだよ。そうすると周りも私に期待してくれて、私はそれに応えて。そんな感じで、まあチヤホヤされてきたわけだよ」
「なに? 話って自慢話?」
わたしはわざと空気を壊そうとして、茶化して深杜を肘でつついた。
それはきっとユヅキさんならそうすると思って、思わず出た行動だった。
「うっさいな、黙って聞いててよ」
深杜が少し笑ったので、幾分わたしはほっとした。
「だから、私は……嫌味に取らないでよ? 私は、ずっと本気を出せなかった。本気出すと、周りから浮いちゃうんだよ。子供の頃の遊びもそう、中学の頃始めたバンドもそう。みんな凄く仲良くて、楽しくて、目指せ武道館! なんて頑張ってたのに」
深杜は体育座りした膝に顔を半分埋めるようにして呟いた。
「本気でやればやるほど、他の子との温度差に気付いた。『鶴見さんは才能あるから』とか『鶴見さんはもっとちゃんとしたバンドやれば?』とか言われて。しまいには『これから私たち受験でしょ?』だって」
「そっか」
わたしはただ頷いた。
「ふざけんなって思ったよ。本気でやってたの、私だけじゃんって。……でもさ、ほんとにやりたいんなら、そんなの、気にしないで本気でやればよかったんだ。一人になったとしても。けど、弱い私にはそれは出来なかった。みんなと違う方向に進むのが怖かったんだ。だから、高校で入った軽音部でも、他の子に合わせてやってきた。そんなときに、ここいに会った」
「は? わたし!?」
話が思わぬ方向から飛んできたので、変な声が出た。
「すっごい変な奴だと思った」
「おい」
「一人でずーっと音楽聴いてさ、なんかメモしてるし、ニヤニヤしてるし」
「おいって」
「学校もすぐサボるしさ」
「それはなんかごめん」
「音楽やってるのは、すぐ分かったよ。本気なんだってことも。この子、こんなちんちくりんなのに、誰にもおもねらないで、自分の好きな事やってるんだって」
「……」
「そう思ったら、他人に歩調を合わせるのに必死な自分が恥ずかしくなった。だから、私も本気でやってみようって思ったんだ。自分のやりたい事ってやつをさ」
深杜はさらに顔を伏せて、小さくなった。
「でもね、何もなかった。私の中には何もない。こんな、周りからはみ出さないようにしてる人間の音楽なんて、聴く価値ある? 音楽を聴く人は、そのはみ出した所を聴きたいんだよ。普通じゃない人を観たいんだよ」
深杜はゆっくりと顔を上げてわたしを見た。
眠たいような、疲れたような目。
わたしは急に怖くなった。
「ここいは、かっこいいよ。私なんかより、全然」
「そんなことないよ、そんなこと、言わないでよ」
「……私、どうすればいいんだろうね」
深杜はぼんやりとそう呟いた。
わたしは言葉をかけることができなかった。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
その日の帰り道、わたしはずっと深杜のことを考えていた。
ステージ上のきらきらした彼女と、わたしの横で小さくなってうずくまっていた彼女のことを。
ふいに、スマホが振動した。
わたしにかかってくる電話なんて、ほとんどが変なセールスか間違い電話だけだった。けれど今回は発信者に「ネルちゃん」と表示されていた。
「ネルちゃん? どうしたの?」
『あ! よかった、出てくれたー!』
電話の向こうからネルちゃんのほっとした声が聞こえた。
『ここい先輩、メッセージ返してくれないから。もしかしてスマホどっかに忘れてました?』
「……あ、そっか、ごめん。通知、切ってたから気がつかなかった」
あの時だ。
先週の金曜、姉にメッセージを返信した後、わたしはスマホの着信通知を切った。姉から送られてくるかもしれないメッセージを目に入れたくなかったからだ。
ネルちゃんの電話の用件は、ただの次回のスタジオの時間の確認だったけれど、どちらかというと安否確認だったのかもしれない。わたしはネルちゃんに謝って、電話を切った。
そのときある考えが頭に浮かんで、わたしは慌ててメッセージアプリを立ち上げた。
いくつかのアイコンに未読のマークがついている。そのうちの一つは『mimori』という猫のアイコンだった。
入学してすぐの頃勢いで交換させられて、それっきりすっかり忘れていた、深杜のアカウント。
わたしはそれを恐る恐るタップした。
『ここい、カゼ大丈夫?』
『おーい、無事?』
わたしは目を見開いて息を呑んだ。
――だから、彼女は。
バイト先にひょっこりと現れた深杜の姿を思い出した。
『とんかつ食べに来たんだよ』
『間違えて駅ビルの方のとんかつ屋さん行っちゃったよ』
わたしは道の真ん中に立ち止まって、涙をぼろぼろ流した。
そしてとうとう堪えきれなくなって、うずくまって声を上げて泣いた。
心の中で、何度も不器用で優しい友達の名前を呼んで、何度も何度も謝罪した。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
それからわたしは真っ直ぐに帰って、部屋に閉じこもった。
怖かった。
なんだか取り返しのつかない事が起こりそうな、禍々しい予感が振り払えなかった。
だから、急かされるように机に向かい続けた。
そのまま朝までずっと、ろくに食事も取らなかった。それから学校に休みの連絡を入れて、少し眠った。
その日は昼からユヅキさんが『牡丹』にいるはずだった。シャワーを浴びて、家を出て、電車に乗る。
その間も深杜のことが頭から離れなかった。
「ユヅキさん、歌詞、見てもらえますか?」
休憩中のユヅキさんは、何も訊かずにわたしの差し出したルーズリーフを受け取って、目を通してくれた。
ユヅキさんのアドバイスは、文法や漢字の使い方の間違いに終始した。
その指摘にしても「ここは普通こういう表現を使うけど、これは意図してそうしてるの?」といった具合に、わたしの言葉を最大限尊重した上で、漢字の送り仮名ひとつまで慎重に確認してくれた。
わたしが帰りの支度をしていると、背中を思い切り叩かれた。
ユヅキさんは優しく笑っていた。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
わたしはまた真っすぐ家に帰った。
そして出来たばかりの歌詞を見ながら、はじめて歌の録音をした。
自分で作った曲を歌うのは、思っていたよりずっと難しいことだった。
なにしろお手本が無いのだ。
メロディへの歌詞の当てはめ方に始まり声色や発声の仕方、息を吸う場所、音の強弱や長短まで、楽譜に表せない所を、全て自分で決めなければならない。
ヘッドホンで確認した自分の歌声は、ひどいものだった。けれど、そんな事を気にしている場合じゃなかった。何度も何度も歌い直した。
わたしの部屋は角部屋だったけれど、ご近所の迷惑になっているのは間違いなかった。
幸い皆出払っていたのか、我慢してくれていたのか。ともかく壁を叩かれたり、床を踏み鳴らされたりするようなことはなかった。
すっかり暗くなるころ、音量のバランスやエフェクトの調整が終わって、ようやく曲が完成した。
わたしにとって初めての、自分の歌入りの曲の完成だった。けれど、感慨も達成感も何もなかった。
わたしはすぐにスマホを手にして、メッセージを送った。
『深杜、これから横浜、来れる?』
深杜は読んでくれるだろうか。そわそわする暇もなく、返信があった。
『ここい!? どうしたの!?』
同時に変な動物が驚いているスタンプ。
わたしは少しだけ安心して返す。
『話、したい。8時に五番街の交番前でどう?』
『りょーかい』
あっさりと返信が来た。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
夜の横浜駅前には、サラリーマンから学生までありとあらゆる種類の人が行き交っていた。交番に近いここには同じような待ち合わせの人たちが大勢いて、物騒な感じはしない。
駅ビルの出口を出るとすぐに、交番の前で立哨している警官と、その真横に立っている深杜の姿が見えた。
「なにも、交番の真ん前にいなくてもいいでしょ」
わたしが笑うと、
「あー、ナンパがうざくて逃げてきた」
深杜はそう言って苦笑いをした。
「……ごめん。世の中にはそういう苦労があるんだって、知らなかったよ」
「ありがとうございました!」
深杜がぴしっと背を伸ばして敬礼をすると、身体の大きなその警官は、照れくさそうに笑って敬礼を返した。
「ちょっと歩こうか」
さすがにここでは話なんてできそうになかったので、わたし達は川の方へ向かって歩き出した。
帷子川という名前のその川は、市のずっと西の方から流れてきて、横浜駅のまん前を通って海につづいている。
昔アザラシが出没したとか、ボラが大量発生したとか、台風の度に氾濫してお店が泥まみれになったとか、『牡丹』の大将をはじめ年配の人たちは、愛憎入り混じったようにその川のことを語るのだった。
お世辞にも綺麗とは言えない川だけど、夜にその川沿いをゆっくり歩くのは気持ちが良かった。少し歩くと、さっきまでの喧騒が嘘のように静かになる。
ちょうどいいベンチがあったので、わたし達はそこに腰掛けた。
「びっくりした。まさかここいから誘ってくれると思わなかった」
深杜は明るい口調でそう言った。
――先日のことが嘘だったみたいに。
いや、きっとそれは、まさに優しい彼女の嘘なのだろう。
「カゼ、治ってないの? 顔色ひどいよ」
深杜はわたしの顔をまじまじと見つめた。
夜の街の明かりが、彼女の顔の陰影をくっきりと浮かび上がらせている。大きな瞳が黒水晶のようにつやつやと輝いていた。
「あー、昨日徹夜して、バイト先に行って、帰って、また来た」
「なにそれ!? 病み上がりで無理しすぎじゃない?」
「これ、録ってた」
わたしはイヤホンを差し出した。
「……ここいの曲?」
深杜は意図を探るように、ちょっと上目遣いにわたしの目を覗き込んだ。
「うん。初めて歌詞書いて、初めて歌った。急いで録ったから、荒いけど」
わたしは淡々と事実だけを説明した。
「全然納得いってないし、まだ人様に聴かせられるようなものじゃないけど、でも、聴いて。深杜に、聴いてほしい」
深杜は、恐る恐る、という感じで頷いた。
彼女が耳にイヤホンを着けたのを確認して、わたしはスマホの画面の三角マークをタッチした。
深杜がぼんやりと川面を眺めて、音に集中している。
その間のわたしの気分と言ったら、筆舌に尽くしがたいというのはまさにこのことだった。
不安、激励、羞恥、懇願、恐怖、諦観、歓喜。
色んな感情が心の中で渦を巻いている。
わたしはそれに翻弄されながら、夜の灯りが照らし出す、深杜の端正な横顔を見つめていた。
不意に彼女がうずくまった。膝に両手を置いて、そこに額を当てて。
細い身体が震えているのがわかった。
わたしはそっとその背中に手を添えた。
自分から誰かに触れたのなんて、いつ以来だろう。
曲が終わる頃には、彼女は声を上げて嗚咽していた。背中をさすってあげると、わたしの膝の上に突っ伏して泣きはじめた。
わたしの涙腺もとっくに限界だった。横隔膜がけいれんして、何度もしゃくり上げながら、わたしはただ深杜の背中を撫でた。
「深杜はさ」
震える声をなんとか制御しながら、途切れ途切れに、苦心してわたしは言葉を発した。
「ずっとわたしの、憧れだったんだよ。いつも、自由で、明るくて、華があって」
わたしの目から涙がぽたぽた落ちて、深杜の髪を濡らした。
「わたし、かっこよくなんてないんだよ。ただ、人がこわくて、一人でいるだけ。だから、深杜がいつも、わたしに構ってくれるの、どれだけ嬉しかったか。どれだけ、救われたか」
恥も外聞もなく、わたしの口は勝手に心の中身を全部開示してしまう。止めようとしても、言う事を聞いてくれなかった。
「わたしの、最後のプライド、支えてくれた。深杜のおかげで、わたし、学校で、背筋を伸ばしていられるんだよ。だからさ……寂しいこと言わないでよ。自分にはなんにもないとか、そんなわけないよ」
聞こえているのかな。伝わっているのかな。
「深杜が自分で自分をどう思ってても。あなたはわたしの憧れの人。あなたの事悪く言う奴、絶対に許さないから。例え、それが深杜自身でも」
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
「……はあーーーー……」
長い長い沈黙の後で、長い長いため息をつきながら、深杜はゆっくりと身体を起こした。鼻をすすりながら、涙をぬぐっている。
小さな子供のような仕草だったから、わたしは思わず彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「もう、馬鹿。馬鹿ここい。いつもいつも、泣かさないでよ」
深杜は鼻を赤くして、目を閉じたままでそう言った。
「泣きむし深杜」
「やば、超恥ずかしいんだけど。顔見ないでよ」
「今更、恥ずかしいも何もなくない? わたしもう諦めた」
「……ここい、あの曲って?」
「わたしさ、ずっと歌詞が書けなかったんだよ。でも理由がわかった。ずっと自分のためだけに音楽をやってたんだから、当たり前じゃんって。わたしには何も伝えたいことがなかったし、伝えたい相手もいなかったからだったんだ」
「ちょっと、もう泣かせるのやめてよ」
「けど、どうしても、深杜に伝えたかったんだよ。だって、深杜、ちっちゃくなって、今にも消えちゃいそうだったから」
「やだな、別に消えたりしないよ。なめくじじゃあるまいし」
「曲、どうだった? ひどいでしょ?」
「ひどいよ。マイクに息が入っちゃってるし、歌詞はクサいし。あんた、よくこんな恥ずかしいこと、できるよね」
「ギター1本で編曲もくそもない。技術もオリジナリティも芸もないし、超恥ずかしい、高校生の平凡な曲だよ」
「……うん」
「でも、本気で歌ったよ。わたし、命懸けたもん」
川の方から、何かがばちゃんと跳ねる音がした。
深杜はゆっくりとわたしに顔を向けて、ぽつりと訊いた。
「私にも、できると思う?」
「当たり前でしょ。深杜が本気を出したら、こんなもんじゃないよ」
わたしは即答した。
「……やっぱり変なやつ。理屈っぽいのに、すぐ感情的になるし、弱っちいのに喧嘩っ早いし。冷めてるくせに、熱血みたいなこと言い出すしさ」
「深杜だって、ヘラヘラしてるのに泣き虫だし、楽天的なのに悲観的じゃん」
「ねえ、ここい」
「ん?」
その時の彼女の顔を。目が真っ赤で、頬には涙の跡がついて、いつもツヤツヤの髪がボサボサになっている、ひどい顔を。
そしてその口から聴いた言葉の響きを、わたしはきっと一生忘れないんだと思う。
「……私、こんな音楽がしたい。ここいとバンドしたい」