『鶴見さん』
わたしは(いつもの仮病ではなく本当に)カゼをひいた。
お風呂上がりに薄着のままDTMの打ち込みを始めて、ついのめり込んで身体を冷やしてしまったのだ。それからどうも調子が悪い。
寝不足でもあったので、わたしはその日、二時間目が終わったタイミングでギブアップして保健室に向かった。
「熱は7度ちょっとか。少し休んで様子みてみようか。なにかあったらすぐに知らせてね」
保健の先生はベッドを囲うカーテンを引きながら、眠気を誘うような優しい声でそう言った。
「はい、すいません」
「根岸さん、ご飯、ちゃんと食べてる?」
「大丈夫です。ちょっと寝不足かも」
「あんまり無理しちゃだめだよ」
毒にも薬にもならない会話をするなあ。あ、保険の先生だから処方箋は出せないのか。
わたしは意地悪な感想を持った。
その後はぐっすり眠って、起きるととっくに下校時間だった。まだ気だるい感じはあったけれど、身体はずいぶん楽になった。
気をつけて帰ってね、とまた偽薬のような言葉をかけられて、わたしはそこを後にした。
ふとスマホを取り出して見ると、ショートメールが一件届いていた。
送り主は『根岸心音』。
——わたしの姉だった。途端に心がざわざわした。
『大丈夫?』
文面はそれだけだった。
容易に状況が推察できる。
担任から連絡を受けた父親が、彼女に様子を確認させたのだろう、あくまで、形だけ。いかにもあの人らしいやり方だ。
『大丈夫』
それでも返信をしたのは、そうしないと却って面倒なことになるからに他ならなかった。
わたしはそれに対する反応を目にしたくなかったので、スマホの通知を切った。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
全身の感覚が曖昧なまま、ぼーっとして廊下を歩いていると、遠くから音楽が聞こえた。
エレキギターにベース、ドラム。
軽音部がいつものように練習しているのだろう。お世辞にも上手いとは言えない演奏の中で、ギターのカッティングだけが妙にキレがあり、飛び抜けて上手い。
そういえば、鶴見さんも軽音部だったはずだ。ギターケースを背負った彼女の姿をわたしは何度も見たことがある。
だとしたらこのギターは鶴見さんが弾いているのだろうか?
わたしの足はふらふらとそちらへ向かった。
階段を登ると踊り場に譜面台が置いてあり、『軽音部ライブat視聴覚室! 16:00から』と、カラフルな手書きの文字の書かれたコピー用紙が貼り付けてあった。
「ありがとー! それじゃあ次は、リクエストの多かった曲やります! ×××!」
安物のマイクで拾った若干こもった声は、間違いなく鶴見さんの声だった。それに合わせて教室から、大きな歓声と拍手が起こった。
演奏が始まった。
素直なコード進行に、王道のメロディライン。不安定なリズム隊をギターのカッティングが引っ張っている。
それなのにボーカルとコーラスだけはテクニカルにハモっていて、ずいぶんとアンバランスな印象を受けた。
わたしはどうしてもその様子が見たくなって、すこし躊躇した後で、そっとドアを開けた。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
遮光カーテンを降ろした暗い部屋は、満員の生徒たちで凄い熱気だった。
天井のライトにはさまざまな色のセロハンが被せてあり、少しでもライブらしく見せたいという涙ぐましい努力のあとが見えた。
部屋の一番後ろの入り口から覗き込むと、簡素なステージに立っている鶴見さんの姿が、皆の頭越しに見えた。
制服に、いつものだぼだぼのカーディガン。
その上にフェンダーのストラップを掛け、ゴールドのストラトキャスターを提げて、リズムに合わせて身体を揺らしながら歌っている。
わたしの目は鶴見さんに釘付けになって、頑丈な樫の板に打ち付けられたように離すことができなくなった。
やっぱり鶴見さんは、こういう星の下に生まれついた人なんだ、と思った。
一挙手一投足、表情の変化ひとつひとつが人を惹きつける。
鶴見さんのいる場所だけが、まるで発光しているように明るく輝いていた。
いっちょまえにバンドなんかしてギターを弾いている自分が、そして、彼女に僅かでも親近感を感じていた自分が、まるっきり勘違いの場違いに感じられて、無性に恥ずかしくなった。
わたしはどうしたってああはなれない。まざまざとそれを実感させられて、頭がぐらぐらした。
曲が終わると、わあっと歓声が起こり、生徒たちで埋め尽くされた部屋は地響きのような音を立てて揺れた。
皆が口々に鶴見さんの名前を呼んで、飛び跳ね、手を振り差し伸べる。
鶴見さんはその声に応えながら、満面の笑みで大きく両手を振っている。
やがて彼女は何気なくこちらを見て、わたしと目が合うと、ちょっと驚いたような顔をした。
わたしは目を伏せて、そこから逃れるように廊下へ出た。
「1年生バンドでした! ありがとうございました! 次は2年生バンドでーす!」
わたしは遠くなっていく鶴見さんの声を背中で聞きながら階段を降りていった。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
次の日は土曜で休みだった。熱はすっかり下がっていたので、わたしは昼シフトのバイトに向かった。
バイトを休むと、楽器も機材も買えないし、スタジオ代も出せなくなる。学校よりよほど死活問題なのだ。
お客さんが多くて忙しい日だった。おかげで頭の中のモヤモヤしたものと向き合わずに済んで、正直有り難かった。
ピークの時間が過ぎて、空いたテーブルをダスターで拭いていると、またがらがらと入り口の引き戸が開いた。
わたしはそちらを向いて、ほとんど条件反射で「いらっしゃいませー!」と声を出して、そのまま硬直した。
――鶴見さんが一人で、真顔で突っ立っていたから。
「え!? 鶴見さん!? うそ!? どうしたの!?」
びっくりした。
確かに以前、横浜駅の近くのとんかつ屋でバイトしている、と話したことはあったけど、店名も、詳しい場所も知らないはずなのに。
「とんかつ食べに来たんだよ」
鶴見さんは、何を考えているのかまるで読み取れない表情のままでそう答えた。
「あ、え!? ほんとに!? じゃあえっと、こ、こちらのお席どうぞ」
混乱したまま空いている席に案内すると、彼女は大人しくそこに座った。
「えっと、今日は買い物か何か?」
「いや、だからとんかつ食べに来たんだってば」
「え、ええー? たまたま、ってこと?」
わたしの言葉に、鶴見さんはため息をついた。
「そんなわけないでしょ。さっき、間違えて駅ビルの方のとんかつ屋さん行っちゃったよ」
……わざわざ、わたしのいる店に来てくれたってこと?
戸惑っているわたしを見て、鶴見さんはちょっと笑った。
「エプロンかわいい。頭に巻いてるやつも」
「そ、そう? 着てみる?」
「私もしたいんだよね、バイト。まあいいや、店員さん、ロースかつ定食くださいな。脂身マシマシで!」
「は、はい! ロース定一丁〜!」
注文を通すわたしを見てニヤニヤする鶴見さん。
うう、やりにくい。
結局その後鶴見さんはとんかつをきれいに平らげて、「ごちそうさま」と言って帰っていった。
「ここい、今のって友達でしょ?」
ユヅキさんに訊かれて、
「い、いえ! そんな、友達だなんて、いでででで!!」
滅相もない、と続ける前にユヅキさんにほっぺをつねられた。
「あんたねえ、わざわざ訪ねて来てくれた人に、そんなこと言うんじゃないよ」
ユヅキさんはわたしを睨んで、低い声で言った。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
授業は終わったのだから、いつものようにすぐに帰ればよかったのだ。
月曜の放課後、わたしは机に突っ伏して、いつものようにインディゴフィッシュの曲を聴いていた。この曲だけ聴き終わったら帰ろう、なんて思って。
すると突然わたしの左耳からイヤホンが引っこ抜かれた。
驚くのと同時に、その行為の粗雑さに暴力的なものを感じて、身をすくめながら、恐る恐る襲撃者の方を見た。
お行儀よく閉じられた女の子のすべすべした白い脚があった。
視線を上に上げると、左耳に手を当てている鶴見さんの顔があった。
彼女は隣の机の上に座って、どこを見るでもなくぼーっとした表情で、左耳の音に意識を集中しているようだった。
下からのアングルで仰ぎ見る鶴見さんは、だぼだぼのカーディガンも、顎のラインも、鼻の穴の形でさえ、なんだか悔しいほど絵になっていて、わたしは見惚れて抗議するタイミングを逃してしまった。
彼女は無言でインディゴフィッシュの曲を聴いている。わたしの中に恐怖心が湧いてきて、どんどん大きくなった。
中学生の頃の思い出がフラッシュバックして、身体が冬の朝のようにぞくぞく震え、強張るのを感じた。
◆◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆ ◆
――中学1年の、ちょうど今ぐらいの時期。
もうすでにクラスから浮き始めていたわたしは、今日と同じように、姉のお下がりの古いミュージックプレイヤーで、知ったばかりのインディゴフィッシュを夢中で聴いていた。
今日と同じようにイヤホンをひったくったのは、当時のわたしの数少ない友だちの一人だった。
「かっこいいでしょ?これ……」
無邪気なわたしの言葉を遮って、彼女は笑った。
「なにこれ、変な曲!」
彼女に悪意がないのは分かりきっていた。
その曲はカラオケで歌われるような曲ではなかったし、アレンジも今風ではない。楽器の編成もだいぶ変わっていて、彼女の言う通りそれは「変な曲」ではあったのだ。
「ここいちゃんも、こんなのじゃなくて×××聴きなよ! 今度CD貸すからさ、みんなと一緒にカラオケ行こう?」
彼女に悪意がないのは分かりきっていた。
彼女なりに、クラスに馴染めなかったわたしに手を差し伸べてくれていたことも。
そんな事は重々承知の上で、けれども。
わたしはそれっきり、心を閉ざしてしまったのだ。
◆◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆ ◆
わたしは指が震えるのを抑えながら、鶴見さんの様子を、判決を待つ罪人のような気持ちで見つめていた。
恐ろしくて逃げ出してしまいたかった。
曲が終わると鶴見さんはイヤホンを外して、わたしに差し出した。その顔は無表情で、やっぱり感情を読み取る事ができなかった。
わたしがイヤホンを受け取ると、彼女はそのままの表情で一つまばたきをして、口を開いた。
「変な曲」
彼女に悪気がないのは分かりきっていた。
けれどわたしはやっぱりどこかで期待していたのだと思う。何の根拠もなく、鶴見さんなら分かってくれる……とは言わずとも、わたしの好きな物を尊重してくれるんじゃないかって。
何にも縛られない、自由な彼女なら。
感情も、身体も、血液も、全てが冷えていくのを感じた。
同じだ。どいつも、こいつも。結局私を裏切る。挙げ句の果てに、勝手に踏み込んで来て、否定して。何様だよ。誰が頼んだんだよ。放っておいてよ。だから私は人間が嫌いだ。鶴見さんも、同じだった。また裏切られた。
私の中に明確な線が引かれた。
今まで鶴見さんに感じていたほんの僅かな好感や憧れ、親愛といった暖かいものが全て冷え切って、彼女もやっぱり私とは関係のない人間になった。
「……鶴見さんにはわかんないよ」
私は彼女と距離を置くべく、明確な敵意を込めて口を開いた。
すると小さな火花が産まれて、私の心の底に落ちた。溜まっていた嫌なものが火口になって、それはめらめらと燃え始めた。
「鶴見さんみたいな人にわかるわけない」
もう一人の冷淡な私が、馬鹿な私を蔑んだ目で見ている。
鶴見さんは机から降りて、何か言いたげに私に少し手を伸ばそうとした。
「なんなの!? いつも、いつも! そうやって私をからかって、何が楽しいの!?」
私は語気でその動きを制した。
心の中の火は燃え広がって、炎になった。
私が言葉を発するために息を吸うたび、ふいごのように空気が送られて、炎は私の心を埋め尽くすくらいに広がって、もう手の施しようもなくなっていた。
「鶴見さんはみんなの鶴見さんだもんね。私みたいな人間にも優しいってアピールしてんの? 気持ち悪い、魂胆見え見えなんだけど!!」
嫌な思い出と、私の抱えていた小さな不安と猜疑心。そして、劣等感。
最低な私は、ついでとばかりにそれらを鶴見さんにぶつけた。
やっぱり、こうなった。
お前はそうやって、いつも差し伸べてくれた手を払いのける。
あの時から何も成長していないじゃないか。
教室に残っていた生徒の何人かが、こちらをちらちらと覗っているのに気付いた。
普段いるのかいないのかわからない地味な子が、あの鶴見さんに噛みついているのだ。確かにおかしな光景だろう。
みっともないなぁ。
ともあれ、これで鶴見さんとの緩い関係も終わりだろう。私にちょっかいをかけてくる人はもういなくなった。
いや、よりにもよってこの鶴見さんと敵対してしまったのだ。皆に嫌われてしまうかもしれない。
でも、これでいい。鶴見さんとの関係は嫌いじゃなかったけど、幻想だったんだ。これでよかったんだ。
だって私は独りが好きなんだから。
黙って私を見つめていた鶴見さんの口が僅かに動いた。
「……ったから……」
小さな声で、ただでさえ頭に血が昇っている私には聞き取れなかった。
「何?」
私は苛立ってつっけんどんに訊き返した。
突然鶴見さんの両目から、つっと涙が流れて、頬を伝って顎から落ちた。
「……ごめん、ここい、ごめん……」
彼女の声は震えていた。涙が後から後から溢れてきて、雨樋を伝う雨のようにぼろぼろと落ちている。
「ほんとに、ごめん、ね……」
子供みたいに両手で涙を拭いながら、彼女は横隔膜を震わせて、嗚咽するように途切れ途切れに言った。喧嘩上等、ぐらいの気持ちでいた私は、その姿にがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。
――どうして?
そんなに私の言葉は彼女を傷つけてしまったのだろうか。
私なんかの言葉で、鶴見さんが?
それにしたって、まさか、こんな。
血の気が引いた。覚悟も信念も曖昧な怒りは吹っ飛んで、私の心はただひたすら罪悪感でいっぱいになった。
「つ、鶴見、さん……」
わたしの両手は、彼女に触れることもできずに、ふらふらと中空をさまよった。
「あの、ごめん……わたし、言い過ぎた」
やっと出たわたしの言葉に、鶴見さんは大きく首を横に振った。
「私、最低なこと、言っちゃった……ここいの、好きなものに……」
――違うよ、わたしだよ。最低なのは、わたし。
視界がぼやけて、鼻の奥が熱くなって。私は立ち上がって、鶴見さんの顔を覗き込んだ。
彼女は涙を流して、嗚咽しながら、それでも私の目を見てくれた。
大きな黒い瞳が夜の海みたいに揺れて、ぬらぬらと輝いている。
「……わかってる。鶴見さんは悪くない。わたしがヒスっちゃっただけ。ほんとにごめん」
わたしが言うと、彼女は声を上げて泣きながら、両手をぎゅっと握ってきた。
その手は涙でぐしょぐしょに濡れていて、その事実にわたしの涙腺は限界を迎えて、とうとう両目から涙が溢れてしまった。
やっぱりわたしは最低な女だ。
だって。
彼女が、わたしなんかのために涙を流してくれることが、真剣に向き合ってくれたことが、こんなにも嬉しいんだから。