崩壊
ハンドルのついた防音ドアを開けると、わたしが長年ずっと想像していた通りのスタジオの光景があった。
壁際にはアンプが何台かとキーボード、マイクスタンドが並んでいる。一番奥にはドラムセット。その逆側にはミキサーなんかの機材の乗った棚。
ドアを閉めてしまうと室内は無音になって、わたしは自分が妙にドキドキしていることに気付いた。
「根岸さん、アンプの使い方はわかりますか? よかったら説明しましょうか」
石川さんがわたしを気遣って声をかけてくれた。
「大丈夫、なはずですけど……あの、一応教えてもらっていいですか?」
家で使うようなミニアンプと、こういう大型の真空管アンプでは少し扱い方が違うのは、知識としては知っていた。
——下手に扱うとぶっ壊れるということも。
けれど、不安に思いながらも、知らないことが沢山あるにもかかわらず、店員さんには何も訊けなかったのだ。
なんなら「へ〜、ここってこんな感じなんだ」みたいな常連ヅラまでしてしまった。恥ずかしい。しにたい。全部ネルちゃんが悪いんだ。
だからこそ石川さんの申し出は有り難かった。
「わかりました。と言っても難しいことはありません。電源スイッチの他に、このスタンバイスイッチというものがあるだけで……」
石川さんの事務的な口調が、今はなんだか頼もしかった。
物凄くスムーズでわかりやすい説明が終わって、わたしはずっと気になっていた疑問をぶつけてみた。
「ありがとうございました。あの、石川さんも何か楽器を……?」
「ええ、まあ、昔」
石川さんは素っ気なく答えて、もうおしまい、というように話を打ち切ると、壁際の椅子に座って文庫本を広げた。
その時、ネルちゃんがドラムの調子を確かめるように、軽くトタトタとスネアドラムを叩き始めた。
わたしはいっぺんにそれに引き込まれて、プレーリードッグみたいに首を回して直立したまま固まった。
軽やかな音が跳ね回っている。
もはや何分音符なのか分からないくらい、細かく色んな音が聞こえる。
ほんの微かな柔らかな音に、空気を切り裂く鋭い音。軽い音、重い音。
普段バンドサウンドに埋もれてしまっているそれらの音がはっきりと聞き取れる。
わたしはネルちゃんに近づいて、その腕と足が動き回るのを凝視した。
「お、おお〜……」
思わず声が漏れた。
ドラムって、こんなに色んなことをしてたんだ。
ユヅキさんとネルちゃんの言っていたことの意味がやっとわかった。
確かにわたしの打ち込んだドラムは、クソダサどころか、ドラムになってすらいなかったのだ。打楽器に興味を持てと苦言を呈されるのも当然だった。
「あの、先輩、そんなじろじろ見ます……?」
ギターを抱えたままうずくまり、至近距離で足の動きを見ていたわたしが我に帰って顔を上げると、真っ赤になったネルちゃんの顔があった。
ネルちゃんはそわそわと制服のスカートの裾をちょっと直すそぶりをした。
ののの、覗いてないよ!
「わたし、たぶん初めてちゃんとドラムの演奏聴いたんだと思う」
「……どうです?」
「なんか、色んなとこ、色んなふうに叩いてた! 色んな音、した!」
すっかり語彙をなくして、わたしは叡智を授けられた原人のようにウホウホ興奮していた。
「そうでしょうそうでしょう!」
ネルちゃんがドヤっている。
「ドラム、すごい! ネルちゃん、すごい!」
「じゃあ、さっそく合わせてみましょうよ!」
「うん!」
わたしは興奮しながらギターアンプに駆け寄って、スタンバイスイッチを入れると、前面に並んだツマミを一つずつ慎重に回していった。
「もっとですよ、先輩」
そう言ってネルちゃんはドラムをドコドコ叩き始めた。
そうか、このドラムの音量に負けない音を出さなきゃいけないんだ。
音、でか!
家でヘッドフォンを使って弾くのとは、何もかもが違った。全身に音が当たってびりびりする。
わたしがギターの弦に触る僅かな指の動きが、何万倍にもなってスピーカーから放たれる。あまりの音量に、なんだか罪悪感さえ芽生えて、ちょっと怯んで逃げ出したくなるような迫力。
大丈夫、ご近所の苦情は来ない、と自分に言い聞かせる。
エフェクターでディストーションをかけて歪ませると、まさにみっしりと中身の詰まった音の塊に全身が包まれたような感覚があった。
き、気持ちいい!!
「それじゃあ、やってみましょうか。デモの3曲目のロックっぽい曲、どうです?」
「うん、わかった!」
ネルちゃんが大声で言い、わたしも大声で返した。
まだタイトルも歌詞もないその曲は、わたしが好きなストレートでシンプルな60〜70年代のロックをイメージした曲で、今ここで弾くのにはおあつらえむきだった。
ネルちゃんが4つカウントを入れて、わたしたちの初めての演奏が始まった。
途端に不思議な気持ちになった。
わたしの曲を知って、わたしの曲を好きだと言ってくれた人がいる。わたしの曲をあんなに楽しそうに叩いてくれている人がいる。
全身にぞわぞわ鳥肌が立って、胸がいっぱいになった。
わたしが、わたしの楽しみだけのためにしてきたことが、初めて来たスタジオで現実のものとして形になっている。
わたしは、自分が楽しめれば他はどうでもよかった。今でもその考えは変わらないけれど、それでもその事実は、わたしの心を激しく揺さぶった。
ギターのリフにネルちゃんのドラムがピッタリと揃うと、音が塊になって心臓をドン、ドン、と叩く。それがあまりにも気持ちよくて、ネルちゃんに笑いかけると、彼女もおどけたような表情で笑った。
自分で言うのも嫌だけど、わたしは気難しいタイプの人間だ。だけど今だけは、子どもみたいに裏も表もなく、ただ音の鳴るのを楽しむことができていた。
演奏としてはお粗末だったと思う。
けれど、エフェクターを上手く踏めなくてグダグダになったとか、そもそも歌もベースも入ってないとか、そんなことはもうどうでもよかった。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
時間にして三分ちょっとの短い曲が終わって、わたしは熱くなった頭で、ネルちゃんになんて声をかけようかと考えた。
なんて言ったら、わたしの気持ちがそのまま伝わるのだろう。初対面の人間に対する忖度や気遣いと思われたくなかったのだ。
そんなわたしの逡巡をよそに、ネルちゃんはドラムセットから飛び出し、だだだっと駆け寄ってきて、そのままの勢いでわたしに抱きついてきた。
「せんぱーーーい!!」
もうずっと人を遠ざけてきたわたしの、いつもの拒絶反応が表れる暇さえなかった。
その熱烈な抱擁は対人免疫のないわたしには刺激が強すぎて、心のヒューズがぷつんと焼き切れ、ブレーカーが落ちて、一切の言語も思考も吹き飛んでしまった。
「ここい先輩!」
すぐ目の前でネルちゃんがつぶらな瞳をきらきらさせてわたしを見ている。
そのあまりにもあけすけで陰のない笑顔に、わたしはちょっと見とれた。
「結婚しましょう!」
わたしは間抜けに口をあんぐりと開けた。
目の端で、石川さんが「んまあ!」と両手で口を押さえたのが見えた。
「違った、バンドやりましょう!」
そうか、とわたしは思った。結婚はともかく、わたしだってこうすればよかったんだ、きっと。出来るかどうかはともかく。
「は、はい、よろしくおねがいします……」
わたしがぼーっとして答えると、ネルちゃんはこれ以上ないくらい満面の笑みになった。
そして顔が近くてどぎまぎしているわたしの両手を取って、上下に激しく揺さぶりながら言った。
「凄かったですね! なんていうか、最初からこんなにバシッと来たの初めてですよ! 相性いいですよ、あたしたち!」
もはや何も考えられなかった。わたしの身体は操り人形のようにカクカク揺れた。
「……う、うん」
「……あれ、どうしました? そんなでもない?」
「ごめん、色々ありすぎてぼーっとしてる。何から言えばいいのか」
「それ、良い意味でですよね?」
「もちろん! ネルちゃんがわたしの曲、覚えてくれてることが嬉しかった。ネルちゃんのドラムが、わたしの打ち込んだクソダサドラムなんかより、ずっとかっこよかった。音が揃うのが気持ちよかった。この曲ってこういう曲だったんだって思った。わたしの曲が音楽として鳴っていたのが不思議だった。それからね……」
まくし立てるわたしをネルちゃんは優しく見守ってくれていた。
「……言いたいこといっぱいあってキリがないや。1時間位もらえる?」
「予約時間終わっちゃいますよ! 話はこれからいくらでも出来ますから、ね?」
もはやどっちが年上なんだかわからなかった。
その時、スタジオの防音扉が音を立ててばたん、と閉まった。石川さんの姿がない。部屋を出ていったのだ。
「あれ? 石川さん? ……ああ、退屈だったかな」
彼女はただネルちゃんの付き添いで来てくれたのだ。ほったらかしで盛り上がってしまって、なんだか悪いことをしたような気分になった。
「時間には戻ってきますよ。それより他の曲もやりましょうよ!」
「うん、じゃあ1曲目のやつ、やりたい。あの曲、イントロが5拍子でしょ? ドラムのフレーズ、一緒に考えて欲しい」
「あのイントロ好きですよ! わかりました、じゃあいろんなパターンで叩いてみましょうか。ベースが鳴ってた方がわかりやすいんですけどね」
音楽の話を、こんなふうに他の人と相談することがあるなんて。
ユヅキさんにすら、感想を求めることはあっても、相談なんてしようと思わなかったのに。
全部、ネルちゃんのお陰だった。わたしが心に築いていたバリケードの残骸の上で、笑って手を振っているような彼女の。
その時、スタジオの扉がまた勢いよく開いた。
石川さんがドアに手をかけたまま仁王立ちしている。なんだか息が切れているように見えた。顔もちょっと紅潮しているような。
「根岸さん!!」
石川さんが今日イチの声量で言った。眉間に皺が寄って、眉毛が吊り上がり、銀縁眼鏡の奥の目はぎらぎらと輝いている。
「はっはいごめんなさい!!」
なんだか知らないけど怒られる! と反射的に謝るわたし。
「私も! 私も弾かせて下さい!!」
「……………………はい?」
見れば彼女は肩にギターケースを掛けて、手には細々とした道具の入ったカゴを提げている。
いや、ギターにしてはちょっと大きい。あれはベースだ。
「すず姉! すず姉、弾くの!?」
ネルちゃんが笑顔を輝かせて石川さんに駆け寄っていく。
「あんな良いゆ……ちがう、演奏を見てたら、久しぶりに弾きたくなっちゃった。根岸さん次第だけど……」
ん? 今何か言いかけた? ともかく、石川さんはフロントでレンタル用の楽器を借りてきたのだ。
「も、もちろんいいですよ! でも、曲はどうしましょう?」
「さっきの曲なら行けると思います。コード進行だけメモでも頂ければ」
わたしはドタバタとタブレットのメモ帳アプリを立ち上げて、ペンででっかくコード進行を書いた。あまりにもよれよれの字で、横で覗いていたネルちゃんがくすくす笑っている。
「こ、こんなのでいいですかね……?」
うやうやしくタブレットを差し出すと、石川さんはベースをセッティングする手を止めて受け取り、目を走らせて、
「ありがとうございます。なるほど、間奏はそういう感じでしたか」
真剣な表情で銀縁眼鏡をキラリと光らせた。
……いや、実際にはもちろん光らないんだけど。でも、まさにそんな雰囲気だった。
「原曲を聴いていないので、雰囲気でやらせて頂きます。気に障るところがあったら申し訳ありません」
「いえいえ、そんな! 簡単な曲なんで、好きにやって貰えれば」
元々意図してシンプルに作った、ジャムセッションみたいな雰囲気を目指した曲なのだ。
ベースアンプからボーンと低い音が鳴った。ギターよりさらにお腹に響く。
石川さんはコード進行をなぞって確認しているようだった。
「すず姉、ちょっと前までベースやってたんですよ」
ネルちゃんがわたしにこっそりと教えてくれた。
「動画上げたりして、結構人気あったんですけど、突然やめちゃって。何かあったんじゃないかって、うちの姉も心配してたんです。まさか、すず姉があんな事言ってくれるなんて」
ネルちゃんは石川さんの様子を嬉しそうに眺めている。
そうか、ギターかベースの経験者なのは分かっていたけど、バンドマンって感じじゃないから、納得だった。
なにか嫌なことでもあって、やめちゃったのかな。その石川さんが『弾きたい』って言ってくれたんだ。なんだか嬉しかった。
「お待たせしました。やりましょう」
しばらくして石川さんが口を開いた。
細身の身体をワンピースに包んで、髪をまとめた銀縁眼鏡の石川さんが、ベースを構えて立っている。
白くて長い腕が伸びてベースのネックを支え、無骨な黒いストラップが細い肩に掛かっている。
アンバランスなのに、妙にしっくりと様になっていた。
それはきっと彼女がこれまで多くの時間をベースに費やしてきたことの証なのだ。
ネルちゃんが小走りにドラムセットに戻る。
さっきと同じカウントから、演奏が始まった。
わたしはぎょっとして石川さんを見た。
石川さんのベースが、スリーピースバンドの音の薄さを埋めるように、彼女のイメージに反したゴリゴリの音色で、コードの上を縦横無尽に動きまわっている。
まるで何かの鬱憤を晴らすかのような、激しい演奏だった。
それに呼応してネルちゃんのドラムもさらに活き活きと暴れ回っている。
わたしの心に負けられない、という気持ちと、もっとすごい演奏にしたい、という気持ちが同時に湧き上がった。
それはひとりで演奏していたら決して感じることのない気持ちだった。
何かが始まるような気がした。
今までずっと停滞して、澱んでいた川の堰が崩れて、流れ始めたような気がしたんだ。
一応の完結のところまでは書き終えてありますので、失踪だけは(きっと)しません! やった! これは安心! 推せる!
……よろしくお付き合いください。