おっかない先輩
「みんなごめん、ちょっといいかな?」
いつものスタジオ『リディアン』での練習中、ちょうど音の途切れたタイミングで突然深杜がみんなに声をかけた。
「深杜、どうしたの?」
なんだか悪いニュースでも聞かされそうな予感がして、わたしの心はざわざわしていた。
不安で不安で仕方がなかった。一体なぜこんな気分に……
「……ミソラ、そのオーギュメントコードやめてもらえる?」
「あ、効果音、いらない?」
キーボードであやしい音色を奏でていたミソラは、悪びれもせずにヘラヘラした。
「そんな心配しなくても、別にやめるとか言わないよ」
深杜は呆れたように笑った。わたしはよっぽど不安げな顔をしていたらしい。
「お願いっていうか、提案があるんだけど」
そう言ってみんなの顔を見回して深杜は言った。
「うちの学校の文化祭、出ない?」
深杜が急に退部したので、文化祭の軽音部の出演予定に穴が空いてしまったという話は、例のおっかない先輩の襲撃で知っていた。
未だにその問題は解決していないらしい。そこで、穴埋めにわたし達『すていぐま』で出演しないか、という主旨だった。
「文化祭ステージ! やりましょう!」
例によってネルちゃんが真っ先に元気に挙手している。さっすが全乗っかりの女。
「文化祭かあ、青春だねえ」
ミソラは年寄りみたいにしみじみとうなずいている。一応賛成の意思表示らしい。
「そもそも部外者の私たちが出演できるんですか?」
石川さんが冷静に疑問を口にすると、
「それは問題ないです。演劇部とかでもやってるそうなんで」
深杜は即答した。しっかり事前に確認していたらしい。
「でも深杜さん、部を辞める時ひと悶着あったんですよね? その辺り大丈夫なんですか?」
ネルちゃんに訊かれると、
「任せて。なんとかする。私と、ここいで」
深杜は自信ありげに答えた。
あのおっかない副部長との交渉は骨が折れそうだ。大変だな、深杜と、ここいさんは。
……。
「わたし!?」
「反応にぶいな! 一応ここいだって関係者じゃん」
「いや、深杜さん? わたし前回、めちゃめちゃ先輩にイキっちゃいましたけど?」
「あー、だいじょぶだいじょぶ、あの人気にしてないよ、多分」
どこをどうしたら大丈夫と思えるのか。あんだけ睨まれて。
そもそもあんな事があった後で、仲良く文化祭ライブなんてできる……?
「……私、やっぱり放っておけなくて。みんなお願い、手を貸して貰えないかな?」
深杜が真剣な表情でみんなを見回す。
そんな顔をされたら、断れるはずもない。それに。
「わたし、やりたい。前回のライブ、全然納得いってないから」
「岩手でやったっていうライブ?」
ミソラに訊かれて、わたしは「うん」と答えた。
「なるほど、リベンジマッチですね」
石川さんは腕を組んで、納得したように言った。
「わかりますよ、あたしだって悔しかったですもん。演奏の出来はまあまあでしたけど、なんかこう……」
ネルちゃんが眉根を寄せながら言葉を探していると、
「敗北感」
深杜がきっぱりとその後を継いだ。
「ユヅキさんたちに全部持ってかれた。私たちのことなんて誰も覚えてない」
「でも、初ライブだったんでしょう? そんなに悲観することもなくない?」
ミソラは少し不思議そうな顔をしている。確かに、あの場にいなければそう思うかもしれない。
「確かにユヅキさんたちの足元にも及んでなかった。でも、わたしがもっと納得いってないのは、自分たちの音楽を貫けなかったこと」
わたしは心の中のモヤモヤしたものを整理しながら話した。
「ライブ前、みんなで考えたよね。『最初の曲だから、ウォームアップも兼ねてこれで』とか『少し年齢層が高めだから、この曲』なんて。その場に合わせて曲を選ぶ、もちろんそれは悪いことじゃないよ。だけど、今思うと、わたしは……それを全部言い訳にしてた。やる前から言い訳して、保身に走ってたんだと思う。歌だってそう。わたしはあの時、誰もやらないから仕方なく歌ってるんだって言い訳してた」
ライブハウスの店長や三崎さんたちが「初ライブにしては上出来」と褒めてくれたことを思い出す。
それは、周りの人たちが言う言葉で、当事者の言葉であってはならないはずだ。
「たしかに。なんか、置きに行って、負けたって感じ。縮こまってたよね、私たち」
深杜は悔しさを滲ませている。
「今のわたしたちに必要なのは、一度自分たちのライブを全力でやることだと思う。やって、スベッて、笑われることだと思う」
「いや、ネガティブすぎでしょ!」
わたしの言葉にネルちゃんがすかさず突っ込んだ。
「スベるの前提っていうのもどうなんですか? それはそれで言い訳になってません?」
「『やる前から負ける事を考える馬鹿がいるかよ!』というやつですね。ふふ、なるほど、燃えてきました」
石川さんは謎にテンションを上げている。たぶん、誰かの台詞の引用なんだろう。知らんけど。
「私もスベるのは嫌かな〜。私たちが満足することと、お客さんが満足すること、片方しか取っちゃいけないなんてこと、ないんだからさ。両立できるように頑張ろうよ。ほら、みなとみらいで写真撮った時と同じだよ。恥ずかしがらない、照れない、なりふり構わない」
ミソラの言葉にみんながうなずいた。
スローガンにしてはゴロが悪いな、なんて思っていたけど、案外良い心がけかもしれない。
「みんな、ありがとう。それじゃあ、その方向で話、進めちゃうよ? 私とここいで、副部長に話してみるね」
深杜はほっとしたような笑顔を見せた。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
おっかない2年の先輩こと軽音部の副部長は、それはそれは不愉快そうに深杜の話を聞いていた。
「急に辞めてしまったことは、すみませんでした」
深杜が頭を下げたので、わたしも下げた。
ちなみにさっき深杜には「絶対に余計なことは喋らないで」と思いっきり釘を刺されてしまった。
「でも、私たちが出れば、少なくとも枠だけは埋まりますよね?」
「で、そっちのちんちくりんと一緒に出たいと」
先輩は目だけを動かしてわたしを眺めた。
「ち……!」
「そうです! このちんちくりんと!」
おいこら、深杜。
「ちんちくりんの方は? あたしに何か言いたいことがあるんじゃないの?」
腕と脚を組み、椅子に座ってつま先をイライラと揺らしながら、顎でわたしを指した。
「もっ、もちろんウチの根岸も、とっっっても反省してます! ねえ、根岸さん!」
鶴見さん、君にはがっかりだよ。そんな媚びへつらうような真似を……
「ね、ぎ、し、さ、ん?」
笑顔を貼り付けたまま、わたしに鼻がくっつくくらい顔を近付けて威嚇してくる深杜。目がガンギマリでとてもこわい。
「……この間は、すみませんでした。事情もよく知らないで、言い過ぎました」
わたしはその圧力に負けて、先輩に頭を下げた。
まあ、言い過ぎたのは確かだし。
先輩はそれには答えず、どピンクの唇を尖らせて、深杜とわたしを代わりばんこに、カラコンの瞳で5往復ほどジロジロと見たあとで、大きなため息をついた。
「正直、気に食わない。そんな簡単にほいほいやめたり戻ったりさ。あたしらだってこう見えても真剣にやってんだ。これでまた『やっぱやめます』なんて言われたら、それこそ終わるし」
先輩からしてみたらそれはそうだろう。
「あたし個人としてはね、鶴見の言い分もわかる。良い音楽をやりたいって気持ち。あんたとあの二人じゃ釣り合わない。わかってるよ。けど、こんなでもあたしは部長代理だからさ。陽菜もひびきも、あいつらなりに、下手なりに頑張ってた。あたしは、そういう音楽を否定したくない。下手くそが音楽をやっちゃいけないなんてこと、認めるわけにはいかない。それが、軽音部の存在理由ってやつだと思ってる」
わたしは驚いて、その言葉の出どころのピンク色の唇をぽかんと眺めていた。
わたしはこの人が、ただ感情に任せて深杜に突っかかっているだけだと思っていた。もっと言えば、この人のことを見くびっていたのだと思う。
先輩はもう一つ深い所でものを考えていたんだ。
バンドというものを学校の部活動としてやるという、ある種ナンセンスな行為に、彼女なりの理由を見つけて。
「……軽音部として文化祭に出るからには、当然再入部してもらわなきゃいけないんだけど。それは大丈夫なの?
先輩は諦めたような口調で訊いた。
それについては事前に深杜と相談していた。
正直な所、部に所属することには抵抗があったけれど、たまに視聴覚室で開催するライブと文化祭以外には、決まった活動というものはないらしい。
わたしたちのバンドも毎日スタジオに入れるわけではないし、それならいつでも練習ができて、校内とはいえちょくちょくライブもできるという環境は決して悪いものではないだろう、という結論になった。
「はい、もちろんそのつもりです。でも……」
深杜は表情を曇らせた。
「陽菜とひびきのことでしょ? 今度の文化祭のあいつらの出番に関しては、こっちでなんとかする。ただ、今回のこと、お互いに納得できるようにお前らでちゃんと話し合うこと。それが出来ないなら再入部は認めない。わかった?」
「はい、やってみます」
「……で、根岸さんは?」
初めて名前を呼ばれた気がする。
「わたしも入部したいです。その、先輩が許してくだされば」
「別に怒っちゃいないよ」
先輩はやれやれ、というように肩をすくめた。
「あたしも散々先輩に生意気な口利いてきたからさ、怒る資格なんてないんだわ」
……わたしのこと、生意気とは思ってたんですね。さすがに口には出さないけど。
「じゃあ早めに入部届、出して。最初の一ヶ月は仮入部扱いね。部員が足りないのは事実だから、正直助かる。歓迎するよ」
「わかりました……なんていうか、大変そうですね、副部長」
ぽろっと出たわたしの言葉に、深杜は「余計なこと言うな」と目配せをし、先輩は「なんだこいつ」みたいな顔をした。
「ほんとだよ。副部長なんて、なんで引き受けたんだろう。あーしんどい!」
先輩はちょっと笑ってから、のけぞって低いうめき声をあげた。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
わたしには一つ、ひどく気の進まない面倒ごとが残っていた。
部活動に参加するためには部費が必要で、必然的に入部届に保護者のサインが必要になる。そのために父親に会ってお願いしなければならなかったのだ。
何度もため息をついて、胸と胃に溜まった重たいものを吐き出しつつ、電話をかけた。
電話口の、家族の前でなんでもないように取り繕っている父親に部活のことを話すと、いかにもお安い御用という素振りで、詳しい話も聞かずに了承した。
電話の向こうから、小さな子供——わたしの異母弟の騒ぐ声が聞こえる。
夜だったけれど、用件を早く片付けてしまいたかったので、これからそっちに行くと伝えると、父の家の最寄駅で落ち合おうと言われた。
電車で三十分ほどの駅に着くと、だいぶ老けて白髪の多くなった父親と、彼より一回り以上若い義母と、さっき電話の向こうで騒いでいた当人であろう、小さな異母弟がいた。
異母弟に会うのは初めてだった。義母の陰に隠れて、ちらちらとこちらを見ている。
「ほら、おねえさんにごあいさつは?」
義母が手を引っ張り促すと、彼は上目遣いにわたしを見ながらぺこりと頭を下げ、また義母の後ろに隠れてしまった。
「こんばんは。はじめまして」
わたしは笑みをつくって小さな異母弟に挨拶をした。リアクションはなかったけれど、それ以上深追いはしなかった。
駅前の喫茶店に入り、わたしが入部届を差し出すと、父親は当たり障りのない言葉を発しながらサインした。お礼を言って帰ろうとしていると、義母がカバンをごそごそと探り、わたしの前に書類を広げた。
それは保険の契約書だった。彼女は保険の営業職をしているのだ。
「突然こんなことを頼むのは心苦しいんですけれど」と前置きをして「ノルマのため形だけ入って頂けませんか、もちろん支払いはこちらでいたしますので」と、彼女は馬鹿丁寧な営業口調で言って頭を下げた。
なるほど、丁度いい交換条件だったわけね。
あまりのことにわたしはぷっと吹き出してしまった。
それをどう勘違いしたものか、父親が
「まあ、助けると思って、頼むよ」
と、少しほっとしたような様子で言った。
わたしは言われるがままにその書類にサインをした。
いくらなんでも保険金目当てにどうのこうの、なんてことはないだろう。
……わずかでもそんなことを考えている自分がおぞましかった。
今度こそ帰ろうとしていると、車で家まで送って行こうか、と言われたけれど、もちろん適当な理由をつけて固辞した。
喫茶店を出て、駅のエスカレーターを歩いて登り、改札を入った所で、わたしはようやく落ち着いて大きなため息をついた。
わたしはホームを歩きながら、ネルちゃんにメッセージを送った。本当にくだらない、どうでもいいメッセージを送ると、すぐにスマホが振動した。
「先輩! 聞いてくださいよー!」
ネルちゃんはそう言って、一方的にべらべらと喋った。さっきわたしが送ったメッセージの何倍もどうでもいい話だった。
わたしは笑いながら彼女の話を聞いた。
「ネルちゃん、明日なんか奢るよ」
「えっ? マジですか? どうしたんですか?」
「バイトのお給料出たから。何食べたい?」
「ほんとですか!? じゃあ、あれ! 期間限定のマロンなんとかフラペチーノ! ホイップマシマシで!」
「はいはい。じゃあ明日ね、ネルちゃん」
「おやすみなさい! ……あれ? 今、駅ですか?」
「もうすぐ電車が来るところ」
「気をつけて帰ってくださいよ! なんか死亡フラグみたいになってるから」
「わかった、約束するよ。わたし明日、ネルちゃんに大事な事を伝えるんだ……」
「あたしはいつまでもいつまでもカフェで待ち続けるんですね! 『先輩、フラペチーノ、溶けちゃいましたよ』って、遠い目で」
「やだ、素敵」
「素敵じゃないでしょ。ちゃんと奢ってくれたほうが何倍も素敵です。ロマンよりマロンですよ。ロマンより、マロンですよ!」
「……なんで2回言ったの?」
「いや、上手いこと言えたなって……」