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衛星軌道

 その日の夕方、バイトのために『牡丹』に行った。

 大将と女将さんに休んだことを詫びると、わたしを気遣う言葉だけが返ってきた。

 ユヅキさんはいつも通りに見えた。

 健康でなければ音楽も出来ないんだから、ちゃんとご飯を食べろとか、少しは身体を鍛えなさい、とお説教をして、「口うるさいババアだ、って思った?」と笑った。

 わたしはその日をずっとそわそわしながら過ごした。

 ユヅキさんと話をしなければならない。

 けれども、この期に及んでわたしは尻込みした。

 休憩時間が過ぎて、営業時間が終わり、店内の掃除が終わってもまだ踏ん切りがつかなかった。

 また明日でいいか、なんて思っていると、スマホが振動した。

「ここい、ユヅキさんとちゃんと話した?」

 深杜だった。どうやらわたしの考える事なんてとっくにお見通しのようだ。

「え、えっとー、今日、忙しくて」

「今日話さなかったら、一生軽蔑する。根性なし」

 それだけ言って電話はそっけなく切れた。

 はあ、仕方ない。話をしよう。ユヅキさんに……ユヅキさん……ユヅキさん、どこ?

「あの、大将、ユヅキさんて」

「ん? 先帰るって出てったよ」

「お疲れ様でした!」

 わたしはバッグを引っ掴み、駆け出した。

 スーツ姿のサラリーマンの間を縫って、駅までの道を走る。映画館の入っているビルの中を通り抜けて、建物の2階から外に出ると、そのまま帷子川にかかっている歩道橋に繋がっている。

 周囲より高くなっているその場所に、繁華街を行き交う人を見下ろすようにしてユヅキさんが立っていた。



◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇



 ウェーブした栗色の髪が夜風に吹かれて、ゆらゆらと揺れていた。彼女はそれを手で押さえるようにしながら、ゆっくりとこちらを向いた。

「風が気持ち良いよ、ここたん」

 ユヅキさんは微笑んで、視線を町並みに戻した。

 その仕草で、ユヅキさんがここでわたしを待っていてくれたのだとわかった。

「ここたんはやめてくださいってば」

 わたしはユヅキさんの隣に立った。

「あたし、やっぱり横浜、好きだなあ。離れたくないよ」

 眼下を通り過ぎる沢山の人たちを眺めながら、ユヅキさんはまるで詠嘆するように呟いた。

「ユヅキさん、こっち来てからずっと横浜なんでしたっけ」

「そう。かれこれ6年か。岩手から出てきた時は、『綺麗なのはみなとみらいだけじゃねーか!』なんて思ってたのになあ」

「……ユヅキさん、話、いいですか」

 わたしはようやく切り出した。

「もちろん」

 きっとそれを待っていてくれたのだろう。ユヅキさんはまるで寝室で交わす会話のように、穏やかに答えた。

 わたしの心はまた折れそうになった。

 けれど、なんとか自分の中の感情を、怒りを奮い立たせるためにユヅキさんを睨んだ。

「わたし、怒ってます」

 わたしが言うと、ユヅキさんは微笑んだまま、黙ってうなずいた。

「どうして、教えてくれなかったんですか。急にいなくなっちゃうなんて。ユヅキさんにとっては、わたしなんて、たかが同じバイトの高校生なのはわかってます。でも、わたしは、わたしは……」

 わたしは自分の気持ちをそのままぶつけた。

「ひどいですよ。さんざん優しくしてくれて、いっぱい相談にものってくれて。無理やり人の心をこじ開けるようなことしておいて、自分のことは内緒にするんですか? 相談してくれなんて言いませんけど、せめて教えてくれてもよかったじゃないですか」


 わたしの曲を初めて聴いてくれて、初めて感想を伝えてくれた。

 わたしにネルちゃんを紹介してくれた。

 バンドをするって言ったら、自分のことのように喜んでくれた。

 岩手でのことだって、わざわざ車で行ったのも、コテージを用意してくれたのも、きっと、全部わたしのためだ。もしかしたら、あのライブだって。

 いくら鈍いわたしでも、そのくらいわかる。

 話している間に感情がこみ上げてきて、顔が熱くなって、声が震えた。


「ユヅキさんも結局同じじゃないですか! 優しい顔で近づいてきて、気を許した頃にいなくなる。みんな、わたしのところからいなくなる! こうなるのがわかってたから、わたしは、誰にも心を許さなかったのに」

 涙が出た。情けなくて、悲しくて。

「ユヅキさんも、いなくなっちゃう」

 ユヅキさんは何一つ表情を変えなかった。ずっとわたしを、目を細めて見つめて、微笑んでいた。わたしの言葉に、うん、うん、と小さくうなずきながら。

「……どうして、何も言わないんですか」

 わたしにはユヅキさんのその表情が耐えられなかった。怒りを持続させるには、あまりにも優しくて、慈愛に満ちた表情だったから。

「ここいのこと、見てた。一所懸命、自分の気持ちを話してくれる、あなたを」

 わたしの頭にかっと血が昇った。

「そうやってまたわたしのこと子供扱いして! ずるい! ずるいですよ、ユヅキさんは!!」

「えー? そんなつもりはないんだけどなぁ」

 ユヅキさんはわたしの剣幕にまるで無頓着に、おっとりと笑った。

「ここいの目に私がどんな風に映ってるのか、わからないけど。やっぱりあんたには客観的な視点ってやつが欠けてるんだよ」

「は!? また説教ですか!? 今怒ってるの、わたしなんですけど!」

「だってここい、あたしの気持ち、全然分かってないじゃない」

「……え?」

「ここいが寂しいのと同じように、あたしも寂しいんだよ? そんな当たり前のこと、分かってない」

「だって、そんな」

「言えなかったんだ」

ユヅキさんはそう言って俯いた。

「どうしても言い出せなかった。あたしが言ったら、ここいがどんな顔をするかって考えたら、怖かった」

そんなわけない。あのユヅキさんが、そんな、わたしじゃあるまいし——

はっとした。

 わたしの方こそユヅキさんのことを対等に見ていなかったんじゃないか。

 かっこよくて、明るくて、大人のユヅキさんは、そんな悩みと無縁なはずだって決めつけて。

「……ごめんね、ここい。あたしの弱さのせいで、あなたのこと、余計に傷つけちゃったね」

そんな言葉が聞きたいんじゃなかったのに。ユヅキさんの、そんな顔が見たいわけじゃなかったのに。

 わたしは一体、何をやってるんだろう。なんにも思い通りにならない。


「ああ、寂しいなぁ」

 ユヅキさんはそう言ってわたしの頬に触れた。

 わたしにはそれを払いのける気力は残っていなかった。

 ユヅキさんの手は熱くて、わたしは焼き印を押される牛のように、その指の一本一本を頬に感じた。触れられたほうの左の目からだけ、涙がポロポロとこぼれた。

「あなたの繊細なところも、めんどくさいところも、捻くれたところも、全部可愛くてしょうがない。大好き。あなたはどうか、そのままでいて」

「……そうしたらわたし、ずっと大人になれないじゃないですか」

「ならなくていいよ、そんなもの」

「ずっと辛いままで、独りでいろって言うんですか」

「……結局独りなんだよ? 人間は」

「ユヅキさんの、人でなし」

「あたしはたまたま、ここいと同じ列車に乗り合わせただけなんだよ。本当の目的地には、あなたは独りで行かなくちゃいけない。行けるうちは、どこまででも」

「やっぱり全然、慰めてくれないんですね」

「必要ないでしょう? もう、ここいには仲間がいる。いずれ別れるんだとしても、行く先が違っても……みんなあなたと同じように独りで苦しんで、戦っている。そういう人が側にいてくれるってだけで、案外心強いもんだよ」

「バンドのみんなのことですか?」

「他にも、もっと増えるよ。直接会えなくたって、どこかの書斎で、どこかのライブハウスで、どこかのアトリエで。いつでもあなたの同類が独りで戦っている。あなたは、独りだけど、一人じゃないよ」

「そうか……辛いなあ」

「だけど、あなた自身がそれを望んでいる。違う?」

 涙が止まらなかった。

 なんでわたしはそんな生き方しかできないのだろう。だとしたらわたしは一生幸福になんてなれないじゃないか。

「ユヅキさんは、どうするんですか。もう全部やめて、人並の幸せな暮らしってやつをするんですか」

「……ここい、これはまだみんなには内緒だよ?」

 ユヅキさんはわたしに少し近づき、声を落として、

「あたし、親になるのよ」

 そう言って笑った。

「……は?」

 衝撃で涙が引っ込んだ。

「ユヅキさん、そうなんですか!?」

「そういうこと」

「えっと、あの……お、おめでとうございます」

「でもね、あたしは音楽から離れるつもりはないよ。きっとこれから色んなものが変わっていくんだろうけど、それだけは変わらない。きっとね」

 ユヅキさんは穏やかな眼差しをわたしに向けて言った。


 わたしの中のわだかまりも怒りも、全部が溶けていった。

 ユヅキさんの価値観はわたしのそれとは違うのだと、そんな当たり前のことをそのときはっきりと理解した。


 遠くへ向かうための目印にしていた木が近づいてきたら、次の目印を見つけなければならない。

 そうでなければ延々と木の周りを廻り続けることになる。

 だからこそわたしはもう自分で道を選ばなければならない。

 ユヅキさんと決別しなければならないのだ。


 それはあまりにも冷酷な事実ではあったけれど、わたしはどうやらそれを受け容れることができた。

 わたしのプライドと、音楽を愛する者としての矜持が、ユヅキさんへの依存心をわずかに上回ったのだ。


「ユヅキさん、今までありがとうございました。お元気で」


 わたしの気持ちはきっと何万分の1も伝わらない。

 もどかしく思いながら、せめてもの感謝の気持ちと、幸運を祈って、わたしはユヅキさんの手を握り、精一杯に伝えた。

「ありがとう、ここい」

 ユヅキさんは笑って、わたしの手を強く握り返した。



◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇



 帰りの電車に揺られながら、わたしは学校のカバンの中から一冊の本を取り出した。

 綺麗なインディゴブルーの表紙の文庫本。

 ――『銀河鉄道の夜』

 ユヅキさんから以前「作詞の参考になるかも」と貰った本が、そのままバッグの中に入れっぱなしになっていた。

 さっきのユヅキさんの言葉で、わたしはようやくその存在を思い出したのだ。

 子供の頃にこの話を読んだことがあったけれど、わたしは殆ど内容を覚えていなかった。

 わたしはゆっくりとその本をめくった。


  少年は唯一人の友達と共に、銀河鉄道に乗って旅をする。

  少年が持っているのは何処まででも行ける切符。

  旅をするうち、様々な人たちと乗り合わせる。

  たくさん話をして、仲良くなっては皆と別れる。

  そうしてとうとう少年は旅の目的を見つける。

  ――『ほんとうのさいわい』を探すのだと。

  けれどその瞬間、唯一の友達すら忽然といなくなってしまう。

  どこまでが夢であったのかも、それからどうなったのかも曖昧なまま、物語は突然終わる。


 とても美しい物語だった。

 青白く冷たく朧げに、あるいは真っ赤な炎のように赫赫(かくかく)と、恒星のように煌々と。絢爛たる光の中に浮かんでは消えてゆく、一夜の夢のような。

 儚くて寂しい、けれども凛としてどこまでも清々しい、そんな話だった。


「……やっぱりひどいな、ユヅキさんは。なんて本を薦めるんですか」

 わたしは電車を降り、薄暗い駅のホームのベンチに座って、人目もはばからずに独りで泣いた。

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