わたしは独りで
「ごめんなさい、どうしてもできません」
教室の二つ前の席で、深杜はそう言って深々と頭を下げた。
「そう言わないで、もう少し考えてもらえない? こっちとしても突然だったから、他の人を探す時間も、余裕もなくてさ」
先輩はわずかに苛つきながら、尚も食い下がった。
「文化祭までの間だけで良いんだよ。陽菜もひびきも寂しがってるし、ここまで一緒にやって来て、ライブが出来ないのも可哀想だと思わない?」
そう言われて、深杜は黙って俯いた。口が少し尖っていて、怒っているように見えた。
「私は真剣にやりたかったんですよ、バンド。でも、陽菜もひびきも、全然練習してくれなかった。音楽をやる姿勢は人それぞれだから、それをどうこう言うつもりはありません。でも、私はもう一緒にやるつもりはないです」
「……文化祭の直前に辞めて、無責任だよね?」
先輩の語気が怒りを帯びた。
「責任ってなんですか?適当な演奏で適当に盛り上げることですか?」
二つ後ろの席で見ていたわたしの口から、勝手に言葉が飛び出した。
深杜が「あちゃー」という感じで頭を抱えている。先輩はぎろりと横目にわたしを見て、怒りを込めながら口を開いた。
「……何? あんた」
明るい髪の色に超絶短いスカート、つけまつげ。彼女は軽音部の2年生だった。
文化祭の目前で深杜が退部したのでライブの予定が組めなくなり、なんとか深杜に戻って貰おうと打診しに来たのだ。
私達の教室にわざわざ来たのは、他の生徒の前でお願いすることで断りにくくさせる打算があったに違いなかった。
「深杜の人気におんぶに抱っこで、ろくに練習しないその人達にも問題があるんじゃないですか?」
「部外者は黙っててよ」
「深杜がどれだけ苦しんでたかも知らないで、被害者ヅラですか? 先輩も先輩で、そんな状況を放置してたんですよね? あの演奏聞いて、なんとも思わないわけないですもんね」
「なんなんだよ、お前は」
先輩はわたしに向かって一歩踏み出した。
「先輩、無理強いはやめてくださいよー」
びっくりした。
そこに割って入ってきたのは、同級生――わたしがこのクラスで唯一会話を交わす、3人組の一人だった。
「鶴見さん、嫌がってるじゃないですか」
そこに3人組のもう一人が参戦する。
「これ以上やるなら、先生呼んできますけど」
もう一人が、しれっとした感じで言った。
「……とにかく、もう少し考えてみて」
先輩はまるで捨て台詞のように深杜に言って、わたしをじろりと睨みつけ、教室を出ていった。
教室のドアが閉まってからたっぷり3つ数えるくらいの時間をおいて、わたし達は一斉にため息をついた。
「はああああー、おっかなかったーーーー!!」
「あの人やばすぎでしょ? 超睨まれた、私」
「根岸さん、よくあんなのに突っかかって行ったね?」
明るく声をかけられて、わたしは、ただそれだけなのになんだか胸がじーんとした。
「怖かったね。ツメ、見た? どピンクだったよ、どピンク」
声がちょっと震えたのは、怖かったんじゃなくて、嬉しかったからだった。
「みんな、ありがとー! 助かったよ」
深杜が明るく言って、大きく手を広げた。
「……もう、ばかここい」
二人きりになると、深杜は一転して不機嫌になった。
「あははは、やっぱまずかった?」
「なんであんたはそうやって直情的なの? 弱っちいくせに」
「だってあの人、滅茶苦茶言ってたよ?」
「でもさあ、私にもまあ、多少の責任はあるわけじゃない?」
「ないよ!」
「理屈で言ったらないけど、人道的にはあるの! 実際、文化祭直前で辞めちゃって、年に一度の晴れ舞台が台無しになっちゃうかも、だからさ」
「でも深杜がやりたくないんなら、しょうがなくない?」
「うーん、まあね。でも、あの人のこと、あんまり悪く言わないであげてよ」
「えー?」
「今年の3年生、学業優先だとか言ってみんな辞めちゃってさ、あの人が今部長代理なの。部員も足りないし、文化祭をなんとか成立させるのでいっぱいいっぱいなんだと思う」
「あー、なるほどね。まあ、深杜がそう言うなら」
「それとさ」
「ん?」
「庇ってくれて、ちょっとだけ嬉しかった」
「……ふーん?」
わたしはニヤニヤして、照れてそっぽを向いている深杜をじっくりと鑑賞した。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
それはいつでも突然にやってくる。
そしてその時になって初めて後悔することになる。
なんでもない日常に突然起こる地震のように、地面が揺れ始めてからようやく、今までの平穏が当たり前のものでなかったことを思い出すのだ。
そしてそれが過ぎれば、わたしたちはその後悔ごと綺麗さっぱり忘れ去ってしまう。
バイトが終わり、店内の清掃が終わって、ではお疲れ様でした、という段になって、大将が皆に声をかけた。
「ちょっと皆、いいかな?」
なぜか心がざわざわした。
「実は、今月いっぱいで東条さんが退職することになりました。東条さん、ちょっと一言良いかな?」
「はい! わたくし東条弓月、この度、満を持して、寿退社いたします!! 皆様、大変お世話になりました!」
1歩前に歩み出たユヅキさんは、そう言って勢いよく頭を下げた。
「おおーーーー」
大将と女将さん、今日のキッチン担当二人。皆が驚きの声を上げながら、祝福の拍手をしている。わたしも同じようにぱちぱちと手を叩いた。
「東条さん、お相手は?」
キッチン担当の大学生のお兄さんが訊いた。
「大学時代からの連れです! そいつが家業を継ぐことになりまして。めんどくさいんで、じゃあもう籍、入れちゃうかと」
ユヅキさんはノリノリで答えている。
「引っ越しちゃうの?」
「ちょっと京都の方に。うち、京女になります! 皆様、長い間ほんまに……ほんまおおきになぁ。あら大将、いい時計してはりますなあ」
「え、さっさと終わらせろってこと?」
「ほんま東京の方はおもろいなあ、ぶぶ漬けいかがどす?」
「わかった、わかったから。じゃあ、そういうわけで、みんなよろしくね。もう少しの間の辛抱だから相手してあげてね、根岸さん」
「あははは、頑張ります」
「ちょっと、ここい?」
「はい、じゃあみんなお疲れ様!」
大将がぱんと手を叩いて、その場はお開きになった。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
その翌日、わたしはいつも通り通学してきて、校門の前まで辿り着いたところで……力尽きた。
――ああ、駄目だ、やっぱり帰ろう。
今日これから何時間にもわたって授業を受ける気力がなかった。
わたしは踵を返して、まだぽつぽつと登校してくる生徒がいる中を逆向きに歩いた。
灰色の空に、殺風景な街並み。
フェンスに囲まれた、雑草の伸びた空き地を横目に見ながら、閑散とした通りをとぼとぼと歩いていると、心が萎れていくようだった。
帰りの電車はがらがらだったけれど、腰をかけると立ち上がれなくなるような気がして、わたしは吊り革をつかんでぼうっと窓の外を見ていた。
家に帰って目を瞑って、少しの間眠った。
昼過ぎに目が覚めて、わたしは学校と『牡丹』に電話をかけ、風邪をひきました、と嘘をついた。
そしてまた、制服のままで昏々と眠った。
真夜中を通り越して、早朝に片足を突っ込んだ時間に起きると、眠りすぎたせいか頭がズキズキ痛んだ。わたしは痛み止めを飲んで、バスタブにお湯を溜めた。
ペットボトルを持ち込んで、湯船に浸かりながら水をがぶがぶと飲んだ。そしてまた目を瞑ってまどろんだ。
入ったのは良いけれど、お風呂から上がるのが億劫で仕方がなかった。うじうじしている間に1時間ほどが経ってしまって、ようやくわたしはそこから脱出した。
わたしは碌に髪も乾かさないまま、ベッドにうつ伏せになった。
傍らに置いてあったヘッドホンを取り、耳に当てて、インディゴフィッシュの曲を再生した。夜が明けるまでそのままずっとそうしていた。
脳が明確にそのことを考える事を忌避していた。それにまつわる全ての事柄をきれいに避けて、遠回しな連想すらさせないように機能していた。ずっと前頭葉が重くて、濡れた布に包まれたように感覚が鈍かった。
「わかっていたくせに」
私が嘲るように言った。
「人は独り、でしょう?」
わたしが答えると、
「あなたが独りなんだよ、あなただけが」
私が笑った。
「独りなのは、あなたひとり」
「知ってるよ」
わたしは答える。
「知ってたよ。うんざりするくらいに」
何か食べる物を買おうと、早朝に部屋を出た。
支払いのため、コンビニのレジでスマホを取り出したときに、画面にいくつかの通知が残っているのが見えた。
確認なんてできるはずがなかった。今そんなものを見たら、取り返しがつかなくなる。
――違う。きっと、今のわたしは取り返しのつかない結論を出してしまう。
部屋に帰って、おにぎりをもそもそと食べた。
それからずっと、曲を作った。誰の助言も、意見も求めず、全部ひとりでやるのは、久しぶりだった。
画面に広がるシーケンスの列と、ヘッドホンから鳴る音だけで構成された世界。そこは住み慣れた箱庭のようで、ひどく気持ちが落ち着いた。
わたしはここにいればいい。なんでも自分の思い通りになる。心をかき乱されることも、嫌なことも何もない。
どうせここに戻ってくるのなら、最初からここにいればよかったのだ。
その日は一日中、そうしていた。
インディゴを聴いて、曲を作って、ギターを弾いて。
もうそれでいいじゃないかという気がしていた。
わたしは独りでいい。
もちろん、いつまでもこのままというわけにはいかないだろうけれど、そうなったらもう、この小さな箱庭ごと、全部終わらせてしまおう。
それなのに。そう決めたはずなのに。
新しく作った曲のドラムのフレーズを試行錯誤しているときに、わたしはふと、ごく当たり前に「ネルちゃんなら何て言うだろう」と考えていた。
『だめですねぇ、先輩は』
ネルちゃんの人懐っこい笑顔と、弾むような声と、さらさらの猫っ毛を思い出した。
すると、それが呼び水になって、今まで遠ざけてきた思考と記憶が、いっぺんに戻ってきた。一旦そうなると、曲のどのパートをいじっていてもみんなの顔が浮かんできて、わたしの邪魔をした。
変なシャツを着た石川さんの真剣な目つきと、彼女のフレットレスベースの滑らかな音。
ギターソロを弾き終えて、わたしに向かってはにかんだように笑う深杜。
気持ち良さそうに目を閉じ、身体をゆらゆら揺らしてリズムをとっているミソラ。
「……勘弁してよ」
わたしは絶望的な思いで呟いた。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
2日ぶりに学校に行くと、同級生の3人組が心配そうに近づいてきた。彼女たちはわたしの身体を気遣って、ノートのコピーまで渡してくれた。
そこに深杜が近づいて来た。
「大丈夫なの?」
開口一番、彼女はそれだけを訊いてきた。
「もう大丈夫」
わたしが返事をすると、「そう」とそっけなく答えた。
その後すぐ、彼女はわたしのスマホに「昼休みに話そう」とメッセージを送ってきた。
昼休み、わたしたちはいつかふたりで話をした、校舎と管理棟の間のスペースにいた。
相変わらず薄暗くてじめじめしていて、あまり昼食を摂るのに良い場所ではなかったけれど、わたしはおにぎりを、深杜は購買のパンをそこで食べた。
「風邪って、嘘でしょ」
それまで黙っていた深杜が口を開いた。わたしはちらっと彼女の顔を見ただけで、答えなかった。
「ユヅキさんの話、ネルから聞いた」
――やっぱり、その話か。うんざりする。
「結婚して、引っ越すって。ここいも聞いてなかったの?」
「聞いてないよ」
わたしは憮然として答えた。
「あの人にしてみたら、わたしなんてただのバイト先の子供だもん」
「やっぱり、それで拗ねてるんだ」
深杜はそう言ってくすっと笑った。いつもの彼女らしいその仕草が、今はとても癪に障った。
「そんなんじゃないよ! ムカついてんだよ、わたし!」
音量のコントロールが効かず、思わず大きな声が出てしまった。
「あの人、わたしにはいっつも説教して、人の気持ちに散々土足で踏み込んで来るくせに、自分の事はなんにもわたしに教えてくれてなかったんだよ!? わたしが引越しのことを知ったの、バイト先のみんなと一緒にだよ? ユヅキさんにとって、わたしなんて所詮職場の人間の一人でしかなかったってことでしょ!?」
胸の中に燻っていた感情が溢れ出した。
深杜にこんなこと言っても仕方がない。わかっているのに止められなかった。
「見捨てられたんだ」
深杜はまっすぐにわたしを見て、冷たい口調で言った。
「ユヅキさんは実はここいの事なんかどうでもよくて、適当に切ろうとしてるんだ」
深杜の言葉が刃物のようにわたしの心に次々に突き刺さった。
わたしは絶句してその残酷な言葉にただ傷ついた。
「……本当にそう思うの? ユヅキさんを本当にそんな人だと思ってるの? 違うよね。ここいは、怯えてるだけ。捨てられてしまうのが怖くて、自分から切り捨ててしまおうとしてるだけでしょ?」
「なんで深杜にそんなこと言われなきゃいけないの!?」
それは全部図星だった。だからこそわたしは激しい怒りを覚えた。
「私が鶴見深杜で、あなたが根岸ここいだから」
深杜は少しも目を逸らさない。
わたしの幼稚な怒りなんかでは微塵も揺れずに、昂らず、冷めず、ただわたしにまっすぐ語りかける。
「何それ、意味わかんない」
「わかんないの? これは私の役目なんだよ」
「余計なお世話だよ」
「逃げるなって言ってんの!」
深杜に一喝されて、わたしははっきりと恐怖を覚えた。
「……は?」
「ここいはこういう場面でいつも逃げてきた。また今も逃げようとしてる。ユヅキさんと向き合うのが怖いんでしょ。傷付くのが怖いんでしょ?」
「うるさい」
「そうやってまた閉じこもるの? 差し伸べてくれた手を払いのけるの?」
「もういいってば!」
叫んだわたしの両肩を、深杜の両手が鷲掴みにした。
わたしはびくっと身体を震わせて、怯えながら深杜を見た。
「さっきの言葉、そのままユヅキさんにぶつけてきな。喧嘩してきなよ。そうでないと、ここい、一生後悔するよ」
力がこもった深杜の細い指が肌に食い込んで、痛かった。
「……もう、どうでもいいよ」
「どうでもよくないから、そんなに悲しんでるんでしょ? 駄目だよ、そうやって自分に嘘ばっかりついて。大事なことなら、ちゃんと傷つかなきゃ」
深杜はわたしの逃げ道を全て塞いでしまった。もう言い返す言葉なんてなかった。
「……ひどい」
「ん?」
「なんでそんなにはっきり言うの、深杜。ひどいよ……」
「言ってるでしょ。これは私の役割。私にしかできないし、私がやらなきゃいけないんだよ」
深杜は確信に満ちた表情で断言した。
「私は絶対にここいを見捨てないから」
凛とした彼女の顔を、わたしはちゃんと見ることができない。
今までずっと逃げ回ってきたのに、とうとう捕まってしまった、と思った。
きっとこれからわたしは傷つく。悲しんで、苦しむ羽目になる。けれどどこかほっとしてもいる。
指名手配犯が長い逃亡生活の末に捕まった時は、きっとこんな心境なのかもしれない。
わたしはこうして、一度誰かにこっぴどく叱られなければならなかったのだ。