Am7
岩手から戻ってきたわたしたちは、残りの夏休みをいつも通り過ごしていた。
スタジオに入って練習をしたり、デモ音源を作るために録音をしたり。
わたしたちのバンド活動は、のんびりとしてはいてもおおむね順調だった。
ただ、ここに来て、今まで棚上げにしてきた問題に向き合う期限が、いよいよ近づいてきていた。
誰がボーカルを務めるのか。
歌に関しては、深杜が圧倒的に上手いし、ステージ上での姿も華があって、どう考えても適任だと思う。
何より、わたしは彼女の歌声が好きだった。
けれど、当の本人にその話をすると、毎回のらりくらりと躱されてしまうのだ。
今は仮に、という感じでわたしが歌っているけど、自分より明らかな適任者がいるのに、という思いがどうしても払拭できなかった。
歌に神経を注ぐとギターの方も疎かになってしまって、それもモヤモヤした。
そしてなにより、岩手でのライブを経て、わたしはステージの真ん中に立って歌うことに関して、すっかり自信を喪失していたのだ。
「鶴見さん、あなた、歌は好きですか?」
「好きだけど、何? ここい」
「ちょうど今ボーカリスト募集中なんですが」
「いや、やんないよ?」
「……わたし、死ぬ前にもう一度深杜の歌が聴きたいな……」
「カラオケ行く?」
「今まで黙ってたけどわたし、実はノドに爆弾を抱えてて……」
「のど飴いる?」
「もう! なんでやってくんないんだよ! 歌いながらギター弾くのむずいんだよ!」
「練習しよう?」
「歌いながらだと指板見れないし!」
「横目でチラ見するんだよ、チラ見」
「逆に、なんでやってくんないの!?」
「ここいがいいから」
「わたしは深杜がいいの!」
「早い者勝ちなんで」
だ、だめだ。全然相手にしてもらえない。
もう何度目かのその不毛なやり取りを、ネルちゃんと石川さんがうんざりして見ていた。
「もう諦めましょうよ、ここい先輩。あたし、先輩の歌好きですよ」
「じゃあネルちゃん歌って?」
「あたし、超絶ド音痴ですけど、いいですか?」
とばっちりを受けたネルちゃんは、きっぱりと言い切って胸を張った。
「……じゃあ、石川さんは?」
「私、目立つのはちょっと」
目を逸らされてしまった。取り付く島もない。
「じゃあ、ボーカルに専念してみたら? ギター弾かないで」
深杜がそう提案した。どうあってもわたしに歌わせたいらしい。
「前にそれやってみたら、手持ち無沙汰でめちゃめちゃ挙動不審になったからやめたの!」
手ぶらでマイクの前に立つ、あの心細さはわたしには耐えがたかった。
「じゃあ、探します? 新しいボーカル」
ネルちゃんはズバッと言った。
「……新しい人増えるの、こわい」
わたしはぼそぼそと答えた。
スタジオにみんなの、海よりも深いため息が響いた。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
わたし達はその日の練習と、若干の不毛な議論を終え、駅に向かって歩いていた。
夕暮れの横浜五番街は、行き交う人でごった返している。これが東京だったら息苦しく感じるのに、嫌じゃない。地元って不思議だと思う。
駅前の百貨店の周りにはこの時間、何人ものストリートミュージシャンが出没している。
「あ、歌ってる人いる! 見ていかない?」
「いいですね! 敵を知り、己を知れば〜ってやつっすね!」
深杜の提案に、すぐにネルちゃんが乗っかった。
よく晴れた夕暮れだった。
一番多く人を集めているのは、よく通る声の、若いお兄さんたちのバンドだった。ボーカルの人がテレキャスターをかき鳴らしながら、がなりたてている。取り巻きの女の子たちが何人も、うっとりとその様子を見守っている。
その向こうには、世を儚む歌詞を切々と歌う、奇抜な服装の女の子たちのバンドがいる。
少し離れた所で、アンプ一つだけ置いて無心でスラップベースを弾き続ける、国籍不明のベーシストがいる。
アロハシャツを着て陽気に歌う、アコースティックギターとボンゴの二人組の周りには暖かい空気が満ちていて、皆楽しそうに身体を揺らしている。
茜色の光の中で皆が思い思いの音楽を奏でる光景が眩しくて、その音が胸に響いて仕方がなかった。
わたしはそんな自分の心持ちに僅かに動揺しつつ、それを悟られないよう平静を装った。それでもわたしは彼らの音に、歌に、リズムに、釘付けになっていた。
やっぱりわたしは、この夕陽のせいで随分感傷的になってしまっているらしい。
その時だった。
人々の喧騒と、街の音と、様々な音楽の中で、真っ白な閃光のように、ひとつのピアノのメロディがわたしの耳に届いた。
どんな場所でも、聞き逃すはずがない。
聞き間違えるはずがない。
何千回と聴いたメロディ。
わたしの全部の感覚が、そこに集約された。
思考が消し飛んで、わたしの脚は音の鳴る方へ走った。
深杜とネルちゃんが背中でわたしの名を呼んでいた。けれど振り返る暇はなかった。
その音の主を見つけなければ、二度と見つからないかもしれない。
――いた。あの子だ。
わたしは植え込みの前にあぐらをかいて座っている女の子を見つけた。
黒いキャップを目深に被って、だぼだぼの服装でゆらゆらと揺れながら目の前のキーボードを弾いている。
その前にはカゴが置いてあって、立てかけられた小さなホワイトボードには『リクエスト受付中!』と丸っこい文字が書いてあった。
ゆっくりと彼女に近づいた。間違いない、演奏していたのは、この子だ。
声をかけるための心の準備をする暇すらなく、口が勝手に動いた。
「……あの! その曲!」
わたしの剣幕に、彼女はキーボードを弾いたまま、きょとんと目を上げた。
「インディゴ!! インディゴフィッシュの『青い光』ですよね!?」
勢い余ってなんだか詰問するような口調になってしまった。
じっと見つめるわたしの視線を受け止めて、彼女の口角がゆっくりと上がり、にこにこした笑顔になった。
「あー、きみもインディゴ、好きなの?」
彼女はその見た目に反して、実にのんびりとそう答えて、わたしに微笑みかけた。
「大好き! 尊敬してる! わたしの神様!」
「あはは、神様ときたかぁ」
我ながら妙なテンションだった。
けれど、わたしにとってのインディゴはそれくらい、とても言葉に言い表せない存在なのだ。
わたしはスマホを取り出して、待ち受け画面を彼女に見せた。
「お〜、これ、インディーズ時代のジャケ写だね。渋いね、きみ」
一人でどたばたしているわたしと対照的に、彼女はどこまでも落ち着いていて穏やかだった。
「あなたも好き? 何枚目のアルバムが好き?」
「うーん、それは難しい質問だなあ。初期のわけわからん路線も、その後のアコースティック路線も、後期のバンドサウンドも……うん、選べないね。でも、あえて一曲と言われたら、やっぱりこれかな」
彼女はしゃべりながら『青い光』を弾き続けている。その答えで、彼女が本物のファンなのが十分に伝わった。
「『青い光』。わたしも、大好き!」
ちゃんといたんだ、インディゴのファン。しかも、わたしと同年代の女の子なんて。
興奮のあまり目が潤んで、声がうわずった。
「あらら、泣くことないでしょー? でも、嬉しいな。こんなマイナーなバンド、誰も知らないもんね……きみ、ギターやってるの?」
「バンド、最近始めたんだ。中学の頃インディゴに出会って、それからずっと一人でDTMをやってたんだけど」
「おお〜、それはマジもんのガチもんだ。なるほど、それで神様か。後ろの子達がメンバーさん?」
わたしはその言葉でようやくみんなのことを思い出した。
はっとして振り返ると、深杜は心配そうに、ネルちゃんは興味深そうに、石川さんは不思議そうにわたしを見ていた。
「ここい、大丈夫? 何かあったの?」
深杜はわたしに声をかけながら、ちょっと警戒するような視線を女の子に向けた。
「ごめん、違う、違う。トラブルじゃないから」
わたしは恥ずかしくなって慌てて涙を拭い、両手をぶんぶん振った。どうも最近、涙腺が緩くて困る。
「そちらは、お知り合いの方ですか?」
石川さんが静かに訊いた。
「うん、知り合い。さっき知り合ったんだ。ね、ここいちゃん」
女の子は、石川さんのわたしへの質問に割り込んで答えて、おっとりと笑っている。
その様子を見て、深杜がさらに警戒のレベルを高めたような気がした。
いかん、こいつめちゃくちゃ誤解してる。多分わたしがこの子に泣かされたと思ってる。
「深杜、大丈夫だから。この子が『インディゴフィッシュ』の曲、弾いてたからさ、わたし、感激しちゃって、それでつい」
「『インディゴフィッシュ』って、あの、ここいがいつも聴いてるやつ?」
「そう、深杜が変な曲って言ったやつ」
「……だから、ごめんってば」
深杜は申し訳なさそうにした。でもそれで少しは落ちついたようだった。
「えー! すごいじゃないっすか! 運命の出会いじゃないっすか!」
ネルちゃんは一人で勝手に盛り上がっている。
「……なんか、ごめんね。みんな、びっくりしちゃったみたいで」
わたしが女の子に謝ると、
「いいお友達じゃないの。私、ここいちゃんをいじめた人になっちゃう所だったねぇ。あははは」
彼女は皆を見回して愉快そうに笑った。
「あの、わたし根岸ここい。あなたは?」
「私のことはミソラって呼んで〜。カタカナで、ミ・ソ・ラ。ミュージシャンっぽいでしょ?」
彼女はキーボードでミ・ソ・ラの音を弾きながら自己紹介した。
「……じゃあ、ミソラ」
「はいな」
「インディゴフィッシュの『青い光』、リクエストします。聴かせてください」
わたしは彼女の前のからっぽのカゴに500円玉を入れて、言った。
ミソラは少し驚いた後で、いかにも可笑しそうに笑った。
「あははは、ここいちゃん、そう来ますか。もちろん良いんだけどね、きみ、一個勘違いしているよ」
「勘違いって、何? まさか、めっちゃ料金高い?」
「いやいやいや、料金はもらい過ぎなぐらいなんけどね。私、ただのストリートミュージシャンじゃなくて『伴奏屋』なんだよね」
そう言ってミソラはホワイトボードを指差した。
確かに、よく見ると一番上に『伴奏屋』と書いてある。ポップな字体すぎて、字として認識していなかった。
「伴奏屋って、なに?」
「つまり、私がキーボード弾く。お客さんが歌う。そういうこと。どぅゆあんだすたん?」
「え!? ミソラが歌ってくれるんじゃないの?」
「いいじゃないですか、ここい先輩が歌えば」
ネルちゃんが雑に口を挟んできた。なんでみんなわたしに歌わせようとするんだ。
「いーやいやいやいや、こんな所で、わたし歌えないよ! わたしボーカリストじゃないし、こんな公衆の面前で、誰も知らない歌……」
「でも、ここいが一番好きな歌なんでしょ?」
深杜の何気ない言葉が、鐘の音のようにわたしの心に響いた。
思わず呼吸が止まった。
おずおずと視線を向けると、深杜のまっすぐな眼差しにぶつかって、わたしは何も言えなくなってしまった。
「あたしも聴きたいです、ここい先輩の一番好きな歌」
「大丈夫ですよ、私達がここで見てますから」
ネルちゃんと石川さんの優しい言葉に、わたしは追い詰められた。
「みんなからこんなにリクエストが来てるけど、どうする? きみの肩に掛かってるそれは、何のためにあるのかな?」
ミソラの表情が少し、真剣味を帯びたような気がした。
わたしは俯いて沈黙した。
まただ。
また、中学の頃のあの時の記憶。
『変な曲! そんなのじゃなくて、×××聴きなよ!』
悪意のない笑顔。
わたしのことを気遣ってくれているのに、あんなにも残酷な言葉。
心臓が冷えて、全身に血が通わなくなる感覚。
『ごめん、ごめんね——』
深杜の頬を、とめどなく流れる涙の粒。
あの時感じた、救われたような気持ち。
そうだ。
それにここには――
ミソラの目を見る。
穏やかで優しくて、でも確固とした揺るぎない瞳。
彼女だってここで、『青い光』を弾いていたんじゃないか。
――たったひとりで。
風に乗って、ストリートミュージシャン達の歌声がわたしに流れこんでくる。
みんな、自分の好きな歌を、あんなに幸福そうに、愛情をもって歌っている。
わたしは急に、こうして縮こまっていることが恥ずかしくなった。
自分の好きなものを突き詰めてきたはずなのに、何を今更人の目なんて気にしているんだ、わたしは。
――負けてたまるか。
わたしのインディゴフィッシュへの想いが、誰かに負けるはずがない。
ギターケースを下ろして、ファスナーを開けると、わたしのギターがいつも通りに出迎えてくれた。
お気に入りのトラ目の綺麗に浮き出た深紅のボディが、とても頼もしく見える。
「ここい、これ使って」
深杜が卓上用のミニアンプをバッグから出して、渡してくれた。
わたしはギターを提げてミソラの横に立ち、くるりと振り返った。
みんながわたしを見ている。
そして、道ゆく人たちはわたし達のことなど気にも留めていない。
遮るもののない屋外では、わたしの歌なんか散らばって行ってしまいそうだ。
目線を落とすと、ミソラと目が合った。彼女はまた口角を上げて、優しい笑みを浮かべている。
じゃらん、じゃらん、と、『青い光」の最初のコードを鳴らす。するとそれに合わせて、ミソラもピアノの音を出した。
わたしとミソラは無言で頷きあった。
わたしは正面を向いて、全部の想いを込めて、思い切りコードをかき鳴らした。
生まれて初めて耳コピした曲。この曲が弾きたくて、楽器屋でギターを買ったんだ。
基礎練習なんてすっ飛ばして、一人の部屋で、無我夢中で弾いた。何度も曲を巻き戻して、ひとつひとつ音を拾っていった。
今でも私は、楽器を弾く時には、必ずこの曲の最初の、Aマイナーセブンスのコードから始まるフレーズを弾く。弦を張り替えた時も、アンプから最初に音を出す時も。それはもうすっかりわたしの手癖になっていた。
けれども何千回と弾いてもこの曲は全然色褪せなくて、そしてわたしは今まで一度だって上手に弾けたと、上手に歌えたと思ったことがなかった。
わたしは生まれて初めて全身全霊で歌を歌った。
本職じゃないから大目に見てとか、他にやる人がいないから仕方なく、とか。
さっきまでの自分みたいに、甘ったれたことを言っている場合じゃなかった。
わたしが歌わなきゃいけないんだ。
誰よりもこの歌を愛しているわたしが。
この歌を歌う人は、もうこの世界にいないのだから。だからそれは、わたしの責任だ。
この歌を、伝えなければいけない。埋もれさせてしまってはいけない。
そうして歌いながらも、わたしの心は静かだった。
通り過ぎる人たちが、ちらちらとこちらを眺めるのが見えた。
夕暮れの空に、蝙蝠がよろよろと飛んでいるのが見えた。
笑顔でコンタクトレンズ屋さんのティッシュを差し出している、女の人が見えた。
何気ない光景がきらきらと、どんな絵画より美しく輝いている。
横ではミソラがキーボードを弾いている。
最後のサビに差し掛かって、力強く、激しくピアノの音色を奏でている。そして、わたしの歌に合わせて透明感のある声でハモってくれている。
嬉しかった。同じ歌を愛しているのが伝わった。
なんて心強いんだろう。
最後の一音を、ふたりで顔を見合わせて、宝物のように大切に弾いた。
そうして心の中で、ただただ敬愛する、この曲の産みの親の、あの人のことを想った。
また上手く歌えなかった。
ああ、あの人の歌が聴きたいな。
ぱちぱちぱちと、拍手の音がした。
きっとネルちゃんだろう、と見てみると、彼女は両手で顔を覆って俯いていた。
それなら深杜だろうか、と見ると彼女は両手を胸の前で握りしめていた。
石川さんはネルちゃんの背中をさすっていた。
ショーウィンドウの前に立っているOLさんが、こちらを向いて手を叩いていた。
少し離れた植え込みの縁に腰掛けたおじさんが手を叩いていた。
ネルちゃんの後ろで、ベビーカーの側に立つ若いお母さんが手を叩いていた。
たった3人からの拍手。
それはわたしが受けた初めての、丸っきりの他人からの、損得も気遣いもない、ささやかだけれど心からの賞賛だった。
わたしはなんて馬鹿なんだろう。
わたしの愛情はここにずっとあった。
あまりにも当たり前で、身近すぎて忘れてしまっていたんだ。
インディゴフィッシュ。ギター。音楽。そして歌。
わたしはこんなに歌が好きだったじゃないか。上手くなりたい。インディゴや、ユヅキさんみたいに、空を飛ぶみたいに自由に歌ってみたい。わたしは、わたしの音楽を、そんなふうに歌いたい。
「ここいちゃん、いえーい」
惚けているわたしに向かって、ミソラが手のひらを向けた。わたしはほとんど無意識で、そこに自分の手のひらを合わせた。
ネルちゃんがだだっと駆け寄ってきて、わたしに抱きついてきた。
最初に会ったあの日のように。
「先輩」
ネルちゃんはわたしに縋り付いて、涙でぐしょぐしょになった顔を上げて、震える声で言った。そして一度大きく深呼吸して、続けた。
「先輩は、歌を歌うべきです。あたし、こんな――」
そこから先は全然聞き取れなかった。わたしは感謝の気持ちを伝える代わりに、彼女の頭をぽんぽんと叩いた。
声が出せなかった。わたしの涙腺だって決壊寸前だったのだ。
「良い曲ですね。素敵でした」
石川さんが近づいてきて、ネルちゃんの背中をさすりながら言った。
見た事がないような優しい顔だった。理知的で忖度しない彼女のその賛辞がとても誇らしかった。
「だから、言ったでしょ」
深杜が口を開いた。頬を紅潮させて、のぼせたような顔でうっすらと微笑んでいる。
「ここいが歌うべきなんだよ」